「破壊」
3
半年以上、あの悪魔によって監禁されて、口にするのも憚られるような事ばかりされてきた。
犯され続けることが日常となった中で、それでもどうしても慣れないことはあった。身体の限界を超えて絶頂を何度も迎えさせられる事も、痛めつける事が目的としか思えない玩具で腹の中をかき回されるのも、頭が真っ白になるような訳のわからない薬を使われることも、日常ではあったが慣れることはなかった。
その中でも、口の中に注がれる精液の味もまた、決して慣れることのない物の一つだった。
「ぐ、っぅ、うぅ……! うぐ、ううぅ――ッ!」
その日、僕の口に取り付けられたのは、開口具と呼ばれる金属製の道具だった。
医療用の物とは異なり、明らかに特殊なプレイに用いる為に作られたであろうそれは、無理矢理口を開けさせフェラチオだのイマラチオだのをさせることを目的としている道具だ。
事実、あいつにこの開口具を付けられてからというもの、僕の口の中にはずっと勃起した奴のペニスが押し込められており、かれこれ数十分はずっとあいつのものを咥えさせられていた。
「夜神月、もっと頑張っていただかないと、終わりませんよ」
まったく動かない僕に焦ったくなったのか、あいつは退屈そうに言いながら僕の頭を押さえつけ、ペニスを口の奥まで挿入してきた。そのせいで喉の奥を亀頭が抉るように付いてきたが、僕は頑なに舌先を動かすことなく、嘔吐きながらも悪魔の姿を睨み上げる。
あいつの目的は、僕の口を玩具のように扱って、勝手に腰を振ってイクことではない。無論、初めの頃はそういったこともされ、喉の奥に無理矢理精液を出されもしたが、今のあいつの嗜好は僕自身の意思で己のペニスに奉仕をさせることらしい。
だから、あいつは開口具で開けた僕の口の中に突っ込むだけで、自ら積極的に動こうとはしない。お前の舌で舐めてイかせてみせろと、僕からの行動を求める。
そんなに動いて欲しいのであれば、今すぐにでもこの悪魔のペニスを噛み千切ってやりたくなるが、開口具の固い金具がそれを拒む。だから、僕は何をするでもなく、ただ喉奥に押し込まれるペニスの圧に嘔吐きながらも、あいつの姿を睨むだけの平行線が続いていた。
「っ、はぁ……が、あぁ……あ、ぁ」
少しでも口を動かしてしまえば、あいつの思い通りの刺激を与えてしまいそうで必死に動きを止める。そのせいで、ダラダラと唾液が溢れて床に大きな滲みを作りあげた。
お陰であいつの先走りの味に口内が支配されずに済んでいるが、しかし、同時に身体から水分が失われていくのを感じて、疲労感を覚えた。ここ最近、食事と共に与えられる水分が減らされていることに気づいていたが、どうやらこのプレイの為だったらしい。カラカラに渇いた喉の痛みに顔を顰めれば、ニヤリと悪魔の顔に笑みが浮かんだ。
「喉が渇いて仕方ないでしょう。貴方が頑張っていただければ、すぐに喉が潤せますよ?」
まるで鞭と飴の内、飴を与えてやるとでも言うような気配だが、僕にはあいつの言う『喉を潤せる』というのがどういう意味なのか知っている。
どうせ、喉の奥に精液を吐き出してこれがお前の求めていた水分だとでも言うつもりなのだろう。実にふざけている。誰が従ってやるものかと悪魔を睨めば、あいつは再びつまらなそうな表情に戻ってため息を吐き出した。
「頑なですね。そんなに嫌ならば別の水分補給という手もありますが、アレは、あまりオススメは出来ません。……頭のいい月くんなら、私が何を言いたいか分かりますよね?」
言葉にはしない。僕に想像させる形で脅しかけてくる男の声に、開口具が軋むほどに噛み締めた。
ああ、分かっている。この悪魔が何を考えているかなど、それこそキラ事件の捜査をしていた時からずっと、僕とこいつの思考は近いところにある。だから僕は目の前の男が考えている『オススメできない水分補給』というのが、すぐに尿のことを言っているのだと気付いた。
「ぐ、が……あ、あぁっ」
脅しを本当に実行してくる男の習性を知っているせいで、身の毛がよだつ嫌悪感が全身を走り、悲鳴のような声を上げてしまう。
まだ、こいつの尿を飲まされた経験はない。しかし、犯されている時に中に出された事や、気を失う寸前に顔にかけられた事は、記憶が曖昧だがあったように思う。ということは、こいつは僕を陵辱するためであれば、いくらだってそういう事をしてくるのだろう。
だから、今回もこいつは本気だ。本気で、このまま現状維持をするようなら、遠慮なく僕の口の中に放尿してくる。
そんな未来を想像して、全身を走った悪寒に、思わず腰が震えた。
精液か、尿か。どちらも唾棄すべき、人間が口にするべきではないものだ。だが、その二者択一であれば、不本意ではあるが、まだ飲むことに慣れている精液の方がマシのように思た。
そんな揺れ動いた僕の心を敏感に察知した悪魔は、どうしますかと問いかける風を装って、僕に逃れられない選択を突きつけてくる。
「月くん、ここ二日間、水を抜いているのでとても辛いかと思いますが。どうでしょう、私をイかせて、その精液を全て飲むことが出来れば、コップ一杯の水を飲ませてあげましょう」
ほら、この通り。と、あいつが監視カメラに視線を向けると、用意していたらしいワタリが水差しとグラスを檻の中に運び込んで来た。執事のように恭しい仕草で運ばれてきた銀のトレーを机の上に置きながら、あいつは水差しからグラスに水を注いだ。
「ほら、飲みたいでしょう?」
カラカラと氷の涼しげな音を響かせて注がれた水は、すぐにグラスに結露した水滴が付くほどよく冷えているようで、思わず喉が鳴る。あの水でこの渇いた喉を潤すことが出来れば、どれほど満たされるだろうか。
こいつの、この悪魔のペニスを舐めて、その精液さえ飲めば、あの水が飲める。
拒めば、水どころかこいつの尿を無理矢理注がれて、飲まされる。
その二択を差し出されて、後者を選ぶ事など、僕には到底出来なかった。
「ッ、は、ぁ――――、が、あぁ」
悪魔の誘いに釣られて、僕はようやく、自分の意思であいつのペニスに奉仕するように、舌先を動かした。
「……利口ですね、月くん」
僕の頭上で、悪魔が笑う。
こいつの言う通りになっている以上、まったくもって今の自分の行動が利口な選択肢だとは思えない。それどころか、ズブズブと深みに陥れられているような気さえしてくる。
だが、こうする他に、自分にはもう選択肢がないのだと、あいつのペニスに舌先を這わせた。
「んっ、は……あ、あぁ」
無理矢理口の中でペニスを扱かれた、所謂イマラチオの経験であれば、この監禁生活の中で何回もあった。前髪を乱暴に掴まれたまま、喉奥を亀頭によって突かれ、何度も嘔吐ずいては、喉に直接出された精液のせいで溺れ死ぬのではないかと思った。そんな僕の身体を玩具にしたような行為。と言っても、この監獄で玩具のように扱われなかったことなど、人権のある存在として誰かに接された記憶などそもそも無いが。
しかし、こうして自分の意思で舌を動かし、こいつをイかせようとするのは、今回が初めてだった。
同じ男だから、どこをどうすれば気持ち良いのか、効果的に絶頂に導くことが出来るのか、想像するのは容易い。
だが、こうして監獄に閉じ込められる前までは、こうして自分からフェラチオをするどころか、足を開いてペニスを受け入れることすら想像したことも無かった己が、すぐにその行為を満足に行えるかと言えば話は別だ。
「うぅ、っ――ぁ、ああ、が、っは」
固く勃起したペニスの感覚は、もう何十分と咥えさせられているせいで慣れた。
だが、口の中を支配する、先走りの味であろう塩味と、生臭い感覚に、ドロドロとした舌触りだけは、どれだけこの行為を繰り返そうと慣れるような気がしない。その味から逃れたくて、口の中を唾液で満たそうとしても、水分が失われた身体ではそれも難しかった。
だから、早くこの不快で屈辱的な行為から解放されたくて、僕は必死に悪魔のペニスを舐め上げては、なんとか自由になる舌だけで包み込もうと努力を重ねる。
「っ……上手いですね、月くん。貴方はこんなところまで優等生のようで」
僕の頭を押さえつける力を強めながら、微かに声を震わせて悪魔がそう僕を蔑む。
こいつがイきそうなのは僕にとっても早く解放されるという意味で喜ばしくはあるが、だとしても黙って勝手にイって欲しい。こいつの言葉一つにプライドを掻き乱されたくない。
だから、僕はこいつの言葉など聞こえていないフリを続けながら、変わらずペニスへの奉仕を続ける。
開口具があるせいで口が閉じられないから、吸ったり、口の中全てで包み込むことは出来ない。まぁ、そもそも開口具が無ければこんな僕を苦しめるだけのモノなど、早々に噛みちぎっていただろうが。
しかし、どれほど現状を恨もうと僕が使えるのは舌先だけだと、諦観と共に、僕はまた先端から溢れる先走りを舌に塗りつけるように男のペニスを舐め上げた。
「ぅ、あ……あ、は、ぁ……ッ!」
苦い、不味い、喉が渇いた、口の中が不快だ。
そんな苦痛を抑え込みながら、ふと水の音に視線を上げれば、そこにはグラスに注がれた水をこれ見よがしに飲み込む悪魔の姿が見えた。
男はただの水では飲むに値しなかったらしい。僕がこんなに求めている水を一口啜ると、不満そうな顔で口を離し、すぐ近くに置いてあった角砂糖をグラスの中に何個も沈めた。そして、グラスを揺らして水に砂糖を溶かすと、今度は満足そうな表情で、その唯の砂糖水を飲み干した。
そんな悍ましい姿を見ていると、よくそんなものが飲めるものだという軽蔑にも似た感情が沸き上がってくる。そして同時に、砂糖の中毒者のように甘い物しか口にしていないのだから、今僕の口を犯すこの先走りの味だって、せめて不快ではない程度に甘くなってくれないものか。なんて、馬鹿らしい考えが浮かんできた。
「ほら、月くん……もうすぐですよ」
空になったグラスに再び水を注ぎながら、悪魔は僕に見せつけるようにグラスを揺らす。
きっと冷たい水で溶け残った砂糖が混ざった、甘い水に違いない。だが、今の僕にはそんな水でさえ、欲しくてたまらない。
だがら、悪魔の言葉通り、僕は再び視線を男のペニスに戻して、何度も僕を苦しめてきたそれを愛でるように舌先を絡ませた。
「う、あ……あ、っ――あ、ぁ」
その努力の甲斐もあって、ようやく男の身体が強張るように固くなった。
「ッ――、月くん、そのまま」
あいつはそう、僕の頭を強く押さえつけ、喉の奥まで自分のペニスを挿入してきた。人間の機能として、喉の奥に押し付けられたものを吐き出そうと僕の身体が抵抗するが、しかしその喉の動きでさえ男の快感を誘ったのだろう。悪魔は僕を抑える手を緩めることなく、そのまま腰を震わせながら、ようやく僕の喉奥に熱い精液を放った。
「ッ、――――! ん、うぐ、ううぅ! ううぅ!」
吐き出された、ドロリとした液体に、喉が犯される。
決して慣れることのない精液の味が口の中に広がり、胃の中が逆流するような嘔吐感に苛まれるが、しかしあいつが僕の頭を押さえつけているせいで、吐き出すことも出来ない。
何度も喉の奥を叩きつけるように、断続的に吐き出される精液を必死に耐えながら、開口具を固く噛み締める。
そうして暫くの間、身悶えるような苦痛に耐えていれば、ようやく全てを吐き出し終えたらしい。ビクビクと脈動を続けていたあいつのペニスの震えが止まり、大きな吐息を零しながら、ようやく悪魔の身体が僕から離れた。
「っ、はぁ……あ、あ゛……あ、が」
喉にへばり付く精液に、胃液が込み上げてきたが、しかしあいつが求めたのは僕にフェラチオを自分の意思でさせて、その精液を飲むことだ。ここで吐き出してしまえば、あいつは床に嘔吐した精液を舐めてでも口に含めと言ってくるだろう。事実、そうやって今まで何度もあいつや自分のものを問わず舐めさせられてきた。
そんな屈辱をもう一度与えられるくらいならばと、必死に精液を溢さないようにと顔を上げて耐えていれば、酷く楽しそうな表情をした悪魔と目が合った。
「どうですか、月くん。久しぶりの水分は、美味しくてたまりませんか?」
そんなに、一滴でさえ溢さないように口の中に留めるのだから、さぞ美味しいのでしょう。と、悪魔の嘲りに、殺してやるという衝動が全身を駆け抜ける。しかし、開口具で無理矢理開かされている口では言葉を出すことも出来ず、僕の殺意はただ呻き声として空気を震わせるしか叶わなかった。
そんな僕の無様な姿をひとしきり堪能したのだろう。あいつは満足そうな表情を見せると、約束通りグラス一杯に水を注ぎ入れた。
「っ、は……、う、ぁ」
ようやく、水が飲める。
本能的に身体が求めるものに、精神というのは争い難く、僕は今か今かとあいつが僕の口を支配する開口具を外すのを犬のように待つ。
だが、あいつの指先は僕の口元に伸びることはなく、何故か前髪へと伸びてきた。
「では、ご褒美の水です。よく味わって飲んでください」
あいつはそう言うと、何故か自分がグラスの水を口に含んだ。
また、与えると言って、寸前に奪うことで僕の精神を痛めつけようとしているのかと思ったが、しかし今回の趣向はそうではないのだと、僕は悪魔がこちらに口を近づけてきた事によって知った。
「ッ、う、あぁ!」
あいつは僕の真上に顔を持ってくると、あろうことか自分の口から僕の口の中へ水を注いだ。
それは一見、親鳥が雛鳥に餌を与えている、慈愛を含む行為に見えるかもしれないが、しかしこの関係で行われるの行為はただの陵辱が目的だということは明白だった。
なぜ、この悪魔から口移しで水を飲まされなければならないのかという不服感と嫌悪感から、今すぐにでもこの水を吐き出してやりたい衝動に駆られる。
だが、たとえあいつの口内の温度で生ぬるく、そして砂糖のせいで甘味を帯びた水であっても、ドロドロと喉の奥までへばり付く精液を飲み込んだ身体にとってはまさに恵の水そのもので、吐き出すなんてことは到底出来なかった。
だから、口を開けたままで飲みにくく咽そうになるのを堪えながら、僕は必死に悪魔が注いでくる水を受け止め、飲み込む。
「う、が……あ、あ゛ぁ…………」
こんな、屈辱的に与えられる水に至福を覚えてしまうなんて、どうかしている。
そう脳内は僕に殺意を抱けと訴えてくるのに、身体はどこまでも素直に水を受け止めてしまう。
やがてグラス一杯分の水を注ぎ終えた頃、あいつは満足そうに微笑みながら、僕の開口具のベルトに触れた。
「夜神月、貴方が壊れたら殺します」
いつもの台詞。この白い監獄で聞き飽きた言葉。
だが最近、この悪魔は僕が壊れるのを心待ちにしているのかもしれないと思った。
そんなに僕を殺したいなら、早く殺せばいいだろうに。
しかし、そんな自殺願望にも似た言葉を己の口から紡ぐなど、それこそ僕が壊れてしまった証だと、心の奥底で殺意を燃やしながら悪魔を睨みあげる。
僕は絶対に、自分から死など望まない。必ずここから逃げ出して、この悪魔を殺してやる。
そんな僕の殺意を見下ろしながら、あいつは再び僕の口の中にペニスを突き立てた。
「随分と回復しましたね、ライト」
僕が捕らえられている別荘の一室にて、初めに目覚めた頃からずっと僕の診察を任されている医者の女性が、そう微笑みかけてきた。
彼女が操作するパソコンの画面に映し出された血液検査の数値に視線を向けながら、確かに彼女の言う通り随分と良くなった数値に僕自身も笑みを携えて頷いた。
「名医のおかげですね、ありがとうございます」
どうやら僕の容姿や態度は日本以外でも好青年として通用するらしい。彼女は僕の言葉に明らかに気を良くした表情で、そう言ってもらえるのは嬉しいと返してきた。
そんな彼女の表情を伺いながら、ここで外部と繋がっている医者の好印象を稼いでおくのは重要だと、僕は次にどのような態度でいるのがいいだろうかと頭を働かせた。
ここに捕らえられて、そろそろ三ヶ月という時間が経過しようとしていた。夏先で少しばかり暑い思っていた天候も、今は冬の前触れが寒いと感じる日々が増えてきた。
最初の頃は、僕が点滴に繋がれていようが、さっさと僕を捕らえている奴らが僕にキラとしての交渉に来るのだと思っていたが、エージェントらしき男は初日に顔を見せただけで、後は僕に関わってくるのは医者かサユのような介護者だけだった。お前の生殺与奪はこちらが握っている、と脅して弱っているところに漬け込むにはベッドから立ち上がれなかった頃の方が効果的だっただろうに。
無論、今の常に監視されている状態も命を握られているとは言える。毒の入った食事、あるいはスナイパーによる射殺、毒ガスの噴霧等、命の危険は常に警戒していた。だが、そんな僕の警戒等まったく無意味だとでも言うように、奴らは僕に何もしてこなかった。
「(僕の意思一つで殺せると思っているから、警戒している……という線ならありがたいが)」
僕を捕らえている組織がデスノートのことを殆ど把握していない。というのは、最初の頃から分かっていた。しかし、いくら未知の方法での殺人方法を有している相手だとはいえ、まったく交渉を試みてこないのにも、僅かな焦りを感じてくる。
望ましいのは僕が完全に回復するのを待ち、人を殺すための殺人兵器ではなく、協力者として交渉される事だが。しかし、この慎重さを見ていると、もしかしたら僕を捕らえている組織内部でも、僕の取扱について揉めているという可能性もあった。
「(当然だ、キラの能力は世界を変えてしまうほどの脅威を持っている。国で持つとなれば政治的な問題がどうしても絡んでくるものだ、が……)」
キラの能力を政治的に利用されるのは、僕の目指すべき新世界に相応しくなければ応じたくないが、それも今後の状況次第だ。
だが、それよりも今恐れているのは、再びあの悪魔が僕を見つけ出さないかという可能性だった。
世界の警察を動かす能力を持ち、エラルド・コイル、ドヌーヴといった世界三大探偵全ての名前を持つ相手が、僕の居場所を調べ上げるのにどの程度の時間が必要か。特に、あいつにとって、キラは一度捕まえておきながら自分の手をすり抜けて消えた相手だ。負けず嫌いのあいつが、そのままキラを逃したままなど考えられないし、捜査本部に居た頃も言っていた。奴は、何を犠牲にしても、どんな代償を払ってもキラを捕まえると。
無論、僕を捕まえた組織もL対策は行っているだろう。そう信じたいが、僕の扱いを決めかねているような体たらくでは困る。現状を知るためにも、早くなんとかして僕を捕らえている組織の人間と交渉を重ねていきたい。
「(そうでもしなければ、また、僕はあの監獄に……)」
必死に考えないようにしていた、もしもの可能性が脳裏に浮かんできて、目眩が襲いかかってきた。
もしも、再びあの悪魔に捕らえられるような事になれば、僕は――。
「体力も大分戻ってきたんですよね。最近、サユとテニスをしたと聞きました」
「え、あぁ、そうですね」
医者の言葉に、僅かに返答が遅れてしまったかと危惧したが、どうやら僕の動揺は悟られなかったらしい。いくら交渉がなく焦っているとはいえ、この場であいつの事を考えたのは失敗だったと、僕はすぐに脳内から悪魔の姿を追い出して、いつも通りの好青年を演じる。
「やっぱり、スポーツはいいですね。身体を動かせて、本調子に戻ってきたのが実感出来ます」
「サユが驚いてましたよ。病み上がりなのにライトはテニスが上手でまったく勝てなかったって」
「昔、少しテニスをやっていた時期があるので、そのおかげですかね」
そう、相手がこちらをどの程度把握しているのか伺いながら、当たり障りの無い会話をしていた時だった。
控えめなノックと共に、サユの入室してもいいかという声が聞こえた。
「すみません、診断中に。丁度焼き上がったので、先生にもと思って」
そう言って医者が開けた扉から顔を覗かせたサユの手には銀色のトレイが乗っており、その上には二組のティーカップと小皿が並んでいた。瞬間、香ってきた甘い匂いに、まさかとサユの顔を見上げれば、そこにはとても自慢気な様子でこちらを見つめる姿があった。
「アップルパイが焼けたので、是非先生にもと思いまして」
「あら、とても美味しそう。ありがとうね、サユ」
穏やかな一場面。菓子を持って現れたサユと、その見事なパイのできに笑みを浮かべる女。ごく普通の、まったくもって変哲のない場面だ。
しかし、そのアップルパイの、焦げた砂糖の甘ったるい、添えられたバニラアイスとシナモンの香りが、明確に僕へあの監獄の記憶を思い出させる。
あの悪魔はずっと甘いものしか食べなくて、それは僕を好き勝手に犯している時も同じで、僕のことを陵辱しながらあいつは何時もこうやって甘い香りを漂わせるケーキだのパイだのお菓子だのを口にしていて。ああ、そういえば、犯されている最中に戯れのようにパイを口の中に入れられたこともあった。それは悪魔の慈悲などでは無くて、僕の口に入る前に、僕のものとあいつの精液だの体液だのが混じったものがかけられて、それは丁度、焼きたてのアップルパイの上で溶け出しているバニラアイスに似ていたような気が――。
「ライトさん、アップルパイ、嫌いでしたか?」
頭が思考の海に溺れかけていた僕に、サユの問いかける声が響いて、僕の意識はようやく現実に戻ってくる。
しばらくの間、呆然としてしまっていたらしい。反応が無かった僕の顔を覗き込んでくるサユに、いつもの表情を保てと己の本能が警告を鳴らした。
「あ、ううん。好きだよ、ありがとう、サユ。とっても美味しそうだ」
機械的に紡いだ言葉に、僕の意思など無い。
アップルパイが自分の好物だったのか否か、そんな記憶など、どうでもいい。今の僕の内側に渦巻くのは、如何にしてあの悪魔の気配を消し去るかという、その一点だけだった。
「今朝、旬のリンゴが入荷したって聞いて。それで、ライトさんも随分回復してきたので、お祝いも兼ねて作ってみたんです。贅沢にアイス付きですよ」
美味しそうでしょうと、今まで作ったことのない菓子を作って得意気なサユへの恨みが湧いてくる。なぜ、外部と接点のある医者が居る中で、僕を試すような事をしてくるのか。いっそ、僕の精神力をテストしているのだと思いたいほどに、サユの行為が疎ましかった。
だが、ここでサユを拒んでしまってはいけない。己の精神に壊れかけの部分があるなど、あの悪魔を未だに克服できていない等ということは許されない。僕は再びキラに戻るために今こうして生きている。それなのに、いつまでもあいつの影に怯えるような、お菓子の甘ったるい匂いにトラウマが刺激されて身動きが出来なくなるなんて無様な姿を晒すことはあってはならない。
だから、僕は自然な流れは何かと考えながら、少なくともサユが作った菓子程度も食べられないなんてどうかしていると自分を説得しながら、アップルパイにフォークを刺した。
「とっても美味しい、サユ。こんなに料理が上手なんて、ライトもいい人に世話してもらってますね」
先にアップルパイを口にした医者が、僕のことを幸せ者の代名詞のような視線で見つめる。
その温かな空気に苛立ちを感じながら、僕はようやく一口分のアップルパイをフォークに乗せて、未だに温かさを保つそのパイの一切れを口に含んだ。
瞬間、口の中に広がった甘さに、喉の奥から胃液が逆流するような嘔吐感を覚え、思わず声が出そうになったが、フォークを噛み締め悲鳴を必死に押し殺す。美味しいだの、上手に焼けているだの、そんな表向きのありきたりな感想を一つ言えばいい。そう分かっているのに、身体はいつまで経ってもアップルパイの与える甘さに恐怖を抱いていた。
悪魔の姿が、僕を観察する悪魔の姿が、見える。
あいつは、いつものように僕を見つめながら、お菓子を貪って、今日はどんな辱めを僕に与えてやろうかと考えながら――。
「うん、さすがサユだ。いつもの料理も美味しいけど、今日のパイは特別に美味しいね」
意識が白い監獄に飛ぶ前に、僕は必死に、思ってもいない言葉を紡いだ。
それは、常に優等生として振る舞うようにしてきた、僕自身が生まれた頃から身につけていた『求められている姿』の模倣であり、感情等込められていない。しかし、散々染み付いた好青年の顔というのは僕を守ってくれるもので、その言葉がどこか一本調子であっても、サユは僕の言葉をその通り褒め言葉と解釈した。
「よかった! ライトさんに喜んでもらうために気合いを入れたので、嬉しいです」
サユの言葉に、どうやら僕は上手くやり過ごすことが出来たらしいと、安堵から深く呼吸を繰り返した。当然だ、たかだか甘いものを口にするくらいで、疑問に思われているようでは今後の交渉に差し支えがある。
僕はこっそりとフォークを皿に置きながら、一緒に運ばれてきた紅茶を口にして、口内に留まる甘みを流し込もうと火傷しそうな温度も顧みずに飲み込む。喉が焼けるような気がしたが、胃液に何度も焼かれた喉は痛みによく慣れており、気にかけるほどでは無かった。
「それじゃあ、失礼しますね。あ、おかわりが欲しければいつでも言ってください!」
サユはそう言うと、ようやく診察室代わりの部屋から姿を消した。
まるで嵐が過ぎ去ったような心地で彼女の後ろ姿を憎しみと共に見送っていると、向かい側に居た医者の携帯の着信音が鳴り響いた。
「ごめんなさい。電話が来たみたいで、ちょっと待ってて。丁度アップルパイもあるし、温かい内に楽しんでね」
そう言いながら、医者はどこか慌ただしそうに部屋から出て行く。
様子からして仕事の関係、おそらく僕を捕らえている組織からの連絡だろう。これはいい情報収集の機会だと、僕は胃のなかに沈ませたアップルパイの甘さを紅茶の渋みでかき消しながら、カルテが表示されたままのパソコンに手を伸ばした。
「さて……」
この施設が、元々は別荘であることはすぐに察しが付いていた。おそらくあいつから僕を隠すためにも、元々ある厳重な場所よりも急拵えとはいえ偽装を優先したのだろう。僕に関わる人数を最小限にしている点からしても、慎重なことはよく伺える。
しかし、その弊害として、ここのシステムは簡単に侵入することが出来た。ほぼほぼ外部との接続がないスタンドアローンではあるが、しかし監視カメラの映像に関してはこの建物内のパソコンからであっても簡単に盗み見ることが出来る。
事実、僕は既に医者が使用しているパソコンからこの建物内の監視カメラの映像を全て見られるようになっているし、今この部屋の監視カメラの映像もループによって偽装工作も出来るようになっていた。この辺りの技術はキラ事件捜査本部で覚えた事、というのがどうにも気に食わないが、しかしこうして僕の身を助けているのだから文句は言えない。
『――――、それで、王子様の状態はどんな感じだ?』
医者が電話の為に向かったロビーの監視カメラをパソコンの画面に映しながら、耳を側立てて話に集中する。
電話の会話相手の声も拾う優秀なマイクのおかげで聞こえた声に、僕は随分ふざけた名前で自分が呼ばれているのだと知り、苛立ちと共にため息を吐いた。
『王子様は驚くほどに快調。最初に診た時は、少なくともマトモに起き上がるには半年近くかかると思ったのに』
『そんなに酷い外傷もあったのか?』
『いえ、致命的なものは無かったわ……というより、どれも致命的にならないギリギリのところまでだった、と言うのが正しい。あれはなんて言うか、拷問する側の執着を感じた。絶対に殺しはしない、けど精神だけは確実に追い詰めることを最優先した……執念としか言いようのない状態だった。本当に彼、あの若さでいったい何に巻き込まれたの?』
まさに苦々しいといった様子の医者に、僕は内心その表情を嘲笑う。
医者を始め、僕の周囲に居る人間が僕のことをどの程度知っていて、同時に知らないのかは分かっていたが、どうやら僕は彼女の中で『悲劇の王子様』というわけらしい。要人のような扱いをされている謎の若い東洋人が、変質者によって性的拷問を長期間受けて救出された。そして僕が何者であるのか、誰に監禁されていたのかも一切機密であり、何一つとして明かされない。というのは、たしかに医者の立場としては悩ましいものなのかもしれない。
それが、世界を揺るがせたキラと、それに唯一立ち向かった影の支配者、探偵のLだと知れば、彼女はいったいどんな反応を示すだろうか。キラならばこんな拷問を受けても仕方ないと思うか、あるいはあの悪魔が世界の切り札なんてものをしている事に恐怖を感じるか、興味はあったが同時にあんなふざけた末路がキラ事件の行く末だった事を広めるのは御免だとため息が出た。
『よく、この三ヶ月でここまで回復した……普通なら廃人になってもおかしくないくらいだったの』
『それなら、そろそろ上に彼の回復を伝えたほうがいいか?』
その言葉が聞こえてきた瞬間、僕はようやくこの時が来たかと、思わず身を乗り出してモニターに視線を向ける。
このまま主治医の医者がいいと言えば、僕はようやく交渉のテーブルに立てる。あいつが僕を追いかけているであろう中、何より雑木林に埋めたノートの行く末も含めて、動く時間は早いほうがいい。
しかし、その問いかけにただ一言だけ頷けばいいというのに、医者は相変わらず悩ましそうな表情のまま携帯電話を反対の手に握り直しながら、頭を押さえた。
『そのことなんだけど……まだもう少し、様子を見た方がいいかも』
『何か気になることでも?』
『世話係の子がね、まだ時期じゃないって、かなり気にしてるの。こういうのは私より世話をしている人間の方が敏感に気付くものだから……。実際、さっき三人でアップルパイを食べたんだけど、その時の彼、何故か突然発汗が増えて、明らかに様子がおかしかった。アップルパイを食べただけよ? それで、普段はあんなに聡明な彼が乱れるなんて、いったい何がトリガーになっているのか……。実際は、見た目なんかじゃ想像も出来ないくらい不安定なのかもしれない』
医者のその言葉を聞いた瞬間、あの女の望む姿を演じすぎたかと、思わず舌打ちが飛び出た。
サユの信頼を得る為に弱々しい人間を演じてきたが、ここに来てそれが障害になるとは、あの女の発言力を甘く見ていた。否、サユに対してはもう今は十分に回復したと度々アピールを重ねていたが、それよりもあの女の中の『理想の夜神月』という人間の像が、この人はまだ弱っていると、僕への先入観を抱かせているのだろう。理想とは、事実を歪んだ形で認識させる厄介な感情だ。サユの僕への感情がただの介護者だったならば良かったが、現状そうではない、色恋に近しいものを含んでいるのは厄介だった。
医者が来るタイミングにアップルパイなんてものを持ってきて僕への疑いを高めて、まったく邪魔な事しかしない女だ。ミサにも大分苛つかせられてきたが、今回もまた女に困らされるのかと、自分に女難の宿命でもあるのかと恨みたくなった。
あの女に大丈夫だと思わせなければ、永遠に僕の交渉への道は閉される。
「サユへの対応が急務、だな……」
ポツリと呟きながら、手元のアップルパイに視線を落とす。
サユ、僕を哀れな被害者として、庇護の対象として見てくる女。僕に全てから守ってくれる王子様を期待する女は、それこそミサを含めて多くいたが、僕に憐れみを見出して守ろうとするタイプは初めての経験だ。無論、元々僕が弱者として振る舞う事がなかったというのもあるが。しかし、初めて扱うタイプの女であろうとも、既にサユは僕にある程度惚れている。手駒にするには十分な土台であるには間違いない。
ならばミサや他の女達同様に、恋愛感情をほのめかせて協力者にするのが一番いいだろう。
「先生、ライトさん、入っても大丈夫ですか?」
僕がどうやってあの女を落としてやろうかと考えていた時だった。タイミングよく、ドアをノックする音と共にサユの声が聞こえ、僕はすぐに監視カメラを見ていた画面をカルテの画像に戻し、大丈夫だよとサユに声をかける。
「どうかしたの? サユ」
「何度もすみません。そろそろいつもの薬の時間なので、今一緒に飲んでもらおうと……あれ、先生はどちらに?」
「あぁ、ちょっと電話みたい。それより、薬ありがとう。もらうよ」
僕の健康管理という名目で処方されている薬を受け取りながら、僕はそっとサユの顔に視線を向ける。しっかりと服薬しているか見届けるのがサユの仕事でもあるため、僕が間違いなく薬を飲んだか確認されるのも慣れた。
「相変わらず、この錠剤は苦いね。でも、今日はサユのアップルパイがあるから平気だ」
「ふふ、是非、お口直ししてくださいね」
「そうするよ。そうだ、先生が戻ってくる間、サユも一緒に食べない? ほら、座って」
僕はそう言いながらサユを先ほどまで医者が座っていた椅子に導くと、サユは少しばかり焦ったように顔を上げる。
「あ、そしたら私の分を持って……」
「うん? いいよ、僕の分を一緒に食べよう。ほら、サユ、あーん」
椅子に座らせたサユの目の前に、自分のフォークで切断したアップルパイの固まりを差し出す。僕の行為に、当然ではあるが、サユは顔をそれこそリンゴのように赤らめながら待ってと首を振った。
「えっと、その……っ!」
「……あ、ごめん。つい、妹にするみたいにしちゃった。ごめんね、嫌だった?」
「妹さん、と?」
「うん。妹って甘いものが好きでさ、よく僕が食べてるケーキも欲しがったから、一口だけだよって、こんな感じに」
「そうなんですか……じゃあ、一口だけ、いただきますね」
妹とよくしている。というエピソードのおかげで、僕の側にはたいした気持ちはないと解釈したのだろう。サユは羞恥心を覚えたことそのものに、さらに恥ずかしさを覚えたようで、それを掻き消すように僕の差し出したアップルパイを口にした。
まるで、ミサが求めてきた恋人のようなやりとり。所有権を失っていた頃、よくデートだと称して一緒の部屋でケーキを食べていた時、ミサに似たようなことを求められたが、ここで役に立つとは思わなかった。
「どう、美味しいでしょう?」
「は、はい。自分で作ったんですけど、こんなに美味しく出来るなんて、頑張った甲斐があります」
「うん、サユはお菓子作りの天才だ。もう一口、食べる? 今度はバニラアイスと一緒に」
ほら、と僕は再びサユの口元にアップルパイを運ぶ。
ミサが見たら何時だかのように「その女の子、殺しちゃう」と暴れているところだろうが、彼女に義理立てなどする必要もない。
僕はサユが頬を赤らめながらもアップルパイを咀嚼しきったのを確認すると、今度はそっと彼女の瞳を無言で見つめる。
「あの、ライトさん……?」
彼女が僕の無言に耐えられないのは知っている。だから、こちらを不思議そうに、意識を集中させてきたところを狙って、この女が望んでいるであろう言葉を告げる。
「ごめんね、サユ、嘘ついた。本当は、妹にこんなこと、したことない」
「え、あっ、えっと、ライトさん?」
「本当は、僕がこうしてサユに食べさせたかったから……。嫌だった?」
そう言いながら少し困ったように微笑めば、サユは実に分かりやすく動揺と混乱を表情に浮かべた。
「い、嫌だなんて……っ! そんなこと、ない、です」
「……そっか。それって、期待してもいい。って、ことかな?」
何を期待しているか、とまでは名言しない。
そんなことまで言わなくても、僕にある程度惚れている女であれば、僕のこの些細な言葉から様々なことを勝手に想像する。事実、それはサユも同様で、僕が首を傾げて尋ねた『期待』という言葉に、色々と考えを巡らせているらしい。分かりやすく顔を真っ赤にして、それはもしかしてと、僕の顔色を伺ってきた。
さて、ここまで来ればあと一押しだ。と、僕はそっとサユの手を握る。その瞬間、一瞬彼女の身体が震えたが、こちらを拒絶する動きはない。
「サユ、君が僕の傍に居てくれてよかった。君じゃなかったら、僕はここまで回復しなかった。心の底から思うよ……。それだけ君は献身的で、温かくて、優しくて……それがサユの仕事だって分かってても、僕はサユを思わずにはいられない」
「ライト、さん」
「サユ……君は、君にとって、僕はただの仕事相手? それとも、こうして手を握っても嫌じゃない相手?」
ほら、こうやって、と。サユの両手の指先と、僕の指先を絡めて握り合い、互いの顔の前に持ってくる。分かりやすい恋人繋ぎ、ミサが喜んだ握り方。高田清美が講義の間にこっそりとしてきた握り方。そして今は、サユから僕への告白を引き出すための握り方。
「サユ、君の思いが聞きたい……」
真剣な表情を取り繕って、彼女の瞳を真直ぐに見つめる。
このまま見つめ続ければ、彼女の方から僕への告白の言葉を引き出せる。そう確信していた。
しかし、見つめ続けた彼女の瞳からは、何故か震えながら涙が溢れだしていた。
「ライト、さん。無理、しないでって、言ったじゃないですか……」
「……サユ?」
僕と付き合えるとなった女の子が泣き出すことは今までも何度かあったが、しかしサユの様子は喜んでいるというよりも、純粋にどうしてそんな風に言うのかと、僕の言葉に対して悲しんでいる様子だった。
まさか、僕に対して見ていたのは兄のような感情であって、恋人としての関係は求めていなかった。とでも言うつもりか?否、それはありえない。先ほどのアップルパイを食べさせた反応からも、そもそも日々の生活で彼女が僕に見せる態度からしても、彼女が僕のことを恋愛的に好いていることは分かっている。
だが、サユはついに顔を両手で覆って泣き始めてしまい、こんな反応は想定していないと心の中で舌打ちをする。しかし、期待を持たせた相手を慰めないわけにもいかないだろうと、僕はサユの背中をさすってやりながら優しさを取り繕う。
「サユ、ごめん。そんなに嫌だったなら……」
「違う、違うんです! ライトさんのことは……好きです。とっても嬉しいんです。でも、でも……ッ! ライトさんには、あんなに酷いことがあったのに!」
あんなこと。
その一言だけで、僕はサユが僕が監禁で何をされていたのか知っているのだと理解した。
一方、彼女も自分の言葉のせいで、僕が監禁の事を思い出してしまったと悟ったのだろう。明かにしまったという顔で僕の事を見上げると、今度はごめんなさいと震えながら謝りはじめた。
「その、えっと、私……実は、先生からライトさんのこと、色々、聞いて、いて」
彼女は必死に言い訳を探しているようだったが、正直に言って彼女が僕の監禁の詳細について知っている事はたいした衝撃ではない。僕の世話をする上で、ある程度知っていなければならない立場だろう。
だが、彼女は僕の触れてはいけない傷に触れてしまったのだと、自分の言動を軽はずみだったと後悔しているらしい。それはそれで罪悪感からこの女をコントロールするのが容易くなったと思ったが、サユはまだ言葉を続けた。
「すごく長い期間、ライトさんは、酷いことをされたって……そんな状態だったのに、恋愛なんて、普通、できるわけないです……」
「……サユ、さっきも言ったように、僕は君に」
「私は――ッ! 私は一週間でしたけど、開放されてからずっと死ぬことばかり考えていました!」
初めて叫んだサユの声に、普段は優し気な表情を崩さない彼女でもこんな声を出せるのだなという驚きと共に、だからこの女は頑なに僕が回復しているはずがないという先入観があるのだと理解した。
「(あぁ、なるほど、サユは『被害者側』だったことがあったのか)」
まるで自分は被害者だったことなど無いかのように、僕は他人事のようにサユの過去を想像する。おそらくサユは過去に、彼女が言う通り一週間程度、僕のように監禁された事があるのだろう。そして、常に死ぬ事を考えるほど絶望を味わった。何歳の頃だったかは知らないが、ただの少女であれば当然の反応だろう。
しかし、厄介なことに、彼女はそれを僕も同じだと思い込んでいる。自分と同じく、本当は死にたいと思っているに違いない、と。
まったくもって、ふざけるなと言ってやりたい話だ。たしかに僕の身体は、あの悪魔によって蝕まれたが、精神は敗北していない。それどころか、死にたいなど一度として思ったことなどない。僕はあの監獄で、絶対にあの悪魔に殺されないように精神を保ってきた。心が破壊されぬよう、それが己の死だと知っていたから、最後の時まであの悪魔を睨み、そして必ず殺してやると憎悪を募らせた。
しかし、自分と同じ境遇だと感じたサユは、自分がそうだったのだからという経験から、自分の想像の型に僕を当てはめて『夜神月はまだ回復していない』と周囲に触れまわっている。
「(彼女が犯罪被害者であることには同情もするが……しかし、これが僕の世話役というのは厄介だな)」
善人が悪人によって虐げられる、彼女はその典型的な例だ。
しかし、だからこそ、彼女は僕の現状を正確に把握することが出来ない。それは仕事を任せる相手として適任ではないと事前に分からないものかと思ったが、こうして選ばれてしまっている時点で彼女の雇い主は把握していなかったのだろう。
「(しかし、恋愛感情を利用しようと思ったが、この頑なまでの先入観……どうやって解くべきだ?)」
サユのおかげでもうそんな恐怖はないんだと口説いたところで、トラウマを抱えたことのあるサユの先入観を崩すのは難しいだろう。否、サユの先入観の理由を知ったのだから、それを医者に告げることで彼女の報告には真実性はないと訴えた方が早いか。と、僕が次の策について考えている時だった。
「私には、救いが訪れました……でも、ライトさんには、まだ」
サユの口から出た、救いという言葉に、もしかしたらと勘が働く。
「……救い?」
「……はい、私には、神様の救いが訪れたんです。神様が…………殺してくれたんです」
神様。救い。殺してくれた。
その言葉は、今まで僕が新世界の神として行ってきた事そのものであり、ここに来てようやく都合のいい事が起きたと僕は思わずニヤケそうになる口元を抑えた。
「ねぇ、サユ。その神様は、もしかして……」
「……はい、キラ様です。神様なんて、崇めちゃいけないって、分かっているんです。でも、でも……私には、キラ様が、あいつを殺してくれた、神様なんです」
ああ、これだ。ミサと同じだ。
サユは、この女は、キラに人生を救われた人間だ。
何が、人類史上最悪の犯罪者だ。何が、この世から滅ぼすべき悪人だ。
見ろ、やっぱり、世界にはこうしてキラによって救われた人間がごまんと居るじゃないか。たとえ世間では悪人としてキラを裁いたところで、善人の本音はサユが口にする通り『救い』だ。
その事実を確認しながら、僕はそっと、サユの身体を抱きしめた。
「サユ……僕らは、出会うべき運命だったんだね」
かつてリュークにワンパターンだと馬鹿にされたが、しかし女がこの言葉に弱いことは確実であると知っている僕は、再びその言葉を繰り返す。
一方、僕の言葉の意味が理解できないと、不思議そうにこちらを見つめてくるサユに、僕は優しく兄のように、救世主のように、そして彼女が信じている神のように微笑んで告げる。
「サユ、僕が、君の神様だよ」
「……え」
サユの顔に浮かぶ、驚愕。
しかし、よくよく観察してみれば、その表情の中にあるのはまったくの予想外という感情だけではなく、もしかしたらという期待が込められているのが分かる。
「サユ、君は頭がいいから、今まで何度も不思議に思っただろう。僕が、いったい何者なのかって」
「……それは、その」
「どうして、日本人の僕が、この国で、こんなに厳重な警備と監視カメラの中、治療を受けているのか。でも、医者どころか世話係の君にも、全てが内密。僕にファーストネームを名乗ってもいいけれど、ファミリーネームは名乗ってはいけない。理由を尋ねても極秘だと言われる。ここまで条件が揃えば、サユなら自然と、一つの予想がついてしまう」
彼女が考えたことがあるであろう思考回路を一つ一つ丁寧に辿ってやれば、サユはどうして自分が考えていることを知っているのかと、酷く驚いた様子で僕を見上げた。
まるで心を読まれているみたいだと如実に語る表情に、その程度の思考などいくらでも考え付くものだと笑ってやりたくなったが、しかし君は頭がいいからと優越感を抱かせてやる。
「だって……そんな、たしかに、ずっと、もしかしたらって。でも、本当に……ライトさんが」
ボロボロと涙を流しながらこちらを見上げるサユの瞳に映っているのは、もはや彼女が求めた『まだ傷つき弱っている夜神月』ではなく、『自分を悪夢から救ってくれた神様』の姿をしていた。
「本当だよ、サユ。僕が……キラだ」
「ライトさんが、神様……」
信じられない。と、ボロボロと涙を流しながら僕に縋りついてくる彼女に、僕は内心ひっそりと笑みを浮かべる。
ミサの死神の目を失った今、どうやってあの悪魔への対抗手段を得るべきか考えていたが、その点においてサユはミサ同様に都合がいい。キラに救われた人間であり、僕に恋愛感情を抱いており、そして純粋で盲目的だ。自分の考えに固執する傾向、思い込みの激しさ、扱いは難しいが、しかしこのまま彼女の神様として振る舞っていれば、サユにミサのように死神の目の取引をさせることは容易だろう。
「サユ、君と出会えて、そして君のことを救えていたのが僕で良かった」
新しい駒が出来た事に喜びながら、僕は縋りついてくるサユを優しく抱きしめてやる。
そんな僕の抱擁に、サユはまるで幼い子供のように泣きじゃくりながら、僕の胸を涙で濡らしながら何度も何度も『神様』と僕のことを呼ぶ。
「今日が、私の運命の日です」
そう、感動と恍惚に染まった彼女の瞳を確認しながら、僕は脳裏に悪魔の顔を思い浮かべた。
覚悟しろ悪魔、もうすぐお前を殺してやれる。