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「初めまして、お久ぶりです。​」

 知らない人に声をかけられても、絶対についていっちゃいけないよ。
 警察官である父さんに、あるいは僕が女の子みたいに可愛いと近所の人に言われ続けていた母さんに、僕は何度も何度もそう注意を受けていた。
 当然、僕はそんな怪しい相手についていこうと思ったことは一度としてないし、人気が無い場所には絶対に近づかないようにしていた。
 それは、つい最近四年生になった今も同じで、僕は遊びたがりの時期である同級生に、親に無許可のゲーセンやらに誘われようと断っていた。
 だから、僕の防犯意識は完璧だったはずで、僕は誰からみても事件なんかに巻き込まれても仕方ないと言われるようなことはしていない。
 問題は、僕を誘拐した相手が、人気の多い学校指定の通学路で、問答無用で僕を車の中に連れ込んだという、僕自身にはどうすることも出来ない犯行だったということだけだ。

 

「夜神月くん、ですね」

 

 そう、僕の名前を呼んだ誘拐犯は、世間が想像する誘拐犯像とは似ているようで、どうにも似つかない人だった。
 真っ黒な髪の毛と、澱んだ黒い瞳。それから、不眠症や過労というには色の濃すぎる隈を持った誘拐犯は、たしかに不審者という言葉が似合う人間だった。
 けれど、不審者そのものだというのに、高級車の中でたくさんのお菓子に囲まれている姿は、ただの誘拐犯とはとても思えない。

 

「僕は、なにも抵抗しません。家の電話番号なら教えます」

 

 それでも相手が誘拐犯であることには変わりないので、僕は父さんから教えてもらった、相手を刺激しない言葉を選んで、自分から行動するのではなく父さんの助けを待つことに徹する。
 だが、誘拐犯は僕の言葉にはさほど興味が無かったようで、どうぞと僕にドーナツが乗ったお皿を差し出してきた。

 

「月くんの個人情報でしたら、電話番号まで含めて全て知っているので不要です。そして、私の目的は身代金でもありません。一般家庭から引き出せる金額に興味はありませんし、そもそも貴方の価値はその程度の金額に収まるものではありませんし……貴方が将来的に世界に与える影響を考えれば、値段をつけることすら馬鹿らしい。ああ、ところで月くん、コーヒーの用意しかしていないんですが、もうコーヒーは飲めますか?」

 

 まだ十歳ですから、コーヒーは飲んだことありませんかね。
 と、本当に単純に僕を気遣う誘拐犯に、コーヒーくらい飲めると言いたくなったけれど、すぐに誘拐犯から食べ物を貰うなんてどうかしていると首を振った。
 そうすれば、誘拐犯はだったらと再び僕にドーナツを差し出したけど、僕はそれも首を振って拒絶すれば、誘拐犯は少しだけ残念そうな顔で僕に差し出したドーナツを自分で食べ始める。

 

「はぁ、このドーナツは月くんのために用意したんですが、仕方ありません」
「……あの、身代金が目的じゃないなら、どうして僕を」

 

 身代金ではないものが欲しいから誘拐事件を起こした、という部分に、僕は嫌な予感を覚えながらも、恐る恐るドーナツを咀嚼する誘拐犯に尋ねる。
 考えたくはないけれど、僕のような小学生の子供を誘拐して身代金が目的じゃないなら、あと考えられるのは、僕みたいな子供と『そういうこと』をしたいという可能性だった。
 僕も、『そういうこと』が具体的に何をするのか、詳しく知っているわけじゃない。でも、なんとなく、そういう行為は男の人と女の人じゃなくても出来ることは知っているし、そういうのが好きな変質者が多いことも、父さんと母さんが話していたから分かっていた。

 

「そうですね」

 

 そんな僕の考えを読んだのか、誘拐犯はぐいぐいと僕に近づいてきて、ぎょろりとした目で僕のことを覗き込む。
 その、吐息がかかるような、心臓の音さえ伝わってしまいそうな距離に、やっぱりこの誘拐犯の目的は『そういうこと』なんだと、僕はぎゅっと身を縮こまらせた。
 誘拐犯は年齢不詳といった様子で何歳かは分からないけど、でも、もう立派な大人の体格をしていて、僕みたいな子供が反撃しても敵うとは思えない。
 だから、こういう時は相手を刺激しないことが一番だと分かっていても、やっぱりこれからされるだろう事を想像してしまって、どうしても恐怖に震えてしまった。

 

「……大人しく、貴方の言うことに従ったら、お家に返してくれますか」

 

 どうしても逃れられないなら、せめて、全てが終わったら無事に家に帰りたい。
 暗い山道の山中に捨てられるとか、それこそ抵抗が激しくて殺されて埋められるなんて、絶対に御免だ。
 けれど、僕が必死に自分が生き残る方法を探しながら誘拐犯を見上げると、誘拐犯はそれは難しいですねと首を横に振った。

 

「残念ですが、月くんをお家に返すことは出来ません」
「それは、つまり……」
「はい、月くんには、これからずっと、私と一緒に暮らしてもらいます」

 

 ああ、最悪だと、僕は父さんから聞いたことのある誘拐事件の話を思い返した。
 日本でも海外でも、誘拐された子供がずっと発見されず、誘拐犯と暮らしていたという事件はいくつもあるらしい。
 普通はその前に杜撰な計画で捕まるものらしいけど、でも、目の前の誘拐犯は高級車で僕を誘拐したり、運転手に色々と給仕をさせている様子から見て、かなりの金持ちだ。つまり、ちゃんと計画性のある犯行である可能性がとても高くて、僕が救出される確率はとても低い。
 だから僕は誘拐犯の言う通り、これからずっと一緒に『そういうこと』をされながら暮らすことになってしまうんだろう。

 

「……月くん」

 

 誘拐犯が、まつ毛同士が触れ合うような距離まで、さらに僕に近づいてくる。
 このまま車の中で『そういうこと』をされてしまうんだと思った僕は、せめて痛くありませんようにと、ぎゅっと目をつぶってこれから来る接触に耐えようとした。
 でも、いつまで経っても誘拐犯が僕に触れてくることはなくて、どうしたんだろうと目を開けば、そこには久しぶりに友達に会ったような、不審者というには子供ぽい表情があった。

 

「月くん、これから一緒に、私といろんな事件を解決しましょう」
「……事件を解決?」

 

 僕が想像していた『そういうこと』とは、まったくもって違う話に、いったいどういう事なんだと首を傾げる。
 そんな僕の様子がおかしかったのか、誘拐犯はくすりと笑って、僕の隣に座った。

 

「はい、私と月くんで、世界中の難事件を解決するんです。とても楽しい生活です、退屈なんて絶対にさせません。もしも学校に通いたいのでしたら、ワイミーズハウスと呼ばれる養護施設で教育を受けることも出来ます。そこには、月くんには及ばないかもしれませんが、でも特定の分野では月くんすら凌駕するような、才能溢れる子供たちがたくさん居ます。きっとそんな子供達の中なら、月くんはもっと自由に自分の才能を伸ばせると思います」

 

 まるで、遊園地に行く予定を話すみたいに、誘拐犯はとても楽しそうに僕の未来を語り始めた。
 それは、僕の『父さんみたいに、弱い人を守れる立派な刑事になる』という夢が絶たれる事のはずなのに、どうしてだろうか。僕は、誘拐犯が話すその未来図が、まるで理想の未来のように聞こえてしまった。

 

「どうして、僕なの?」

 

 そんな特別な列車の切符を手にしたような、宝くじに当たったような感覚に、思わず僕は尋ねてしまう。
 たしかに僕は、親からも親戚からも先生からも、どんな大人からも「月くんは本当に立派な子ね」と褒められているし、そういういい子になろうと思っている。
 でも、程度は違えど、いい子なんてものは世の中にもっといっぱい居る。
 そんな中で、どうして僕を選んだのかと、なぜ僕を見つけたのかと、誘拐犯に問いかける。
 けれど、誘拐犯はそれこそ悩むことのない、当然の帰結だとでも言うように笑った。

 

「私と月くんは、必ず出会う運命なので。その出逢いが早くなった方が、私も貴方も、きっと世界にとっても利益が大きいと思った。だから貴方を誘拐することにした、それだけですよ」
「……訳が分からない」
「そうですか? まぁ、たしかに今の私を信頼しろと言っても、なかなか難しい話しですね。では、以前の貴方は知った事ですし、信頼を得るためにも、特別に教えてあげましょう」

 

 これは、とても重要な秘密なんですがと、誘拐犯は内緒話をするように、僕の耳元に唇を寄せて、小さな声で囁いた。

 

「私の名前は、エル・ローライトと言います。夜神月くん」

 

 その名前が、この世界のどんな機密よりも重要で、誘拐犯――世界の切り札と呼ばれる男の一番の秘密だとは、この時の僕には想像することなんて出来るわけなかった。

 こうして僕はエルと一緒に、様々な未解決事件を解明する『L』の一部として生きることになった。

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