「月くんは家庭教師」
そのアルバイトを決めたのは、大学生になった僕に社会経験の一環として受けてみないかという、父さんからの紹介からだった。
いわゆる『おこずかい』というものは大学生になってからも継続的に貰っていたし、僕自身せっかくの大学生活、今までよりも学びの幅が広がったことで勉学を優先したい気持ちもあった。
けれど、父さんから紹介されたアルバイトがいわゆる家庭教師と呼ばれるもので、あまり勉強時間を拘束しないと先方が約束をしてくれた。
それならばと、僕は少しばかり気軽な気持ちで一度、お試しということでその話を受けることになった。
ここに来るようにと言われて向かった先は、想定は出来ていたがかなりの豪邸だった。
広い庭だの大きな門だの、フィクションの中で出てくるような豪邸の要素をおおよそ満たしたその家のインターフォンを押して名乗れば、老齢の男性の声と共に、自動的に門が開いた。
そうして僕を出迎えてくれたのはいかにも執事といった風貌の老人で、ワタリと名乗ったその男はよく来てくださいましたと僕を家の中に招き入れた。
「今回、家庭教師として勉強を見ていただきたいのですが。何分、Lは家の中でも出不精なもので。自室に直接ご案内させていただきます」
つまりは引きこもりか。
という感想を心の中にしまい込みながら、僕は案内されるがままワタリの後に続く。
その間に聞いた話によるとどうやら、ここに住んでいるのはこのワタリという世話係と、僕が家庭教師をするLという男だけらしい。
Lの家庭環境がどういったものか深くは聞かなかったが、だとしてもたった二人で住むには広すぎる家だ。
よほどの金持ちか、社会的な権力のある人間か。というのは、刑事局長である父さんへ直々に相談できた相手というだけで、簡単に察しがついていた。
だとすれば、親の権力を笠に着た、生意気な子供の可能性もあるな。と、自室に引きこもりがちという話も踏まえて、なんとなくLという人間に対してのイメージを固めていた時だった。
「こちらです」
ワタリが、家主であるLの部屋のドアを仰々しく開けた瞬間。
その奥に見えたLという人間の姿に、その可能性は予想外だったと、僕は思わず驚愕の表情を露わにしてしまった。
「はじめまして、私がLです」
淡々と挨拶する男――もっと正しく表現するならば『男児』は、床に置かれたパソコンから目を離さずにそう言った。
外見年齢からして、どれだけ高く見積もっても五歳児程度だろうか。
キーボードを叩く指先はふっくらと丸みを帯びており、頬も子供特有の赤みを帯びている。
家庭教師と言うのだから、てっきり大学受験を控えた高校生か浪人生だとばかり思っていたが、この年齢相手では家庭教師というよりはベビーシッターが必要な年齢ではないだろうか。
少なくとも、未就学児相手ならば僕よりもっと相応しい人材が居るだろうと、僕は困惑気味にワタリに視線を向けた。
「驚かれたかと思いますが、ご安心ください。Lはいわゆるギフテッドと呼ばれる子供でして。教科によって差はありますが、既に日本の難関高校入学程度の学力があります」
なので、貴方を家庭教師として呼んだのは、間違いでもなんでもありません。
そう淡々と説明するワタリに、僕はなるほど、とLと名乗った少年をマジマジと見つめた。
たしかにLは、ただの子供というには色々と天才児特有の特徴が見受けられた。
膝を抱えながら床に直接座り、お菓子に囲まれながら親指を咥える姿は外見年齢よりも幼さを覚える。
だが、モニターに表示されているプログラミング言語をよく理解しているようであり、器用に人差し指だけでキーボードを叩いてみせるその姿は、間違いなく天才のそれだ。
たしかに、この知能の高そうな子供相手は、ただのベビーシッターでは勤まらないだろうなと、僕は気を改めてLに手を伸ばした。
「はじめまして、僕は夜神月。これからよろしくね、L」
たとえ挨拶の際に相手へ視線を向けない無礼な子供とはいえ、僕はこれぞ社交性の鑑という気持ちで、Lに対して完璧な笑顔を向けてみせた。
しかし、Lは僕を一瞥すると、伸ばした手を握り返すこともなく、興味無さげにモニターへ視線を戻した。
「今日以降、貴方の世話を受けるかはまだ未定ですので『これからよろしく』になるかは貴方次第です」
どういう意味かと僕が問いかける前に、Lは周囲に乱雑に散らばっているパズルやらゲームやらに視線を向けると、退屈そうな様子で言葉を続けた。
「どうぞ、貴方の得意なゲームを選んでください。それで私と勝負して、貴方が勝てば私の家庭教師として認めます……。自分より馬鹿な相手に教わるつもりはないので」
このクソガキ、よくもまぁペラペラと挑発する言葉が出てくるな。
背後でワタリが困っている、というよりは呆れている気配を感じた。たしかにこの生意気な子供のお守りはさぞ大変だろう。
子供相手とはいえ久しぶりに他人を殴りたい気持ちに駆られたが、しかし同時に湧き上がってきたのは、一種の嗜虐心だった。
「そうだねL、丁度いいよ。僕も、あまりに出来の悪い子供を教える気は無いから、テストしてあげようか」
あくまでこれは、お前が家庭教師を決めるためにテストするのでは無く、僕が教え子を決めるためにテストをするんだ。
と、大人気なく挑発を仕返してみれば、目の前のクソガキはようやく僕へと視線を向けた。
幼さに似合わない、隈の濃い目が不機嫌に歪む姿を見ながら、僕は笑みを浮かべながらLの部屋を見回した。
一見子供らしい散らかり具合だが、ミルクパズルといった難易度の高い知的遊具が目立つ。
そんな中、僕が選んだのはホコリの被った、けれど新品さながらの美品であるチェスボードだった。
「オーソドックスに、こういうのはどうかな」
「……他のパズルは使用した形跡が随所に見られるが、チェスだけは長らく使用していないように見えたから、私が熟練していないだろうと踏んで選んだ。と、言ったところですか?」
お前の思考は読めているぞと、わざわざ口に出してこちらを嘲笑うLに、僕はまさかとわざとらしく驚いてみせる。
「僕がそんな浅はかな推理で決めたと思うか? パソコンくらいしか友達の居なさそうなお前のことだから、AI相手にチェスなんてたくさんしてるだろう。テストとはいえ、ちゃんとLの得意そうなものを選んであげたんだ」
「……パソコンはただの道具ですし、私に友達は必要ありません」
「あぁ、そうだろうな。お前は見るからに社交性が皆無だ。だから、お前の得意なチェスでしっかりと教えてあげようと思ったんだ。世の中、社交性……もとい、人心掌握術がいかに重要かって事をね」
それじゃあ始めようかと、僕はゆっくりとチェスの駒を並べながら、このクソガキを数時間後、絶対に理解させてやると決意した。
僕が二回戦目のチェックメイトを言い渡したのは、初夏の空がすっかり夕暮れ色に染まった頃の事だった。
目の前のLは不機嫌そうに自分のキングを指先で弾いて倒すと、無言で僕のことを見上げた。
「それで、負けず嫌いなお前のために先手後手入れ替えで二回戦ったわけだけど……。両方とも敗北した気持ちは、どんなものなのか教えてもらってもいいかな?」
「……貴方の性格がとても悪いことだけが良く分かりました」
「はは、お前の生意気さには負けるよ。ところで、まだ『負けました』の言葉を聞いていないんだけど」
傍から見れば、幼い子供相手になんて酷い煽りを言っているのかと、まったくもって見ていられない光景だ。
しかし、結局のところ僕も大学生とはいえまだまだ子供というべきか、あるいは生来の性格として負けず嫌いと言うべきか。
Lが悔しそうに服の裾を握るのを見下ろしながら、その言葉を言うのを今か今かと待ち続ける。
そうすれば、やっぱり性格が悪いと僕のことを睨みながらも、Lはゆっくりと口を開いた。
「……負けました」
「うん、ちゃんと認められて偉いな、L」
ニヤニヤと笑みを浮かべながら、さらに煽りを重ねるように、Lの頭を撫でてやる。
しかし、てっきり苛立つと振り落とされるかと思ったが、Lは自分の頭を撫でる手を特に拒むことなく、僕の方を見上げてきた。
「私より頭のいい人間に会ったのは初めてです。大学生と聞いていましたが、日本トップの大学生には、貴方と同じくらい頭のいい人間が居るんですね」
「あぁ……それは、どうだろうな。僕、模試も入試も常にトップだから。同級生や教師含めて、僕も僕以上に頭のいい人間にはまだ会えてないかな」
普段の僕であれば、たとえ常日頃から思っていることとはいえ、素直にこの考えを吐露することは無いが。
しかし、Lという生意気で、けれど間違いなく天才児である人間を相手にしているせいだろうか。
ついつい素直に言ってしまった言葉に、Lはやっぱりそうですかと、どこか落胆したような表情で親指を咥えた。
「案外、私達と同レベルというのは少ないものなんですね」
「まぁ、そんなにガッカリするなよ。お前の人生も、まだまだこれからなんだからさ。もしかしたら数年後に出会うかもしれないし、これから生まれてくるかもしれないだろう? 実際、僕もお前に出会えたわけだからね」
事実、余裕そうに振る舞ってはいたけれど、Lのチェスの猛攻に焦ったことは何度もあった。
僕をここまでヒヤヒヤさせたのは、中学二年生のテニスの全国大会決勝戦以来だ。
と、素直な気持ちでLのことを褒めて見れば、意外にもLは喜んだみたいで、幼い顔にわずかながらの笑みを浮かべてみせた。
「貴方にとって、私は久しぶりのライバルになりましたか?」
「……そうだな、将来性はあるよ。でも、今の段階ではまだまだ、僕のライバルを名乗るには程遠いけどね」
「では、いつか必ずライバルに成りますので。それまで、私の家庭教師を『これからよろしく』お願いします――月くん」
そう言って生意気にも伸ばされたLの手に、そこは夜神先生だろうと叱ってはみたが、以降Lが僕のことを夜神先生と呼ぶことは無かった。
とはいえ、こうして僕は、Lの家庭教師としてこの家にお世話になる日々が始まった。
天才児の家庭教師というものは、一般的な家庭教師よりも大変だ。
Lの家庭教師になってから、一週間。そんな感想を抱くのは実に早かった。
「今日こそは、変なこと考えてないよな」
大学の授業終わりに向かった、都内の一等地に建つ豪邸。その門扉を慣れたように通りながら、僕は自室で待つLのことを考え、一人鬱屈としたため息を吐き出した。
Lは五歳児とは思えないほどに、実に頭がいい。
ワタリが高校入学程度の学力があると言っていたが、Lの実力はそんなものではない。
正しく言うならば『現時点で高校入学程度までの教科書を全て読んで理解している』であり、本人がヤル気を出せば三ヶ月程度で大学入試程度の教科書を全教科理解できるだろう。今の学力なのは、本人が今は別の知的好奇心をくすぐられることに夢中だからに過ぎない。
そんな子供の姿を見ていると、僕も神童だ天才だなんだと持て囃されてはいたが、Lにはそれ以上のものを感じた。
これで大人の言うことを聞く『イイ子』であったならば良かったのだが、残念ながらLはそういった部分は年相応のクソガキだった。
「夜神さん、本日もよろしくお願いします」
「こちらこそ。ところで、Lはちゃんと言いつけを守ってますか? さすがに、どこかの機関にハッキングを仕掛けてませんよね」
「ふふ、それは夜神さんが是非、お確かめになってください」
否定も肯定もしないワタリの言葉に、僕は本当に大丈夫だろうかと、言うことを聞かないLの表情を思い浮かべる。
現在、Lが一番の興味を持っているのは、主にネットの分野であり、プログラミングやハッキングといった事ばかりだ。
幸い、僕もそういった分野については詳しかったので、こちらに関してもLの家庭教師として教えることが出来るが、これこそが僕を困らせる難点だった。
頭はいいが、善悪の分別がついていない子供は、それこそゲームをプレイするようなつもりでセキュリティを突破しようとする。
自分の腕前を確認してみたいのだとぐずるLに、そういった犯罪行為は駄目だと、昨日も何度諭したことか。
「L、夜神さんが来ましたよ」
僕がそんなことを考えている間に、ワタリがLの部屋のドアをノックする。
返事が無いのはいつものことなので、僕もワタリも気にすることなく部屋の中に入った。
その時、いつもパソコンの前から動こうとしない小さな体が、何故かフローリングの床に倒れていた。
「L、大丈夫か?」
まさか具合でも悪いのかと駆け寄ってみるが、僕の心配とは裏腹に、Lは随分と穏やかな顔で目を閉じていた。
すやすやと規則正しい寝息に、ただ寝ているだけか紛らわしい。と、呆れながらも安堵していると、ワタリはおやおやとLの顔を覗き込んだ。
「昨晩は寝ずに熱中していたようですから、力尽きてしまったようです。ご心配ならさらず、Lにはよくあることです」
「子供にしては、やけに隈が目立つとは思っていましたけど……。規則的な生活リズムが身についていないんですか?」
「昔から正すように言いつけてみてはいるのですが、どうにもLには一日という概念が難しいようで」
だから、連続で数日起きることもあれば、丸一日眠ることもあります。と、すっかり慣れた様子で語るワタリに、これまた困った子供だとLのことを見下ろす。
Lは典型的な、自分が納得しなければ、あるいは自分の興味のあること、やりたい事に一致しなければ動かないタイプだ。
どれだけ言っても大人の言うことを聞かないと言うのは、普段からLに接していればよく理解できた。
たった一週間でもこの疲労感なのに、長年Lの世話をしているというワタリはそれ以上だろう。なんて、隣の老人に同情さえ覚えてしまう。
「こんなところで寝てたら風邪引くぞ」
そう言いながらLの肩を揺らしてみるが、起きる気配はまったくない。
それどころか、呼吸をしていなければ死んでいるのではないか。なんて疑うほど、Lは身動きひとつしなかった。
仕方ないかと、僕はLの小さな体を抱き上げながら、ワタリに訊ねる。
「ワタリさん、Lのベッドはこの部屋にありますか?」
「一応、隣の部屋が寝室なのですが、何分、Lはベッドで眠るのが嫌いでして。長い間使用していないため、少々埃っぽいかと思いますのでこちらに」
そう言いながらワタリが視線を向けたのは、金縁の意匠がよく映える大きなソファーだった。
一度座れば全身を包み込むように沈むそのソファーは、以前僕も座ったことがあるが、そのまま寝落ちてしまいそうなほど心地よい代物だ。
これならばベッド代わりにいいだろうとLの体を寝かせてやれば、床に倒れているよりはしっかり眠っているような見栄えになった。
「さて……と、このまま一緒に居たら、Lが眠るのに邪魔ですかね」
「いえ、夜神さんならLも気にしないでしょう。Lが目覚めるまで、しばらくここでお待ちください。今、お茶を持ってまいります」
それでは、と頭を下げながら退室していったワタリの姿を見送りながら、僕はどうしたものかとLを見下ろす。
ソファーの上で小さく丸まって親指を咥えている姿は、普段の言動とは異なって実に子供らしい。実年齢そのものか、あるいはもっと幼く見えた。
「……こうやって見ると、可愛いんだけどな」
ふっくらとしている、Lの柔らかな頬に惹かれて、指先でつんつんと突いてしまう。
普段から日に当たらないせいで真っ白、かつ不健康な生活のせいで血色の悪い肌の色をしているが、その張りや弾力はさすがの五歳児。ふにふにとしていて、気持ちがいい。
と、僕がワタリのお茶を待つ間、勝手にLで遊んでいると、むにゃむにゃとLが体を身動ぎさせた。
動かしたせいで起きたのかと思ったが、どうやらまだ覚醒はしていないらしい。
何やら探すように腕を動かしたかと思うと、Lの小さな手は僕のズボンの生地をぎゅっと掴んで、そのまま離さずに再び眠りについてしまった。
「……しまった、動けなくなった」
よく、猫が膝の上に乗ってしまって動けなくなった。みたいな話をペットを飼っている友人から聞いたことがあったが、なるほどこれはそういう状況に近いのかもしれない。と、現時点では無邪気で愛らしく見えるLに、どうしたものかと首を傾げる。
せめて、風邪を引かないようにブランケットでも探したかったのだが、生憎ソファーに座って手の届く範囲には見当たらない。
なので、せめてもの代わりとして、僕は自分の上着を優しく、Lの体にかけてやった。
「とりあえず、何でこんなに夜更かししてたのかは、起きてからじっくり追及するか」
それから、今後の人生のためにも、しっかりと規則正しい生活というものの重要性を教えてあげなければ。
なにせ、自分は家庭教師なのだから。なんて、家庭教師と言うよりはベビーシッターみたいなことを考えながら、僕はワタリが紅茶を持ってくるのを待った。
僕の上着を被った塊が、もごもごと動き始めたのは、もう夜と言って差し支えない時間だった。
「ん……」
「おはよう、随分と寝坊助だな」
ワタリが暇つぶしにと持ってきてくれた本を置きながら、僕はLの寝癖だらけの頭を撫でて整えてやった。
一方、未だに寝ぼけているのか。Lはゆっくりと周囲を見回してから僕の姿を見上げると、目をパチパチとさせながら首を傾げた。
「今は、何時ですか」
「もうすぐ夜の七時だよ。ワタリさんから聞いたけど、何かイケナイことしてたみたいだな」
この悪戯っ子め。なんてLの頬を抓んで叱ってみせれば、Lはむくれた表情で僕を睨んだ。
「悪いことなんてしてません」
「本当に? お前のことだから、興味本位でどっかの大手企業とか警察にでもハッキングしてたのかと思ったよ」
「やってみたかったんですが、月くんが駄目だとうるさいのでやりませんでした。なので、自分でセキュリティを組んで、外部から自分のパソコンに侵入できるか試していたんです」
「そうだったのか?」
意外にも、どうやらLは僕の言いつけをちゃんと守っていたらしい。
自分のやりたいと決めたことは絶対にやり通す性質だと思っていたため、案外こういった聞き分けのいい部分もあったのか。と、僕が素直に驚いていれば、Lは得意げな表情で笑みを零した。
「自分で作ったパズルを自分で解く。退屈かと思いましたが、案外、三時間程度は楽しめました」
「三時間? ワタリさんは徹夜で何かしていたって言っていたけど、準備にそんなに時間がかかったのか」
だとすれば、準備時間に対してあまり楽しめなかったんじゃないのか。
なんて、僕が首を傾げながら訊ねれば、Lは無表情のまま固まると、僕の話を聞かなかったかのように視線を背けた。
瞬間、こいつは何かを隠しているなと、僕は立ち上がりLのパソコンに向かおうとした。
しかし、僕の動きを察知したLは、先ほどまで眠っていたとは思えないほどの早さで、僕の腰を飛び掛かるように掴んでくる。
「……っ! 月くん、駄目です! プライバシーの侵害です!」
「僕はお前の家庭教師で、曲りなりにも監督責任があるからね。Lがちゃんと、何をしていたのか正直に白状したら止めてあげるよ」
お前から話す気が無いなら、強制捜査だ。と、Lが引き留めるのを物ともしないでいれば、Lは慌ててパソコンを抱きかかえるように僕から離した。
「なんでもないです! ただ……その」
「ただ?」
「ただ……月くんのパソコンに、侵入しようとしただけです」
「は、はぁ?」
Lの衝撃的な告白に、まさか教え子にハッキングされるとは思わなかったと、僕は呆れて頭を抱える。
「お前なぁ……個人のパソコンに侵入するのだって、十分犯罪行為だからな」
「月くんなら、許してくれるかと……」
「駄目に決まってるだろう。はぁ、今日帰ったらすぐにセキュリティを強化しておかないとな……。でも、僕のパソコンに侵入したって、目ぼしいものなんて何も無かっただろう?」
そもそも、Lのことだから情報を抜き出すという目的ではなく、ハッキングすること自体が楽しいのかもしれないが。
と、僕が呆れている一方で、何故か今度はLの方が不機嫌そうに僕のことを睨んできた。
「そんなことありません、重要なものを見つけました……。月くんの好きな女性についての情報です」
「僕の好きな女性?」
Lの言葉に、現時点で特定の誰かに好意を抱いているわけでもない僕としては、いったいLが何のことを言っているのかと意味が分からなかった。
しかし、Lは非常に重要な情報だとでも言うように、据わった目で僕を凝視し続けてくる。
「弥海砂というモデルについての検索履歴が多く残されていました……。調べてみましたが、月くんは、雑誌のインタビューで『将来の夢は幸せなお嫁さん』と答えるような、頭の弱そうな人間が好みなんですか」
だとすれば失望です。とでも言いたげなLの視線に、なるほどそういう事かと、Lの勘違いの理由を知りため息を吐く。
「違う違う。あの子、昨日大学で突然『一目ぼれしました』とか言って話しかけてきたんだ。そういうのは困るって言ったんだけど、名刺とか渡してきて執拗だったから。念のため、どういう子なのか調べたんだよ」
「念のため……可愛かったから調べたのではなく?」
「まぁ、たしかに美人だとは思ったけど。容姿以前に、一目ぼれとか言って突撃してくる直情型の女性は、僕の趣味じゃないよ」
「なら、どんな相手が好みなんですか」
やけにグイグイと聞いてくるLに、なんで五歳児の子供にここまで質問攻めにされなくちゃいけないんだろうかと、ふと冷静になる。
しかし、己の問いに答えないことは許さない、とでも言いたげなLの気迫と言うべきか。
Lの勢いに飲まれた僕は、別に言ったところで何かなるわけでもないだろうと、一応は真剣に『好みの相手』とやらの条件を考えてみる。
「そうだな……少なくとも、僕は恋人とは対等な関係でいたいから。僕と同じくらい、頭がいい人……かな」
なんて、自分で言ってみて、随分と狭い要件だなと思わず苦笑してしまう。
自分と同レベルだと思えた相手なんて、大人でさえ居なかったというのに。
しかし、僕の答えを聞いた瞬間、Lは先ほどの不機嫌そうな表情はどこへやら。
途端に花が咲いたような笑顔を見せると、嬉しくて仕方が無いように、キラキラとした視線で僕のことを見つめ始めた。
「月くん、本当ですね? 言質取りましたよ?」
「なんの言質だよ」
そう訊ねてはみるものの、Lはすっかり楽し気な様子で、僕の声など届いていないらしい。
相変わらず、分かるような、よく分からないような不思議な子供だと、Lに対する評価を固める。
と、それよりどうやってLに僕のパソコンにハッキングしたことを反省させるか考え始めた時だった。
携帯にセットしていたタイマーが鳴り、もうそろそろ帰らなくてはならない時間だということに気付く。
「さて、それじゃあ僕はそろそろ帰るかな」
Lが眠っていたせいで今日はまったく授業が出来なかったから、予定していた内容はまた明日だな。と告げれば、Lは先ほどまでの喜びとは一変、驚き悲しそうな視線で僕のことを見上げた。
「月くん、帰っちゃうんですか?」
「もう時間だからね。そんなに授業が楽しみなら、今日はしっかり寝て、明日僕が来る時間には起きているように」
二回目はないからなと頭を撫でながら叱ってみせると、Lは寂しそうに僕の手を掴んできた。
「泊まっていってください。部屋ならたくさんあります」
「……駄目だ。明日はレポートの提出があるから、早く帰って準備しないと」
一瞬、Lの表情に絆されかけたが、こいつは僕のパソコンをハッキングした悪戯っ子だということを思い出して、毅然とした態度で断る。
しかし、Lは諦めないようで、でもでもとその場で地団駄を踏むように僕の腕に縋りついてくる。
「月くんなら、もうレポートも完成しているでしょう。それにレポートのデータなら、昨日ハッキングしたものがあるので、このパソコンでも編集できます」
「お前、まったく反省してないな? 何にしても、駄目なものは駄目だ」
「どうしてですか。作業環境もある、物理的な制約をクリアしているのに、拒む理由が分かりません。理論的な説明をしてください」
詰問をするように問い詰めてくるLに、なんでそんなに僕に泊まってほしいのかと疑問符が浮かぶ。
幼稚園にも行っておらず、普段はワタリ以外と交流もほとんどしないと言うから、初めて出来た親しい存在に近くに居てほしいと思うのか。
しかし、ここでLは友達が居なくてかわいそうだから。なんて風に僕が折れて、何でもかんでも自分が望んだ通りに出来ると学習してしまうのは教育上良くない。と、僕は腕に抱き着くLを無理矢理解いた。
「あのなぁ……、駄目だって言ってる相手をそうやって問い詰めたりするのは、人間関係を築く上で良くないことだ。そんなんじゃ、今後友達を作るのに苦労するぞ?」
「月くん以外に、友達なんていりません」
「そんなきっぱり言うことじゃないだろう……。いいか? 僕は『私生活に影響の出ない範囲で家庭教師の仕事を受け持つ』という契約でやっているんだ。お前があんまり我儘を言うようじゃ、この契約だって見直さなくちゃいけない」
「……月くん、家庭教師、やめちゃうんですか」
さっきまで頑なな態度だったLが、突然しぼんだ風船のようにしゅん、と落ち込んだ顔で縮こまってしまう。
僕の腕を掴む手にも一瞬で力が無くなってしまい、この言い方ではショックの方が大きすぎて、肝心の伝えたいことが伝わらなかったらしい。
いくら天才児とはいえ、Lの情緒は実年齢相応の五歳児なのだ。
強く言うよりは、もう少し寄り添った方が聞いてくれるかと、僕はLに目線を合わせるためその場に膝をつく。
「まだ止めないよ。お前みたいな問題児、そう簡単に放っておけるわけないだろう。そうだな……今日は泊まることは出来ないけど、また別の日、ちゃんと予定を立てよう。そうしたら、一日中、勉強でも遊びでも付き合ってやるから」
「……本当、ですか?」
「ああ、もちろん。約束するよ。そんなに不安なら、指切りでもしようか?」
ほら、と。Lが安心できるように、目の前に小指を差し出した時だった。
Lは瞬時に僕から離れてパソコンを操作し始めたかと思うと、画面にこの部屋の映像――画質や画角からして、監視カメラの映像が映し出され、再生された。
『また別の日、ちゃんと予定を立てよう。そうしたら、一日中、勉強でも遊びでも付き合ってやるから』
つい先ほどの言葉を完全に映像証拠として残していたLは、してやったりと興奮気味の表情で僕のことを見上げた。
「月くん、言質、取りましたから! 絶対ですよ!」
やはり世の中、証拠こそが全てです。
そう満足気なLに、このクソガキに少しでも同情した自分が間違いだったと頭を抱える。
だとしても、約束は約束だからな。と、僕は何時だったらLの家に泊まりにくる事が出来るだろうかと、頭の中で近々の予定を確認しはじめた。
「では、本日はお世話になります」
その言葉と共に、いつもよりも多くの荷物を抱えて、僕はLとワタリが住む邸宅へと足を踏み入れた。
僕を出迎えてくれたワタリは、僕の泊まりの準備をしてきた姿を見ると、好々爺らしい笑みを浮かべて頭を下げた。
「いえいえ、こちらこそ。Lのワガママを聞いていただきありがとうございます」
「まぁ、半分無理矢理だったとはいえ、約束しましたからね」
Lにいつか泊まりに来ると約束して十数日。
丁度、大型連休を迎えたこともあって、大学の友人と人の多い行楽地に行くよりも、Lの家にお邪魔になった方が煩わしくなくていいと、僕はついにLとの約束を果たすことにした。
とはいえ、約束をしてから随分と日が経過してしまったせいだろう。
待ちくたびれたLは拗ねに拗ねて、二日以上泊まっていかないと嫌ですと駄々をこねた。
おかげで二日分の着替えが入ったカバンは重たいが、Lの不規則な生活を正すいい機会だ。この期間の間は特別手当が出るとかなんとか説明を受けたから、しっかり家庭教師として仕事をしなければいけない。
そう、僕が大学生活初の外泊に少しばかり緊張している一方で、Lは珍しく自分の部屋から出てきて僕を出迎えた。
「月くん、こっち! こっちです!」
よほど今日を楽しみにしていたのだろう。
挨拶もなく、Lは早々に僕の片腕を引っ張ると、小さな足ながらも素早い動きでどんどんと僕を家の奥へと連れていった。
「おいL、そんなに引っ張ったら危ないだろう」
一応は注意してみるが、当然のごとくLは僕の言葉なんて聞くことはない。
速度を緩めることなく、普段僕が立ち寄ることのない二階への怪談を駆け上がると、廊下の一番奥にある部屋へと突撃するように入っていった。
「ここが、月くんの部屋です」
この家は広くて大きいとは理解していたが、どうやらゲストルームも贅沢な造りをしているらしい。
まるで高級ホテルのような室内に、ただの家庭教師にしては贅沢な場所を当てがってもらえたと内心感動を覚える。
「いい部屋だな。独り暮らしする時はこういう部屋に住みたいよ」
「私とワタリも居るので三人暮らしになりますが、引っ越してきますか? 住込み契約に変更しましょう」
「ははは、遠慮しておく」
僕の言葉で露骨にしょんぼりとするLのことを可愛いなと思いながら、僕はとりあえず荷物を置いてからLに向き合った。
「いいか、L。最初に約束したけど、僕が泊まってる間は、健康的な生活リズムでお前も生活してもらうからな。とりあえず、今日の夜は十時には寝てもらう」
「……生活リズムだけなら、お菓子は別ですか?」
「少しは食べてもいいけど、お菓子ばっかりは駄目だ。ちゃんと三食、普通の食事をすること。いいな?」
ちゃんと理解できたかと、Lの真っ黒な瞳を見ながら確認する。
だが、残念なことに今までワガママ放題の生活だったLは、僕の出した条件にあまり納得出来ていないらしい。
ぶぅ、と頬を膨らませて不満を露わにするLの顔を両手で包み込みながら、分かったかと再度確認する。
「はい、返事は?」
「…………分かりました、月くん」
絶対に納得いっていないLの表情に、これからの先行きが不安になりながら、僕は約束だからなとLの幼い小指と指切りをした。
宿泊をすると言っても、日中はいつもの家庭教師の仕事としては大差無かった。
僕が出す課題をLはスラスラと解いていくし、何かに躓いても少しヒントを与えるだけでLはすぐに答えを見つける。その上、新しい分野に関してもLは理解力も早いし、応用力も高い。
なので、これが学校のテストの点数を上げる。という意味ならば、Lは実に優等生そのものだが、残念ながら同じ優等生の僕とは違って、Lは根っからの悪ガキなのでそちらの対処の方が難しかった。
やれハッキングがしてみたいだの、やれ警察の秘密情報が見てみたいだの。
とはいえ、僕もLの家庭教師、もとい育児には慣れたもので、いつものように興味を反らし勉強に意識を集中させ、僕との勝負だという体で競わせれば一日はあっという間に過ぎていった。
そして豪勢な夕食をご馳走になった後、Lが僕の服の裾を引っ張りながら声をかけてきた。
「月くん、お風呂、入りましょう」
今までの強引なLとは打って変わって、やけに内気というべきか、どこか恥ずかしがるような様子のLに、どうかしたのかと首を傾げる。
だが、今日は僕が泊まるということで、普段よりもはしゃいでいたLのことだ。きっと今は少し疲れた上にお腹もいっぱいになって、眠気が来ているのだろう。
いくら言動がらしくないとはいえ、体はやっぱり子供だなと微笑ましく思いながら、僕はそうだなとLの手を掴む。
「それじゃあ、お風呂に案内してくれないか、L」
僕がそうLに言った途端だった。
何故かLは少しだけ考えるような素振りを見せると、どうしようと少しばかり困った表情でワタリの顔を見上げた。
まさか、自分の家で風呂の場所が分からないなんてことはないだろうに。と、僕が不思議がっていると、ワタリはLの言いたいことが分かったらしい。
大丈夫ですよと食器を下げながら口を開いた。
「夜神さんのゲストルームのものを使えるようにしておきましたので、そちらをお使いください。いくつか、楽しめるものも置いてあります」
Lはその言葉を聞くと、それならば良かったといつもの元気を取り戻したように、僕の手を力強く引っ張った。
どうやら元気は戻ったらしいが、いったいどうしたのかと思い、ゲストルームに戻る道中、いそいそと進む小さな背中に聞いてみる。
「今回特別に用意してもらったみたいだけど……Lは普段、別の風呂を使ってるのか?」
「私は普段、一般的な風呂には入りませんので」
風呂に入らない。という言葉に、もしかして風呂に入るという基本的な生活習慣も見についていないのかと一瞬驚く。
だが、普段からLは髪が少し長めだという所を除けば、いつも清潔な身なりをしている。
「一般的な風呂じゃないって、どんなのに入ってるんだ?」
何か特別な事情があるのかと訊ねてみれば、Lは少しばかり自慢げな表情でこちらを向いた。
「普段は、ワタリが発明した全自動ヒューマンウォッシャーを使っています」
「全自動ひゅーま……なんだって?」
「ドラム式洗濯機のような形をしていて、中に入るだけで洗浄から乾燥まで全部やってくれる優れものです」
実に効率的で画期的な技術でしょう。
と、ワタリの発明品とやらを自慢げに説明するLの姿に、なんと反応を返せばいいか分からず、少しばかり遠くに目線が行く。
たしかに便利なのだろうが、安全面はどうなんだろうとか、絵面が恐ろしく不気味だなとか。そもそも、そんなものを発明してしまうワタリとはいったい何者なのか。未だ知らぬLとワタリの一面に触れてしまったことに若干の恐怖を覚えながら、それはすごいなと画一的な返事を口にした。
そうこうしている内にゲストルームに戻ってきた僕は、カバンの中から着替えを取り出してから早速、ワタリが用意してくれた風呂場に向かった。
「あぁ、楽しめるものって、こういうことか」
広い脱衣所に入ってまず目についたのは、カラフルな色をしたバスボムが入ったカゴだった。
たしかにこれなら、普段はヒューマンウォッシャーとやらで風呂のことを作業程度にしか思っていないLでも楽しめるだろう。
ワタリの心遣いに感謝しながら脱ぎ始めれば、何もせずぼうっとこちらを見上げるLと目が合った。
「どうしたんだ、L? 脱がないのか」
「普段、自分でやりません。月くん、脱がせてください」
さぁ、とこちらに両手を向けてくるLに、この甘えん坊はと思わず苦笑する。
いくら五歳児という点を考慮にいれたとしても、Lの生活力は皆無だというのは普段の付き合いでなんとなく理解していた。
とはいえ、あれだけ難しいパズルも問題も解くことが出来るお前が、服の一枚脱げないわけがないだろうと、Lの鼻先を指で突く。
「じゃあ、今日は自分で脱ぐ練習だ。僕の教え子なんだから、当然それくらい出来るよな?」
そう挑発的に笑ってみせれば、Lはとても不満そうな顔で頬を膨らませる。
だが、それも可愛い子供の反応だなと頬を突いていたら、諦めたのか渋々といった様子で服を脱ぎ始めた。
そのたどたどしい様子からして、普段からワタリに脱がせてもらっているのは間違いないらしい。
ということは、体を洗うのも服を着るのも同じなんだろうなということが想像できて、さてどうやって対応するかと考えながら、Lの目の前にバスボムが入ったカゴを差し出す。
「よく出来たな。それじゃあ、好きな奴を選んで入ろうか。どれがいい?」
Lのことだから、全部入れてみたいとか言い出さないといいが。
なんていう僕の杞憂とは裏腹に、Lが選んだのはあまり目立たない、真っ白な色をしたバスボムだった。
「これか。いいな、泡風呂にもなるみたいだし、楽しそうだ」
「何より、甘くていいバニラの香りがします」
「さっき、食後のデザートにアイス食べただろう?」
「甘いものはいくらあっても困りませんから」
むしろあの程度のアイスじゃ全然足りませんと親指を咥えるLに、まさか香りに釣られて浴槽のお湯を飲まないよな。と、ありえなくはない不安が脳裏を過る。
そんな不安を抱えながら浴室に入ってみれば、こちらも部屋同様に豪華なもので、大きなジャグジー付きの浴槽が出迎えてくれた。
既にお湯の張られた浴槽にバスボムを投げ込んでジャグジーを起動させれば、Lの体をシャワーで洗ってやっている内に、浴槽は見事な泡の山に包まれていた。
「泡風呂なんて久しぶりに入るな」
「この泡、生クリームみたいで美味しそうですね」
「……本当に食べるなよ、お前」
Lと一緒に泡風呂の中に入れば、心地よいお湯と柔らかな泡が全身を包み込んで、思わず声が出てしまいそうなくらい気持ちが良かった。
それはLも同じようで、心地よさそうに目を細めたかと思うと、そのままブクブクと泡の中に沈んでいく。
「温かいです。でも、こんなに甘い香りがするのに食べられないのが残念です」
「お前、本当に甘いものが好きだな。その内、食べるもの全部、お菓子にしたいとか言いそうだ」
「今はまだ体が発達段階なのでワタリに禁止されていますが、成長期が終わったら食事は全部甘いもので統一する予定です」
堂々と宣言してみせたLに、こいつなら本当にやりかねないと思わず苦笑を零す。
人間には必要な栄養素があることは理解しているのだろうが、Lはその全てをお菓子で摂取出来るようワタリにお願いするのだろう。
そうならない為にも、今度は保健の授業が必要だなと脳内でカリキュラムを組み立てながら、僕は泡を両手に掬いあげてLの目の前に見せてやる。
「L、見ててごらん」
Lのつぶらな瞳がこっちを向いたことを確認してから、僕はふぅ、と泡に息を吹きかける。
そうすれば、細かな泡が風に乗って浴室内に舞い上がる。キラキラと虹色に光る泡を目で追いながら、Lの瞳もまた同じ様に、楽しそうなキラキラとした光を帯びた。
「扇風機を使ったら、もっと楽しそうですね」
「はは、興味はあるけど、風呂中が泡だらけになりそうだな。あとはそうだな、こうやって……」
そう言いながらLの頭に泡を載せてやれば、ソフトクリームのような形に仕上がり、これは中々に面白いとつい笑いが零れる。
「月くん……もしかして、私で遊んでますね」
「まさか。後で頭洗う時にもっと面白い形にしてやるから、まだまだこんなものじゃないよ」
覚悟しておけよ。と、Lの鼻先についた泡を拭いながら言ってみれば、やられっぱなしは趣味ではないとLの目が変わった。
「なら、月くんにもお返しです」
自分がやられたのと同じように、僕の頭にも泡を載せようとしたのだろう。
当然腕を伸ばしただけでは届かないLは、立ち上がって僕の頭に手を伸ばそうとした。
だが、泡風呂のせいで滑りやすい浴槽は、Lの想像を越えていたらしい。
一歩足を踏み出したところで、ばちゃんと大きな音を立てながらLが僕の方に向かって倒れてきた。
「っ、おい、L! 大丈夫か?」
中々に大きな音をさせながら胸元に当たったLの顔に、どこか痛めていないかとLの体を持ち上げる。
しかし、Lは何が起こったのか理解出来ていないようで、ボケっとした顔をしたかと思うと、そのまま僕の首に抱き着いてきた。
「L……? 大丈夫か」
やっぱり、どこか痛かったのだろうか。
もう一度訊ねてみるが、Lは返事もなく、僕の首筋に頭を埋めて離そうとはしない。
この反応からして、おそらく痛かったのだろうが、涙を見せるのはプライドが許さないのだろう。
だから、痛くなくなるまで、僕に顔を見せないつもりらしい。なんとも子供らしい考え。普段の生意気なところと比べて可愛いところもあるものだと、僕はよしよしと無言でLの体を抱きしめ頭を撫でてやる。
「のぼせそうになったら言うんだぞ」
「…………はい」
そう、たしかにLの返事を聞いたはずだったのだけれど。
いつまで経っても顔を上げようとしないLに、本当に大丈夫かと顔を覗き込んで見た時には、Lの顔は既に茹で上がったタコのように真っ赤になっていた。