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「崇拝者​」

 私が一番最初に彼の名前を聞いたのは、二十六歳の春に京都地検から東京地検に異動になった頃の事だった。
 様々な引継ぎ作業に追われる中、先輩検事達の会話の中で度々、あの『夜神くん』がついに警察庁に入庁したらしい。と、彼の名前を何度も聞いた。
 ついに入庁ということは、その夜神くんとやらはまだ大学を卒業したばかりの若者であるはずなのだが、不思議なことに先輩検事達は誰もが夜神くんに対して尊敬とすら呼べるような様子でその名前を呼んでいた。
 それはこの年功序列の社会では珍しく、そんなにも夜神くんという青年は特別なのかと、彼の名前は私の記憶に深く刻み込まれた。

 実際に私が夜神くんと対面したのは、異動してから二ヶ月ほどが過ぎた、六月の頭。
 入庁してから早々に、とある難事件を解決したという彼から、直接事件の証拠品を受け取る事になった。

 

「初めまして、魅上検事」

 

 そう、私に向かって礼儀正しい仕草で挨拶をする彼を初めて見た瞬間、すぐに彼は特別な人間なのだという事が理解できた。
 夜神くんを見た第一印象は、まるで芸術品のような美貌を持った青年、だった。
 検事として正当な判断を下すために容疑者の容姿等に影響されないようにと、人間を見た目で判断しないように心掛けてはいる。だが、夜神くんの美しさは、ただ顔の造形やスタイルの良さというだけでなく、その仕草や声、言葉の抑揚といった、目に見えない部分まで全てが彼の美を形成していた。
 知的で、教養と品の良さを感じさせる、美しき青年刑事。
 むさ苦しい環境に成りがちなこの世界では、一種の異物のようにさえ映るその容姿と雰囲気に、彼が一種の偶像(アイドル)的な存在であることは先輩検事の彼の対応から見ても明らかだった。
 それでいて、彼はとても優秀な刑事だった。
 キャリアという狭き門を潜り抜けてきているのだから、そこら辺の刑事よりもよほど頭がいいことは想像がついた。それに先輩検事達も、夜神くんの事を語る時、まず彼の頭脳を褒め称えていた。
 私自身、今までの人生で学校の成績や他者からの認識で『優秀』であると評価されていた側の人間だった。だから、夜神くんも私と同じ『優秀』な人間なのだろうと、同類を相手にするつもりでいた。
 だが、私は勘違いをしていた。
 彼は、夜神月という人間は『優秀』などという言葉で評価することがおこがましいほどに、天才的な頭脳を持っていた。
 事件や証拠品の説明を受ける中、彼がどうしてその推理に至ったのかを聞いて、そのあまりの発想力、行動力、理解力に、私は一瞬でも彼を自分と同じ『優秀』なのだろうと考えた事を恥じた。
 夜神月という人間と比較してしまえば、私など圧倒的に凡人の部類でしかなかった。
 後で聞いた話だが、彼は大学在学中にとある世界的な事件を解決しており、それ以降も難事件解決を手伝っていたのだという。
 それは彼の父親が刑事局長の夜神総一郎であったから捜査協力がしやすかったという面も無論あるのだが、しかしそれ以前に彼の天才的な頭脳に多くの刑事たちが彼に信頼を寄せていた。
 傍から聞けば、いくら成人しているとはいえ、まだ大学も卒業していない青年に警察が頼り切りというのはどうかしていると呆れを覚えるものだが。しかし、夜神くんと出会った瞬間、彼を年齢などという概念の枠に収める事がナンセンスなのだと理解した。
 彼は、まさに、偶像――神のような人だった。

 

 

 

 

 

 夜神くんと個人的な交流を持つようになったのは、初めての邂逅から三ヶ月ほどの月日が経った頃だった。
 どこに住んでいたとしても生活の流れを変えたくない性質のため、京都に住んでいた頃のように、東京に引っ越してからすぐに年中無休のジムを探した。
 京都も都会であり選択肢の幅が多かったが、東京はそれの比ではなく、マンションの近くだけでもいくつもの候補があった。
 だから、そんな場所で彼と出会ったのは偶然か、あるいは運命と呼ぶに相応しい確率だった。

 

「魅上さん、奇遇ですね」

 

 シャワールームで汗を流そうと足を踏み入れた時、既にシャワーを浴びた後の夜神くんに、そう声をかけられた。
 普段は高級品のスーツに包まれている彼の素肌を見た瞬間、私は何か神聖なものを見ているのではないかという気分になった。それほどまでに夜神くんの肉体は美しく、下半身にタオルを巻いただけの体は、ただそれだけで宗教画を彷彿とさせた。
 そのまま少し世間話を交わせば、どうやら夜神くんはつい最近、このジムに通うようになったらしい。以前はもっと自宅に近いジムに通っていたらしいが、そこでスタッフからのストーカー被害にあったのだという。加害者のことはさっさと被害届を出して二度と近づかないという誓約書を書かせたらしいが、その時のジムの対応が非協力的であったらしい。明らかな犯罪者を庇うジムに嫌気が差して、それならもうジムを変えようと、評判のいいここにジムを変えたのだという。

 

「ここは立地も施設もスタッフもいいですね。それに、魅上さんが居るなら安心です」

 

 そう微笑む夜神くんに、思わず変な気が沸いてくる自分に気付いて、必死にその欲を抑え込む。
 たしかに、同性愛者ではない私でも魅了してしまう彼のことだ。今までも何度もストーカーや付きまといの被害に合ってきたのだろう。
 そんな経験をしてきた彼の信頼に背くような感情を抱いてしまった自分を恥じながら、それでも私は彼と同じジムという接点を得たことに、酷く喜びを感じてしまった。

 それから何度かジムで夜神くんと話をしている内に、私と彼の仲は仕事上の付き合いから、個人的な付き合いにまで発展した。
 つまりは、夜神くんから食事に誘われた、という意味だ。

 

「魅上さん、このまま一緒に食事でもどうですか?」

 

 ジムの終わり際、彼にそう声をかけられて、思わず驚いて固まってしまった。
 別に彼が私を食事に誘う事くらい、傍から見れば何一つとして不思議なことなど無いはずだ。それは十分理解できていたが、けれど彼にそう声をかけられた時に感じたのは、神聖な存在の内側に触れてしまうという冒涜にも似た畏怖だった。
 既に夜神くんとはジムで色々と個人的な話を交わしている仲だというのに、なぜそんな感情を抱いてしまうのか。しかし事実、彼のプライベートな面に触れるというのは興味があるのと同時に、私のような存在が触れてもいいものなのかという躊躇いを感じさせた。
 だが、私に断るなどという選択肢はなく、それならこの近くに美味しいイタリアンの店を知っていると答えるのは早かった。
 ようやく蒸し暑さから解放された季節、夜の少しだけ肌寒い空気の中、私と夜神くんは表通りに面している店に入った。
 雑誌でもたまに紹介されるというその店は、たしかに味は良かったように思う。だが、正直に言えば目の前で食事をする夜神くんを見ていたら、味なんてものを堪能する暇は無かった。
 まるで恋をしたばかりの子供のような反応の自分に呆れを感じながら、しかし、あの夜神くんも食事をするのだなという至極当然のことが、私には不思議に見えた。
 彼は芸術品のような、食事も必要なければ、それこそ汗を流したり呼吸をすることさえ不自然に感じさせる美しさを持っている。
 そこまで考えて、私は彼になんて失礼なことを考えているのだろうかと、心の中で秘かに己を叱責した。アイドルのように偶像としての存在を売っている職ならともかく、夜神くんは刑事であり、人間であり、神などではない。そんな相手に、こんな崇拝のような感情を向けるなど、どうかしている。
 けれど、どれだけ自分にそう言い聞かせたところで、私は彼がワインのグラスを傾ける様さえ、どこか現実感のない光景として凝視してしまっていた。

 

「少し、飲み足りないですね」

 

 そろそろ会計に、といった頃。夜神くんは微かに目元を赤らめながら、首を傾げた。その、つい最近社会人になったばかりの青年が携えるにはあまりにも不釣り合いな、けれど濃厚な色気に、思わず息を飲んでしまった。
 夜神くんが食事をする姿を不躾に眺めてしまったことを除けば、私と彼との会話はとても盛り上がった。と言うより、想像していた通り、私と彼は実に価値観が近かった。
 互いに刑事と検事と立場は違うが、それでもこの職を選んだ理由はどちらも社会悪を憎み、そして善人が幸せに暮らすことの出来る世界を一番に目指すべきだと考えているからだった。
 夜神くんが私と近しい考えを持っているのだと知った瞬間、私は何故か、とても救われたような思いがした。
 そんな話しをもっとしたいと考えていたのは、喜ばしいことに私だけではなく、彼も同じだったらしい。事実、彼は二件目として入った裏路地のバーで、あまり度数の高くない酒を注文した。ワイングラス一杯で目元が赤くなるほどだ。おそらく、酒にはあまり強くないのだろう。
 そんな彼が、飲み足りないなどと嘘をついてまで、私と話したいと考えてくれたことが嬉しくて、私は酒もあって普段より饒舌に己の思想を語ってしまった。傍から聞けば、独特と呼ぶべきか、あるいは危険思想とさえ思われるような極端な考えにも、夜神くんは真剣に頷いてくれた。
 ああ、まるで、神に己の信仰を訴えているようだ。などと冷静に自分を見返すことが出来たのは、いったい何時の頃だったか。

 

「ちょっと、お手洗いに行ってきますね」

 

 話がひと段落した頃。彼が口にした言葉を聞いた瞬間、すっかり夜神くんのことを神に見立てていた私は、彼も排泄なんて人間らしいことをするのかと驚きを抱いてしまった。
 再び彼になんて考えを抱いているのかと自戒しながら、彼がバーの奥に歩いていくのを見送る。
 その時だった。偶然にも、隣の席に座っている男が、カクテルの中に錠剤を二粒ほど入れるのを目撃した。それが所謂レイプドラッグであることは一目瞭然で、私はすぐにその男の腕を掴んだ。

 

「何をしているんだ」

 

 私が突然声をかけたことで、男は酷く動揺した様子でこちらを睨み罵声を飛ばしてきた。
 まったくもって分かりやすい逆切れだ。しかし、だからと言って見過ごすことは出来ないと、私は彼がポケットの中に隠した薬のゴミを机の上に置けと、淡々と男に命令する。
 そんな、職業柄の癖が出てしまったせいだろうか。男は事実無根の言いがかりだ、お前は何様だと、さらに声を荒げた。
 さてどうしたものかと考えた時、ふと男が薬を入れたカクテルと、先ほど夜神くんが注文したカクテルが同じであることに気付く。

 

「それなら、カクテルを交換しようか」

 

 グラスの縁に付いた塩がどちらも無くなっていないことから、まだ口を付けていないのは一目瞭然だからと、私は手早くカクテルを交換してしまう。そうすれば、余計なことをするなと、男は慌てたように立ち上がった。
 だが、男が私ににじり寄ってくる前に、背後から穏やかな、けれど同時に凛とした声が聞こえた。

 

「すみません、貴方の連れの方から伝言を頼まれたんですが……急用が出来たので帰るそうです」

 

 そう、紳士的な笑みを浮かべながら告げた夜神くんに、男はいつの間にと連れの女性が消えた店のトイレの方向を睨む。それからいくつか女性を罵倒する言葉を口にしながら、男は酷く苛々した様子で店から出て行った。きっと女性を追いかけていったのだろうと不安な顔をした私に、夜神さんは大丈夫ですよと首を傾げた。

 

「彼女は今、店のバックヤードで休んでます。今外を探したところで、見つかるわけがありません」

 

 話を聞いたところ、どうやら夜神くんは隣の席で男が女性を執拗に酔わせようとしていたことに気付いたらしい。だから彼女がトイレに立つのに合わせてトイレに向かい、もしも困っているならばバックヤードに匿ってもらえばいいと、スタッフとの仲介に入ったのだという。
 私よりも早く女性の危機に気付き、一歩間違えれば負傷沙汰になっていたかもしれない私の方法よりもよっぽどスマートな解決方法に、私はすぐに自分が行った衝動的な行動を恥じる。

 

「ところで、魅上さんは男の方と何か話してたみたいですけど、何かあったんですか?」
「ああ、彼が彼女のカクテルに睡眠薬らしきものを入れるのが見えて……」

 

 まるで、神に自分の愚かさと短絡さを告解している気分だと、私はまるで罪を懺悔するかのように、震えた声でそう夜神くんの問いに答えた。
 その私の言葉を聞いた瞬間、夜神くんはどこか驚いたように私の顔を見つめた。
 ああ、どうしよう。彼に失望されてしまっただろうか。
 嫌だ。彼に、夜神くんに失望されてしまったら、私は、神に見放されたように――。

 

「さすが、魅上検事。貴方も、悪は見過ごさない、立派な方なんですね」

 

 信頼の微笑みと共に紡がれた、彼の柔らかで澄んだ声を聞いた瞬間、私は今までの人生を神に認められたような気がした。
 母親にも否定された私の『正義』は、傍から見れば悪を執拗に憎む異常者にしか思えないことは分かっている。それでも、私は私が悪だと判断してきた人間に、天誅のような死が。裁きが訪れてきたことで、私の『正義』は正しいのだと考えていた。
 けれど同時に、それは私のただの思い込みでしかないのではないか。という不安も無論あった。善人が多く死んでいるのと同様に、ただ悪人も死んでいるに過ぎず、偶然その死が私の周りで多く起こっただけなのだと。
 だから、私は人生で初めて己よりも賢いと、思わず尊敬の念すら抱いていた夜神くんに私の『正義』を肯定されて、まさに救われたのだ。
 私の『正義』は、夜神くんの目から、神のような天才的な頭脳を持つ彼から見ても、間違っていなかった。
 私は正しかった。私の『正義』は正しかった。
 何故ならば、神である夜神くんが私の『正義』を肯定したからだ。

 

「……夜神くん」

 

 彼の名前を呼ぶことさえ不敬なのではないかと思いながら、とりあえずの建前は年下の仕事仲間である彼の名前を呟く。
 この感動をどうやって、彼に伝えればいいのか。あまり感情表現が得意でない私が、必死にその方法を模索している時だった。

 

「それにしても、薬まで用意してたなんて……本当に卑劣な奴だな」

 

 夜神くんが、カクテルに――先ほど、男と交換した薬入りのカクテルに手を伸ばした。
 だが、しまったと夜神くんに静止をかけようとするよりも早く、彼は一気にカクテルを煽ってしまい、半分ほど中身を飲んでしまった。

 

「あ――っ!」
「えっ?」

 

 きっと私は、明日には神への不敬罪として捕まるんだろうなと思いながら、申し訳ないと夜神くんに何度も謝った。

 

 

 

 

 

 

 すぐ近くのマンションに住んではいたが、念のためタクシーを利用したのは正解だったと、すっかり動けなくなった夜神くんの肩を支えながら実感する。
 夜神くんの自宅までタクシーで送るという方法は、彼が就職を機に実家を出て一人暮らしをしているという話を聞いていたため、すぐに選択肢から外した。
 彼の部屋に無断で入るわけにもいかず、何よりこんな状態の彼を一人部屋に置いていくのはあまりにも忍びない。
 ならば私の家ならばすぐ近いからと、急速に酔いが回ってうとうとと船を漕いでいた彼に了承を取って、こうして私の家に招き入れたわけだったが。

 

「夜神くん、つきました」

 

 彼の肩を支える。というよりはほとんど抱きかかえるように、私は夜神くんを自分の寝室に連れていくと、そのまま普段私が寝ているベッドに横たわらせた。
 潔癖症気味である自分にとって、他人を自室のベッドに寝かせるというのは、普段の己であれば多少の嫌悪感を抱くものだ。しかし、それが夜神くんであるというだけで、私はなんて不純な場所に神聖な彼を連れてきてしまったのだろうかと、むしろ自分に罪悪感さえ覚える始末だった。

 

「(……というよりも、これは)」

 

 泥酔状態で意識がはっきりしていない彼に対して、その赤らんだ頬や首筋に、少なからず欲情的な気分になっている自分への罪悪感と嫌悪感。といったところだろうか。
 夜神くんは、普段はその凛とした立ち姿も魅力的な青年だ。隙など一切感じさせない、まるで神のような男。
 そんな彼が、今、私が普段寝ているベッドの上で、とろんとした蕩けそうな表情で横たわっているというのは、中々に衝撃的な光景だ。おかげで彼を崇拝してしまう自分勝手な信仰心は抑えることは出来たが、今度は彼を性的な目線で見てしまう自分が止められなかった。

 

「(何を考えている。夜神くんは私のせいで泥酔してしまったというのに)」

 

 申し訳なく思うならまだしも、欲情を感じてしまうなんて、馬鹿げている。
 だが、ジャケットは脱がせたとはいえ、いつまでもネクタイを締めたままなのでは苦しいはずだ。つまりは、私が彼のネクタイを解いてやるべきなのだが。

 

「(違う、これは……必要だからだ。あくまで、看病の一環であって、私の利己的な願望ではない)」

 

 そう自分に言い訳を重ねながら、私は夜神くんに失礼しますねと声をかけて、彼の首元に手を伸ばす。

 

「んっ……ぁ、あ」

 

 夜神くんの赤く火照った首筋に指が触れたのと、鼻から抜けるような彼の声に、押し殺したはずの欲情が再び顔を出す。
 ふと夜神くんの顔に視線を向ければ、そこには普段の凛とした表情とは異なる、つい最近まで学生だったのだと思わせる幼い表情が浮かんでいた。

 

「……っ」

 

 先ほどまで、彼に跪きたいと思っていた自分はなんだったのかと己を責め立てながら、けれど逃れられない色気に息を飲む。
 女性との交際の経験がないわけでもなく、性欲に引きずられるなんてことは人生で経験したことがないというのに、そんな私の中の常識を易々と彼は崩してきた。
 ああ、もしも、彼の微かに開かれている唇に触れることが出来れば、どれほど喜ばしいだろうか。
 なんて、中高生の妄想のようなことばかり考えてしまう自分に嫌気がさして、私は自分が落ち着くためにもキッチンにミネラルウォーターを取りに行った。
 先によく冷えたそれを口に含めば、先ほどから自分を悩ませる煩悩も消え去って――はくれなかったが、大分落ち着いてくれた。
 これなら大丈夫だろうと、もう一本新しいボトルの封を開けながら、私は再び寝室へと戻る。

 

「夜神くん、水は飲めますか」
「ん……ぁ、うん。飲める……」

 

 よほど酔いが回っているのだろう。
 普段は年上の私相手に丁寧語を外さない彼が、少しばかりフランクに。というよりは、呂律が回っていないせいで、どこか幼い印象を持つ声で、そう頷いた。
 その姿がなんとも愛らしいと、天才の彼に抱くにはあまりに不相応な保護欲のようなものを抱いてしまう。
 なんて、馬鹿なことを考えていた私を罰するためか、あるいは試すためか。
 突然、夜神くんの手が、私の顔に伸びてきた。

 

「やが、み、くん……?」

 

 頬に触れられるのだろうかと、期待のような感情が湧き上がって、思わず彼の名前を呼ぶ。
 しかし、彼が手を伸ばしてきたのは私の頬ではなく、私が普段愛用している黒縁の眼鏡だった。
 夜神くんは悪戯をする子供のような、何か悪だくみをしているような表情になると、そっと私の眼鏡を奪ってベッドの反対側に置いた。

 

「……こんな酔いつぶれた、僕の恥ずかしい姿。魅上検事には見せたくないので」

 

 これで見えませんよね。と、おそらく首を傾げたのだろう。
 ぼやけた視界の中でも、そうやって微笑む夜神くんの表情は、よく見えたような気がした。

 

「前々から思っていたんですけど、やっぱり、魅上検事……眼鏡してないほうがカッコイイですよ。僕の好みだ」
「……夜神くん、もう、寝てください」

 

 これ以上、彼の色気に当てられては、気がおかしくなって間違いを起こしてしまうと、私は夜神くんの体を再びベッドに寝かせようとする。
 だが、そんな私の頑なで強情な態度が面白いと、夜神くんは蠱惑的な笑みを浮かべて私の手を拒む。

 

「いえ、魅上検事には迷惑をかけたので、何かお礼でもしようかと……なんでも言ってください。なんでも聞きますよ」

 

 酔っているとは思えない、はっきりとした声。
 だからこそ、普段の彼からはありえない言動だというのに、まるで彼自身が私を誘惑しているようだと思ってしまう。
 だが、事実として、彼は今、レイプドラッグの入った酒を飲んでしまったところであり、この台詞は彼の本心ではない。
 故に、私は夜神くんを諫めて寝かせなければならないのだが。そのためには、目の前に吊るされた餌が、あまりにも魅力的すぎた。

 

「魅上検事、僕にどうしてほしいですか」

 

 だから、私は自分の中の欲望と理性を天秤にかけて――そして勝利してしまったのは、一番厄介な欲望だった。

 

「では……貴方のことを『神』と呼ばせてください」

 

 気付けば彼の目の前で跪いていた私の姿に、夜神くんは驚くでも同様するでもなく、これが当然の態度だとでも言うかのように、くすくすと笑いながら首を傾げた。

 

「なんだ、そんなことでいいのか」

 

 いつの間にか、彼の言葉は職場の年上に向けられるものではなく、神が信者に対して告げるような、高慢さを帯びた色をしていた。
 だが、それが不快などということはまったくなく、むしろ夜神くんが――神が、私の崇拝を受け入れてくれたのだと、胸の中に湧き上がったのは喜びだった。

 

「ならば、私のことは、その……魅上とお呼びください」
「ああ、僕のことを『神』なんて呼びたいお前だ。そっちの方が相応しいな……魅上?」

 

 これでいいんだろうと、普段の優し気な微笑みではない、圧倒的な強者としての笑みを浮かべる神に、私はその通りですと頭を下げる。

 

「神のおみ足に触れてもよろしいでしょうか」
「まぁ……今日のは褒美だからな。いいよ、好きなようにしろ」

 

 そう言って足を差し出してきた神に、私は恐れと背徳心を抱きながら、黒い靴下越しに神の足に触れる。
 筋肉質ではあるが、同時に造形美を極めたようなその形に、この足に触れられたのは私が初めてであって欲しいなどという願いが溢れてくる。

 

「神、これからもどうか、貴方を崇拝させてください」

 

 今日、この時間が神の記憶に残らないことを良いことに、私は身勝手な願いを口にする。
 許されるわけがない。ただの人間を神に祭り上げてしまうことも、それを神などといって崇拝してしまうことも。それは本人が望んでいなければ一種の暴力だ。それを理解しているはずなのに、私はそんな厄介な欲望を神に向けずにはいられなかった。

 

 どうか、私の神として存在してほしい。
 どうか、私の神として私の正義を肯定してほしい。
 どうか、どうか、どうか。私の正義の象徴であってほしい。

 

 そんな、貴方を勝手に偶像に仕立てあげて、心の中で神と呼び、崇拝する私のことをどうか許してください。と、許しを乞うような思いで、私は神のつま先に唇を寄せた。
 そんな私を見て、神は仕方ないなといった様子で、呆れたような視線で私を射抜いた。

 

「ああ、魅上。お前の好きにしてかまわない」

 

 僕は、お前の神だからな。
 そう告げた神の姿に、まるでこれが本来の関係だったかのような錯覚を覚えながら、今日というが訪れたことを喜んだ。

 これが、夜神月という自分よりも年下の青年を心の中で、神と呼ぶようになった切欠だった。
 
 

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