「破壊」
2
久しぶりに口にした食事に、味覚とは本来こうして食べ物の味を楽しむためにあったのだと思い出した。
「サユは料理が上手だね。流動食なんて、どれも美味しいものじゃないと思ってたけど、このおかゆはとっても美味しい」
「本当ですか? ライトさんのお口にあったみたいで良かったです」
サユはそう、具を入れていないみそ汁をスープ皿に継ぎながら微笑んだ。
今、僕の目の前に並べられているのは、どこをどう見ても立派な日本の回復食だ。
食べ慣れた日本食の方が身体が受け付けやすいだろうと、わざわざ日本から輸入したらしい。梅の叩きが乗ったお粥と、具のないみそ汁、それから湯豆腐という、一見すればなんとも侘しいものに見えるが、長らく点滴で生活していた身体にはこれが本当に丁度良かった。
何より、食べ慣れた味というのが、これほど弱った身体に染みるとは思わず、初めて美味しいという感覚で涙が出そうになった。
「サユは日本語も上手だけど、生まれは日本?」
「はい、中学校の途中までは日本に居ました。そこから叔父様のお誘いで、こっちに留学したんです」
「そうなんだ。そんな頃から留学を決めるなんて、サユは頭がいいんだね」
ふわりと、女性が好きそうな柔和な笑みを浮かべてみれば、サユは分かりやすく頬を赤らめた。その様子に、サユを僕の味方にするにさほど時間はかからなそうだと内心ほくそ笑むのと同時に、はたしてその必要はあるのかという疑問が湧き上がってくる。
「(この女を味方に付けたところで、僕を捕らえている組織を探るのは難しいだろうな)」
ここ数日で、サユとは随分親しくなった。
生活の補助のほとんどを彼女にしてもらって接触が多いということもあるが、僕は常に彼女が好む『酷い目に会って弱っているが、自分にだけは心を開いてくれる男』を演じている。
弱々しく、君が居なければ駄目なんだと、依存を装うように、相手を褒め、頼り、乞う。まったくもって今までの僕とは正反対の在り方にプライドを傷つけられ、苛立ちを覚えたりすることもあるが、この後に及んでそんな事は言っていられない。くだらないプライドは捨てる、とノートの所有権を手放した時に言った言葉がここで本当になるとは思わなかった。
そんな努力の甲斐もあって、サユは不自由な恋人に接するように――というよりは、まるで兄の世話を焼く妹のような様子で、僕の世話をしていた。まぁ、本当の妹である粧裕がこんな甲斐甲斐しい世話をしてくれた事は一度もないが。
と、そうやってサユの様子を観察していると、彼女はどう考えても、篭絡するためのプロには見えなかった。
「(この様子を見るに、サユは本当にただの一般人か……)」
僕に褒められて嬉しさを隠せない様子の彼女に、これが演技ならば大したものだが。と、横目でサユを観察する。しかし、やはり僕にはどう見ても、彼女はただのあどけない少女にしか見えなかった。
おそらく、僕を捕らえている組織は、キラの能力の解明よりも、自分達の素性を明かさない方を優先したのだろう。僕と長期間一緒に居ることになる世話係が、親密になることで情報を漏らすことを危惧した。そこまで僕に正体を知られるのを恐れるのは、奴らのトップが顔も名前も公表している政治家、あるいは有名人だから、キラの能力で殺すと脅されないためか。
「(やはり、現状の扱いからして相手がノートのことまで把握しているとは考え難い。それならばいくらでも僕が優位に立てる。上手く僕の後ろ盾にすることが出来れば、あいつを追い詰めることも……)」
「月さんは、何か食べたいものはありますか?」
味の薄いみそ汁をスプーンで啜りながら考えていた時、サユがそうレシピ本を手に取りながら僕の顔を覗き込んでいた。
思考を中断されたことに若干の苛立ちを覚えながら、なんと言えばサユが好む答えになるかを考える。
「そうだな……リンゴ、かな」
「リンゴ、お好きなんですか?」
「好きっていうよりは、幼い頃、熱を出した時よく母さんがリンゴのすりおろしを作ってくれててね。だから、身体が弱ってる時はリンゴが食べたくなるんだ」
正直に言えば、今リンゴを見て思い出すのはリュークのことだけだろうが、こういった弱っているエピソードの方がサユには受けがいいことは、この数日で学んでいる。
そして僕の想像通り、サユは僕の回答にとても満足したように、それはいい案だと微笑んだ。
「リンゴのすりおろしなら、今でも食べられそうですね。さっそく今夜、リンゴを用意してもらうよう伝えておきます」
「本当に? ありがとうサユ、嬉しいよ」
「ふふ、それにリンゴなら、小さくカットすれば固形物を食べる練習にもなりますし……あ、でも、私、うさぎさんの切り方知らないんですよね」
サユの言う『うさぎさん』とは、おそらくリンゴの皮をウサギの耳に見立てた切り方のことだろう。たしかに日本で病状の時のリンゴの切り方と言えばあの形だなと、サユが日本出身というのは嘘ではなさそうだと確信しながら、僕は大丈夫だよとサユに笑いかける。
「簡単だよ。サユくらい器用なら、すぐに覚えられる」
「本当ですか?」
「あぁ、勿論。そうだ、僕も指先を動かす練習がしたかったから、僕が刃物に触れていいなら教えてあげるよ。こう見えても、妹が寝込んだ時は僕がよく切ってあげてたんだ、うさぎさん」
そう昔のことを語りながら、僕が刃物を使いたい、と言った時、サユがどんな反応を見せるかを観察する。少しでも警戒の色を感じれば、サユが僕のことを少なくとも罪人の扱いであることは知っていると判断できる。
「ライトさんは、妹が居るんですか?」
だが、サユは僕が刃物に触れたいという言葉など頭の中に入っていなかったようで、むしろ『妹』という単語に強く興味を示した。
「あ、あぁ……うん。四つ年下の妹がね、一人居るよ」
自分が僕の妹と同じ名前を名乗っている。という事を知らぬふりをしているのか、あるいは本当にサユは何も知らないのか。おそらく後者なのであろう彼女は、僕が粧裕のことを話す姿に、目を輝かせていた。
「妹さんのために作ってあげてたなんて、ライトさんはいいお兄ちゃんなんですね」
妹さんはライトさんみたいなお兄ちゃんがいるなんて、とっても幸せ者ですね。と、無邪気になんの疑問もなく笑う彼女に、何故だかどうしようもなく苛立った。
否、苛立ちと言うよりもこれは、己が粧裕にとって『いい兄』などに在れなかった、己への失望かもしれない。
「……どうかな。いい兄であろうとはしていたけどね」
いつもの表情を張り付けながら、僕の脳裏に浮かんだのは、僕の葬式で俯いたまま遺影を持っていた粧裕の姿だった。
おそらく、散々泣いて、泣きつかれてしまったのだろう。目元が真っ赤に腫れていた粧裕は、葬儀の時は涙が枯れ果ててしまっていたのか、生気が抜けた人形のような表情をしていた。
あんな粧裕は、初めて見た。
まだ幼い頃、数える程度だが兄妹喧嘩をしたことがあって、その時に粧裕を泣かせてしまったことがある。兄妹ならば、一度くらいはある、ごく普通のことだ。
でも、あんな表情をさせてしまったのは、初めてだった。
純粋で、善人だった粧裕にとって、それほど兄の死というのは堪えたのだろう。
いつも陽気で、少し生意気で、本当はとっくに理解している数学の問題をわざと分からないフリをして、教えてほしいと甘えてきた、可愛い妹。夜神粧裕。
その粧裕にあんな表情をさせた僕が、果たして本当に『いい兄』だったのだろうか。
「(違う、あれは、あいつが僕が死んだと偽装したせいで)」
頭の中で言葉が浮かんで、けれど、僕がキラとして捕まった時点で、粧裕や母さんには本当のことは伝えられず、結局僕は死んだこととして扱われていて、粧裕は同じ様に兄を失っていて、結局僕は――。
「えぇ、絶対に、ライトさんはいいお兄ちゃんですよ」
力強く、本当にそうだったと確信しているようなサユの声に、思わず顔を上げ、彼女の姿を凝視してしまう。
こんなにも感情を動かされてしまったのは、目の前に居る女が、偶然か必然か、粧裕と同じ名前をしているせいだろうか。
「私にも兄がいるんですが、これが本当にどうしようもない人で……。少なくともリンゴなんて剥いてくれたことありませんでした。ですから、妹経験者として、ライトさんはいいお兄ちゃんです。自慢の兄、ってやつですね」
サユのその言葉に、よく粧裕がふざけて僕のことを『自慢の兄』だと言っていた姿を思い出す。
そうだ、僕は常に父さんと母さんの、そして妹にとって自慢の存在であろうとして、でもそれは苦痛でもなんでもなかった。正義のお手本のような父と、善人の見本のような母と妹を守りたくて、僕はキラになって新世界を作ろうと本気で思っていた。それなのに、僕は一番守りたかった人達に、あんな。
「(違う、僕の選択は正しかった)」
とめどなく溢れる感情と懐古に、いったいどこまで自分は弱ってしまったのかと、冷静な己が軽蔑の眼差しを向けた。そして後悔を抱きそうになる前に、反射的に己は間違っていなかったのだと、自己暗示のような声が脳裏に響く。
「(僕は生きている。まだ間に合う、再びキラになって、悪魔を……Lを殺して、そして世界がキラを認めた時、家族の前に姿を現そう。そうすれば、まだ……)」
あんな悲しみを抱かせてしまった釣り合わせが出来るんだと、己に言い聞かせるように、味のしないお粥と共に弱音を飲み込んだ。
陵辱において、好き勝手に犯されて苦痛を覚えるよりも、気が狂うような快楽を与えられるほうが辛いなど知りたくなかった。
「ッ、はぁ、あっ、あ゛ぁ、あ――っ」
白い監獄にて、必死に身体を支配する快楽を逃そうと、僕は荒い呼吸を繰り返していた。
壁の向こうには世界なんて存在しないのではないか。なんて疑いたくなるほど、檻の中は僕以外、物音一つ聞こえないほど静かな空間で、僕の獣のような声がよく響いてしまう。
そんな僕を見つめながら、Lは大皿に乗った真っ赤なイチゴをまた一つ口の中に放り込んだ。
「月くん、動きが止まっています」
「っ、ふ……は、ぁ、はぁ」
平然とした様子でそう言ってのけるLに、僕は俯いていた顔を上げ、殺すつもりでLを睨む。だが、僕がどんな視線を向けたところで、Lが怯むことはない。
当然だ。今の僕は、両腕を縛り上げられ、天井から伸びるフックに腕を吊るされている。竜崎を殺すどころか、満足の抵抗さえ出来ない姿故、竜崎は僕のどのような言葉も殺意も脅威とみなしていない。
かれこれ数時間はこの体勢でいるせいで、腕は痺れどころか痛みすら感じなくなってきた。
だが、腕の感覚など僕にとっては些細なことで、今もっとも重要なのは、僕の下半身を支配する太いディルドだった。
赤子の腕ほどあるだろうか。性器を模した、グロテスクな赤黒い色をしたそれは、子供用の小さなイスのようなものに埋め込まれている。そして、僕の両足はそこに跨るように固定されており、どれほど腰を浮かせてもギリギリ、ディルドがアナルから抜けないように高さが調節されていた。
そんな拷問道具のような物の上で、僕が先ほどから強要されているのは、このグロテスクな形をしたディルドを使用した自慰だった。
否、これは自慰ではなく、ただの自傷行為だ。己で身体の中を抉るように腰を動かし、どれほど果てようとも意識を失う度に起こされ、悲鳴を上げる肉体を無視した行為を強要され続けるものが、自慰であるわけがない。
「早くしないと、四十秒が経過しますよ」
竜崎はそう、僕からも秒針がよく見えるように置かれた時計に視線を向けながら、早く動かなくていいんですかと、まるでこちらを気遣うかのように問いかけてくる。
竜崎が今僕に課している拷問の内容は、全くもってふざけたルールだが、言葉にすれば簡単なものだった。
このディルドを使用して、絶えず自慰を続けること。
四十秒以上、動きを停止した場合は『罰』が与えられること。
デスノートのルールである、名前を書かれたものは四十秒で死に至るという最も基本的なそれを揶揄しているであろう、実に腹立たしい遊び。
この四十秒というのは、僕が自慰によって射精してからもカウントされるため、精液を吐き出した感覚に身悶える時間なんてものは与えられていなかった。
故に、僕はつい先ほど何回目かも分からなくなってしまった射精を迎えたというのに、竜崎は容赦なく、早く続きをしろと急かしてくる。
「ッ……は、くそ」
僕がこんな情けない動きや格好をしている中、竜崎だけはいつものように甘いものを口にしながら平然としているのが苛立たしさを通り越して、殺意が湧いて吐息と共に溢れ出た。
しかし、どれほど僕が殺意を募らせようとも、この理不尽なゲームの支配者は竜崎であり、僕はただその『罰』を受けないようにと必死にルールに従うしかない。
だが、僕は散々その『罰』に苦しめられてきたというのに、僕の肉体は疲労と快楽による痛みを訴えて、思うように動いてはくれなかった。
やがて二十秒を過ぎようとする頃、竜崎は呆れたように僕の顔を覗き込むと、僕の視界に入るよう銀色のトレイに乗った『それ』を指先で引き寄せた。
「このままですと、また、こちらを打つことになりますが」
淡々とした言葉と共に、竜崎は薬液の入った小瓶――僕が四十秒以上動かなくなった時に『罰』として注射される興奮剤を摘まみ上げた。
「ッ、や、やめ!」
その小瓶と、銀色のトレーに乗っている注射器を見て、僕は思わず首を振って抵抗する。
竜崎に対して弱みなど見せないようにしようと決意していても、パブロフの犬のように注射器を見た瞬間、僕の脳裏に興奮剤を打たれた時の記憶が蘇って、恐怖に支配されてしまう。
竜崎が用意したそれは、いったいどのようなルートで用意したのかも、どのような成分が入っているかも分からない。ただひとつ言えることは、この興奮剤を注射されてすぐ、僕の体は燃えるような熱を孕んだ興奮と、苦痛に等しい快楽に支配されるという事だった。
既に僕は今日この薬を打たれており、体に刻み込まれた恐怖はまだ新しい。
いつも打たれる時に掴まれる二の腕に竜崎の指先が触れた瞬間、僕は悲鳴を噛み殺しながら身を捩った。
「ッ、ひ、は、ぁ――っ、ぅ!」
「いいんですか、月くん? 今日はもう一度打っているので、あと二本で致死量ですよ」
「うご、く……っ、から! 僕に、ふ、ふれ、るな!」
「えぇ、頑張ってください」
こんな状況で、薬物中毒では死にたくないだろうと、竜崎の光を宿さない瞳がそう語る。
その深淵のような瞳を睨み返しながら、僕はもう一度、腰を動かしディルドの上で律動を再開した。
あれほど疲労して、もう動けないと思っていたのに、恐怖心というのは随分な原動力になるらしい。僕が動く度、杭のように打ち込まれたディルドが、ぐちゅぐちゅと耳障りな水音を響かせた。
「は、っ……が、ぁ、ひぃっ、ぁ……あ、あ゛ぁ」
緩慢な動きとはいえ、ディルドが僕の直腸内の肉壁を押し上げ刺激するせいで、喉の奥から悲鳴が絞り出される。
何よりも、いくら『罰』があるからとはいえ、己の意思でこんな屈辱的な動きをさせられているというのが、あまりにも腹立たしく嗚咽を誘う。
こんなことならば、一番最初の日に行われたような、ただ竜崎が僕の身体を好き勝手弄ぶような、肉の穴として物のように扱われる方がまだマシだった。
しかし、こいつの趣味は犯罪者を犯すことだろうに、僕に自慰を目の前でさせておきながら、まったくもって竜崎自身の昂りは感じない。何かの実験を観察するかのように、淡々とした視線を僕に向けながら、捜査本部にいた頃のように甘いものを口にしているだけだった。
「はぁ、あ゛……っ、ふ……、あ、ぁ」
もう、イったところで何も出てこないのに、それでも続けさせられる行為に、意識が揺らぎかける。
額から零れ落ちる汗が地面に放たれた精液に混ざって、水溜まりを作っていくのを遠目で見ながら、この行為はいつ終わってくれるのだろうかと再び考えを巡らせた時だった。
地面に影が落ちたかと思うと、竜崎が僕の腕を掴み上げる感覚がして、思わず顔を上げる。
腕を掴まれるのがどういう意味を持つか、僕は嫌と言うほど知っていた。
「おい、待て、ッ、りゅ、ざ……っ!」
竜崎の方に視線を向ければ僕の想像通り、その手には薬液の入った注射器が握られており、冷たい針が僕の腕に当てられた。
「うご、いて、動てる! だろ、おい、竜崎、りゅざ、きッ!」
ふざけるな、お前が用意したルールを破ってなどいないのに、その薬は僕が四十秒間動かない時だけのものだろう、どうしてお前の方からルールを破るんだ、なぁ、竜崎。と、言葉にすることの出来ない思考が頭の中に渦巻いて、痛みを覚える。
しかし、どこか冷静な僕が、これが拷問の基礎的な手順だろうと囁いた。
ああ、そうだ、知っているとも。こちらにルールを提示しておいて、そのルールに縋り始めた頃に、あちらからわざとルールを破るのだ。
心の拠り所にしていたものを破壊される事で、精神的な負担をかける、実にシンプルならがも効果的な方法。
けれど、頭で理解していても、あの感覚への恐怖が刻み込まれた僕は、止めろと悲鳴のような声を上げてしまう。
「まだ、動ける、から! 嫌だ、もう、それは、嫌、だッ! イきたくない、止めろ、壊れたく、ない!」
まだ、人間としての精神の尊厳を守っていたいと、全身を揺らして抵抗するも、既に疲労の限界を迎えていた僕の力など、竜崎にとってはか弱いものだ。
僕の主張を聞き入れることなく、注射器の針が、僕の皮膚の中に入り込んでいく。
「りゅうざ、き――――ッ!」
名前を呼んだ瞬間、腕に感じた冷たさに、薬が打たれたことを確信して、全身が震える。
ああ、打たれてしまった。あの薬が、僕を壊す薬が、僕の中に。
目の前が真っ暗になるような絶望感を抱き続けられたのはほんの数分の間だけで、すぐに僕の頭は絶望よりも湧き上がってきた熱に主導権を受け渡し始めた。
「あ、あああ゛、あぁ、あ――っ」
獣のような、意味をなさない、ただの音でしかない声が唾液と共に喉から溢れ出る。
痛いほど早くなる鼓動に身体が震え、僕を吊るしている拘束具の鎖が、ガチャガチャと金属音を響かせた。
「ああ、あ゛、あぁッ、が、はっ、ああ、あ゛!」
駄目だ、意識が、奪われる。ただ全身を駆け巡る興奮と熱を快楽によって処理するだけの、人間ではないものに変わっていってしまう。嫌だ、そんな姿、したくない。見せたくない。竜崎には、Lには、もう、絶対にこんな姿を晒したくない。
だからどうか僕から目を背けてくれと、乞うような気持ちで顔を上げれば、相変わらず暗い瞳をした竜崎は、どこか退屈そうに僕を見つめていた。
「夜神月、貴方が壊れたら殺します」
僕はこの監獄に捕らえられて、何度も竜崎から告げられた、生に執着する僕が精神を保つための脅迫。
何故か、竜崎はその言葉を口にする時だけ、ほんの少し、どこか嬉しそうに微笑むのだ。
けれど僕が竜崎のその微かな表情に気づく前に、興奮剤による熱が僕の頭を支配して、身体が――。
「ッ――――は、ぁ!」
体が痙攣するようにベッドから飛び起きた僕は、目の前に広がる白い監獄ではない光景に、ようやく今まで見ていたのが夢であること理解した。
未だ早く脈打つ鼓動に、興奮剤を使用された時の恐怖が僕を苛んでいたが、何度か深呼吸を繰り返すうちに次第に精神の落ち着きを取り戻していった。
「は、ぁ……最悪だ」
ようやく絞り出せた言葉は、檻の記憶とこんな惨めな姿になっている己へ向けたものだった。
悪夢に魘されるのは、これで一体、何度目だろうか。
こうして安全な場所に逃げて来られてもう二ヶ月近くは過ぎたというのに、未だに己の精神は安息の地を見つけていないのだと痛感させられる。
今の僕を悩ませる苦痛の追体験は、通称PTSDと呼ばれる心的外傷後ストレス障害と呼ばれるものであることは、医者の診断など無くとも分かった。
だが、精神的な苦痛というのは原因が分かっていようが、もう不安など過ぎ去っていると理解していても、こうして夢を見ている時などに襲い掛かってくる厄介なものだ。人間の脳の構造はどうにもままならないもので、今の僕にはどうすることも出来ない。
こればかりは耐えきるしかないと、せめてもの抵抗に僕は再びベッドに伏せて毛布を抱きしめ、ここはもうあの監獄ではないのだと再確認を行う。
大丈夫、もう、ここに僕を苦しめる悪魔は居ない。僕はもう、あの苦痛から開放された。と、何度も何度も自分に言い聞かせて、こちらを見つめる悪魔の視線を忘れようとする。
しかし、見てしまった夢が、あの薬を使った時の内容だったせいだろう。
冷静になろうと深呼吸をする度に、身体の中心に渦巻く己の熱に気付いてしまい、最悪だと奥歯を噛み締めた。
「くそ……っ」
おそるおそる毛布を退けて視線を下半身に向ければ、そこには痛いくらいに勃起して寝巻きを押し上げる、己のペニスがあった。
あんな地獄のような夢だというのに、否、地獄のようにリアルな夢だったからこそ、だろうか。つい先ほどまでディルドで己を痛めつけていたような気がして、その熱がまだ身体の中に残っている。
「っ……」
何度か寝返りをしてみたり、身体を丸めてみたり、素数を数えてみたりと意識を紛らわせようとしてみるが、どれも上手くいかない。それどころか目を閉じるだけで、再び悪夢が目の前に蘇って余計に僕を苛んだ。
分かっている。この熱から解放されるには、出してしまうのが一番だ。それが、あの悪魔の元で散々教え込まれた対処法であり、僕の日常だった。
いっそのこと自分の腕にでも噛み付いて、痛みさえあれば身体の中を渦巻く熱を忘れられるかと思ったが、しかしそれでは自傷の跡が残ってしまう。毎日のように全身の検査をされている今、自傷の跡が見つかれば精神的にかなり不安定な状態だと思われ、まともな交渉が行える可能性が低くなる。それどころか、精神が壊れているならばと薬物を使ってさらに壊してもいいと判断されかねない。
ならば、たとえあの檻の記憶を引き摺り出すことになってしまったとしても、身体に跡が残らない方法で処理するしかないと、僕は何度も考えを巡らせた末にそう覚悟と結論を決めた。
「っ、は……」
僕は痛む身体をなんとか起き上がらせると、壁伝いでバスルームを目指した。今ではサユの介助無しでも別荘内を歩き回ることは出来ていたが、記憶のせいか体が泥に沈んでいるかのように重かった。しかし、せめて抜くならバスルームだと、体に鞭を打つ思いで足を進めた。それは監視カメラに映らないようにという考えもあったが、何よりベッドの中で処理したのでは、精液の匂いで連鎖的に他の記憶も思い出してしまいそうだった。匂いというのは厄介なまでに記憶と結びつくもので、少しでも嗅いだら思い出してしまうに違いない。
自分のもの、あいつのものを問わず、何度も何度も注がれて飲まされて、まるで精液が僕の命の源で主食だとでも言わんばかりに、散々与えられた記憶が。
「うぐっ、うぅ……」
少し考えただけで、胃の中をグチャグチャに掻き回されたような吐き気に襲われる。駄目だ、これ以上、あの記憶を思い出してはいけない。
喉元に迫り上がってくる胃液を必死に飲み込みながら、僕はようやくの思いでバスルームへと辿り着く。
「っ、はぁ……ぁ、は」
扉を開けて映り込む、白い大理石をメインに作られたそこは、既にサユの介助で何度も使用したことがある広々とした場所だ。まだ体が自由に動けない間は、ここでサユに頭だの体だのを洗ってもらっていた事をふと思い出す。
普通はそういう介助は同性がするのだろうが、僕を捕らえている組織は僕があの悪魔の元でどんな陵辱をされたのか、その仔細は知らずとも身体検査によって大体のことは把握しているのだろう。医者から世話係から何まで女性で固めているのは、そういった理由からの配慮か。
どうでもいい気遣いだ。あの悪魔の恐怖は男だからとかそういうものじゃない。とても一般人には出すことの出来ない、天才特有、あるいは狂気特有とでも言うべき気配と執着だ。そしてその気配が、誰が僕の世話をしようが、記憶という形で僕に襲いかかってくる。丁度、今のように。
「っ……」
再び吐き気が込み上げてきて、僕は必死に奥歯を噛み締めながら寝巻きを脱ぎ捨てた。ここにも監視カメラは仕掛けられているだろうから不自然ではないように、何より勃起した下半身を隠すようにして風呂場の中に入る。
「っ、は……」
あいつとの捜査で学んだが、風呂場というのは蒸気によって監視カメラが仕掛けにくい。おそらく、僕を捉えた組織も元々別荘として作られたこの建物では、風呂場の中までは監視カメラは仕掛けてられてはいないだろう。
本当は冷たいシャワーで全身を冷やしたかったが、万が一カメラが仕掛けられている場合を想定して、湯気ですぐに鏡が曇るほどの熱湯を流す。お陰で、僕の痴態は自分の視線からも見えにくくなって、少しばかりではあるが気分が晴れた。
「ん……」
バスタブの中に座り込んで、ゆっくりと勃起してしまった自分のペニスに指先を伸ばす。瞬間、肉体の生理的な機能としての単純な快感と、記憶に染み込んだ陵辱が蘇って、吐き気にも似た嫌悪感が全身を襲った。
「っ、く……そ」
自然と口から出た罵倒に、奥歯を噛み締めながら、必死に記憶を押し殺す。
こんなもの、さっさと出してしまえば解放される。人間の生理現象など単純だ、男の性など特に。
しかし、いくら擦って快感を拾おうと努めてみても、体の中に決定的な刺激がもたらされることは無かった。
「っ……、ぅ、はぁ」
先走りとシャワーの蒸気でドロドロになった手のひらを眺めながら、体の中で一番疼く場所から気を逸らしていた己に気づく。
分かってはいた。あの悪魔の元で教え込まれたのは、単純なペニスへの刺激ではなくて、僕の肉体を作り替えるような性感帯の開発だ。特にアナルの、前立腺への刺激だけで絶頂に導かれるように、入念なまでに、壊されるよに犯されてきた。それこそ、ペニスが本来の性器であることを忘れさせるほどに。精液を出せないまま絶頂をさせられた経験だって何度もあって、あの悪魔から解放させられる直前はずっとそんな絶頂しか迎えていなかった。
体が熱くて、苦しくて、余韻がいつまでも残り続ける、あの快楽が。
「ッ……!」
己の利口で合理的な脳が導き出してしまった答えに、息を飲む。
どんな形にしろ、イクにはアナルを己の手で弄らなければならないことを調教され尽くした肉体は知っていた。
問題は、そんな屈辱的な行為を自分からするというプライドがズタズタにされる苛立ちと、あの悪魔を思い出してしまう恐怖だった。
今の僕に、そんなことが出来るのか。しかし、早くこの体の熱を解放しなければ、いつまでもあの悪魔の幻影を見続けることになってしまう。
二者択一。選ばなくてはいけない、悪夢と悪夢の選択肢。
そして僕が結局選んだのは、苦痛が長引かない方がマシだという、この熱を解放する方法だった。
「ふっ、ぅ……は、あ、あぁ」
自分の意思で、性器の下、窪んだの場所に指を伸ばす。
この場所にやって来て、悪魔から解放されて二ヶ月は経過しているが、久しぶりに触れたはずのそこは、酷く簡単に自分の指を受け入れた。ズブズブと埋まっていく人差し指に、そう簡単に悪魔によって開発された肉体は戻ってくれないのだという悔しさと失望が精神を苛む。
しかし、わざわざ意を決して挿入したおかげか、指先が前立腺に触れた瞬間、今まで己を何度も絶頂に導いてきたあの快楽がやって来て、思わず目を細めた。
「はぁっ……あ、あぁ……っ、んぅ!」
懐かしいと表現してしまうには、未だに生々しい傷を思い出させる感覚。嫌悪感。
だが、それを上回る快感に、僕の指は自然と教え込まれた動きでそこを刺激してしまう。
「っ、ひぃ、あ、あぁ……あが、あぁ!」
口元から溢れ出る唾液を拭うことも出来ず、体が求めるままに穴の中にあるそこを弄ってしまう。最初は一本だった指も、気付けば二本、三本を数を増やして、少しでもあの地獄の日々に受けた感覚を再現しようとしていた。
嫌だ、止めたい、今すぐにこの指を抜いてしまいたい。どうしてまだこの身体は快楽の支配を受けているんだ。こんな喘ぎ声を上げてしまう自分が許せない。吐き気がする。こんなの僕じゃない。夜神月では、キラではない。
しかし、どれほど心の中で抵抗しようと肉体は止まることを知らず、監獄の日常を再現するように刺激を求めてしまう。
そして、ついに電流が駆け抜けるような、太ももが激しく痙攣する感覚と共に、求めていた絶頂が襲いかかってきた。
「ッ、――――! が、ああぁ、ああ!」
喉の奥から無理矢理引きずり出された声と共に、ドクドクとペニスから精液が吐き出される。どうやら幸いな事に、白い監獄で僕を散々苦しめた精液の出ない絶頂ではなかったらしい。
その事実にどこか冷静な己が安心を覚えたが、しかし直ぐに嗅覚を刺激した精液の匂いに、その安心が間違いだったと気付いた。
「うぇっ、ぐぅ、うえ、ぇっ! ごっほ、うぅ、う!」
己の意思等では決してコントロールできない、瞬間的に溢れてきた胃液に、喉が焼けるのを感じた。
胃の中のものは全て消化されていたおかげか、口の中に溢れるのは唾液と胃液だけだったが、しかし一度吐き出しても嗚咽感は消えることなく続いて、僕は耐え切れずシャワーを口元に当てた。
口の中を満たす温かいお湯に、胃の中を洗うような思いで飲み込んで、再び吐き出す。
その声や音が脱衣室の監視カメラで記録されていないことを願いながら、僕は何度も何度もお湯を飲んでは吐き出してという行為を繰り返す。
「っは、ぁ……はぁ、は、あぁ……う、ぅ……」
ようやく収まった嘔吐感。何度も吐き出したせいですっかり体力を奪われ、バスタブの中に横たわる。肌に当たるシャワーの水圧や温度さえ煩わしかったが、しかしコックを捻る気力もなく、ただただ呆然と湯気で曇った天井を見上げた。
「くそッ……、くそ、くそ、くそッ!」
すっかり変わり果ててしまった、己の惨めな肉体に、苛立ちが募りタイルの壁を殴りつける。
しかし、それが傷なるほどの力は今の僕にはなく、余計に自分を惨めに感じることになってしまった。
「最悪、だ」
もう何度も頭の中で繰り返した言葉を口にしながら、僕はそっと瞼を閉じる。
その暗闇の中に、悪魔の姿を見ないようにと祈りながら。