「トランク」
天気予報によれば、今日は春の兆しを感じられる暖かい日だと言うことだったが、山間部に位置するこの田舎町では、まだ外にいるのは肌寒い程度の風が吹いている。
そんな中、私は先ほどカフェで購入したホットチョコレートに、店員に不審がられるほど貰ったスティックシュガーを一本、また一本と入れながら、ベンチでワタリの迎えを待っていた。
その直ぐ側に、決して己の手から離れないよう、大きなトランクを抱えてながら。
「美味しくないですね」
十本ほどのスティックシュガーを溶かしたホットチョコレートに口をつけながら、私はそうトランクを撫で、味の感想を口にする。
私は甘いものに関しては、高級品であろうとジャンクなものであろうと、等しく一定の甘さを超えていれば、そこまで味についてどうこう思う事はない。だが、溶け切らなかった砂糖が沈殿するほどに甘いはずのそれは、どうにも今までの満足感を私には与えてはくれなかった。
その原因はおそらく、ここ最近甘いものを口にするときは、ずっと彼と共有するように食していたからだろうなと、己の味覚の変化を観察する。
数ヶ月前までは、甘味というものはどこで食べようが、誰と一緒に食べようが、そこに味覚の変化など感じないと思っていた。
しかし、既に共有して分け合うと言う魅力を知ってしまった私には、どうにもこのホットチョコレートは物足りない。
早く、彼と再び分け合いたいと、温まった吐息をこぼした時だった。
大切に抱えていたトランクが、ガタガタと大きな音を立てて揺れる。
その動きに、まるで彼も早く会いたがってくれているようだと思えて、私は心の底から笑みを浮かべた。
「月くん、もう少し頑張ってくださいね」
私も同じだけ、この飢えるような寂しさに耐えますから。
そう、トランクに口付けを落とした時だった。
ふと視線を感じて顔をあげれば、世間話をしている母親に手を握られ暇を持て余していた子供が、こちらを不審そうな表情で見つめていた。
おそらく、先ほどこのトランクが揺れたところを見たのだろう。
恐怖と好奇心を滲ませた子供の表情に、さて何と相手したものかと悩んでから、私は怪談話でも語るように子供に声をかける。
「あまり、このトランクを見ていてはいけませんよ。恐ろしい悪魔が入っていますので」
そうやって見ていると、そのうち悪魔がこのトランクから飛び出して、あなたの魂を食べてしまうかもしれません。
などと伝えた瞬間、その子供はかすかに悲鳴をあげながら、己の母親の後ろに隠れてしまった。
その姿を確認しながら、実際に悪魔と呼ばれたのは私の方だったがと、かつて彼が私のことを『悪魔』と呼んだ日々のことを思い出した。
その時、ようやく待っていたリムジンが目の前の道路に停車し、運転席からワタリが降りてきた。
「L、お待たせいたしました」
恭しくドアを開けてくれたワタリに礼を言いながら、私はようやく出発できると、トランクを持ち上げ後部座席に運び込む。
その際にワタリが手伝おうとしてくれたが、彼に関することは全て己の手で行いたいのだと、ワタリの申し出を断れば、彼は相変わらずですねと微笑ましく子供を見るような目で頷いた。
「ワタリ、あと何時間かかる」
「地元の人間に聞いたところ、一部通行止めがあるようで。迂回路を通りますので、あと五時間くらいでしょうか」
「……五時間」
ただでさえ予定が遅れているというのに、このままさらに五時間もかかるのかと、私はトランクを抱き寄せながらため息を零した。
しかし、それだけ辺境の地を新しいセーフティ・ハウスに選んだのも自分自身のため、誰を責めることも出来ない。むしろ、こんな田舎町ですぐに車を手配してくれたワタリに感謝するべきで、時間がかかることの文句を言うことの出来る立場ではない。
だが、理解は出来ているが納得が出来るかというのは別問題だと、私は再びガタガタと震えたトランクに手を添えながら口を開いた。
「ワタリ、ここで開けたい」
「……開けるだけで済みますか?」
「済まなかったら、この車ごと買い取ってくれ」
それならば問題ありませんね。と、ワタリは私がこれからする事へ気を使ったのだろう。運転席と後部座席のブランドを閉め、ゆっくりと車を発進させた。
揺れの少ない穏やかな運転の中、私はおおよそ十二時間ぶりだと、誕生日プレゼントを開ける子供のような気持ちで、トランクの暗証番号を入力した。
そして、今日のために専用で作らせたトランクの重たい蓋を上げながら、私は中で小さく体を丸めている彼に、愛しい思いを隠さず声をかける。
「お疲れ様です。よく頑張りましたね、月くん」
私はそう、トランクの中で際限のない快感に意識を失いかけている、涙と体液にまみれた夜神月の頬を撫でた。
私はキラ事件以外に、人前に姿を現したことがない。
そもそも、『L』という存在が個人であるのか、あるいは集団であるのかすら、何も世間には明かしてはいない。
故に、私と外部のやり取りは全てワタリとパソコンを通じて行われるため、私が捜査を行う場所は傍受や逆探知対策などさえ行われている場所であれば、世界中どこでも『L』としての活動を行うことが出来る。
今まではそれこそ、気分に合わせて各国のホテルを点々とすることもあれば、気に入った土地があればそこに一年ほど定住したこともある。
しかし、キラ――夜神月を壊し手に入れてからというもの、私は一つの場所に留まることを好んだ。それは、彼を壊すための陵辱を行う為でもあったし、彼を捕らえる檻と監視システムが必要だったからでもある。
何より、居場所を移す手間をかけることで、少しでも彼と離れてしまうのが惜しかった。
それほどまでに、私は彼に耽溺して、夜神月と共に在ることを望んだ。
それなのに、わざわざ田舎の辺鄙な土地に新たなセーフティ・ハウスを建て、十数時間も彼に触れることが出来ない時間をわざわざ過ごすという選択を行ったのか、理由は至極単純だ。
まったくもって不本意ではあるが、『L』のことを追うとある組織が、僅かではあったが私の居場所に感づいてしまった。
世界の切り札、『L』とはその性質上、国や犯罪組織といった様々なものが存在を暴こうとしてくる。無論、情報網を張り巡らせ『エラルド・コイル』や『ドヌーヴ』といった私の別の名前の元にくる情報や依頼によって、今までは『L』という存在を隠すことが出来ていた。
しかし、ここ最近は夜神月を捕らえるために長期間、一つの場所に留まりすぎたせいだろう。また、彼を壊すために、わざと手放した時に私もいくつかのリスクを負った。そのせいで流出してしまった情報に偶然にも感づいた組織から逃れるため、こうして私は新たなセーフティ・ハウスを作ることになったのだが、一番の問題はどうやって夜神月を移動させるかという点だった。
私とワタリだけが移動するのであれば事は簡単だが、夜神月は現在、廃人も同然だ。私が導けば歩行程度は出来るが、長距離の移動となれば車椅子が必須だろう。しかし、彼はたまに、発作のように泣き出して暴れてしまうことがある。
私としては、それは彼が間違いなく壊れている証明であり、だからこそキラであった彼を愛することが出来るのだが、逃亡劇では中々に都合が悪い。何よりも、私以外の人間が、あの夜神月という存在の泣く姿を見るなど、考えただけで嫉妬の炎がこの身を焼くほどに嫌悪感を抱いてしまう。彼の涙はそれほどまでに特別で、彼を壊すことの出来た私だけが愛でることの出来る特別な表情だ。他の有象無象が見ていいものではない。
かと言って彼の移動を誰かに任せるなどもっての他であり、何より少しでも彼と離れることは、彼との蜜月を過ごしてきた私にとって耐え難い苦痛だった。どんな方法であっても、すぐ傍に彼が居ることを確認したい。存在を認識していたい、と。
故に、彼をトランクに入れて運ぶという選択肢が私の中に出てくるのは、とても早かった。
常に己の傍にあり、ケース越しに存在を感じることの出来る方法。
まるで大好きな玩具を自分だけの特別なおもちゃ箱に詰めるような心地で、私はすぐに彼を運ぶためのトランクの設計書を書き始めた。
人間を長時間入れて移動しても負担が少なく、常にバイタルを確認できるモニターを取りつけた。
そして、トランクの暗闇の中で目覚めた彼が不安にならないように、常に半覚醒状態で意識を保つ方法として私が選んだのは、十分置きに彼に絶頂を迎えさせるという方法だった。
今の夜神月は、いとも簡単に絶頂を迎える。それもドライオーガニズムと呼ばれる、射精を伴わない絶頂のため、通常の絶頂とは異なり何度でも際限なく達することが出来た。そして、バイタルと性的な玩具を組み合わせれば、いくらでも彼の絶頂を管理することは容易い。
一番の問題は夜神月に、酷く体の負担を強いてしまうことだが。しかし、どうしても夜神月と離れたくないという己のエゴが勝り、私はさしたる迷いもなく、その方法を選んだ。
そうして、おおよそ十二時間ぶりにトランクの蓋を開けて、私は彼と対面した。
「月くん、寂しかったですか」
私はそう、愛しさを込めて彼の名前を呼びながら、子供のように体を丸めてトランクに収まっている彼を見下ろす。
つい先ほども達したばかりなのだろう。びくびくと、全身を震わせながら快感に身悶えている姿は、何度もベッドの上で見ているはずだというのに、今こうして見ても可愛らしく思えた。こんなに愛らしい姿を十二時間、絶えずトランクの中で見せていたのかと思うと、それを観察出来なかったことが実に惜しく感じる。
こんなことなら、せめて彼の表情だけでも録画しておくようにすれば良かったかと、私は夜神月の顔に視線を向けた。声が漏れてはいけないと口元をガムテープで、目元を目隠して覆っておいたが、すでにどちらも涙だか、唾液だか、鼻水だかが混ざり合った体液でドロドロに汚れている。しかし、それが夜神月のものだと思えば、嫌悪感など抱くわけがなかった。
私は誕生日プレゼントのリボンや包装紙を破くような心地で、まずは彼の目隠しと口元のガムテープを外す。そうすれば、すっかりと快楽に蕩けた、彼の顔が露わになった。
「っ――は、ぁ、ぁ……ッ、は――ぁっ!」
先ほど絶頂を再び迎えたらしい彼は、息を荒くさせながらその快感に身悶えていた。
十分置きに繰り返される絶頂に、よほど感じたのか。あるいは苦しんだのか。彼の薄茶色の瞳は既に光を宿してはおらず、その焦点は定まらずに上ばかりを向いている。それは一見すれば哀れで可哀想な姿に思えるかもしれないが、それすら可愛らしいと私の中に込み上げたのは愛しさだけだった。
「月くん」
しかし、彼に無理を強いてしまったのはたしかなのだと、私はさっそく、彼を労わろうと、その体に触れる。
何より、私も同じ時間、彼に触れることが出来ずに悲しみを覚えていたのだから、今から彼を解放して、そしてたっぷりと今までの時間を取り返すように触れ合うのだと――。
「いやだ……ッ、触れ、るな!」
そう、甘い蜜月を期待していた私の耳に響いたのは、もう声を上げる気力も残っていないであろうはずの、夜神月の拒絶だった。
「……月くん」
「いやだ、やだ……ッ、許して、くださ……ぁ、あ゛あ゛! もう、イきたくな、あ゛! 止めろ、やだ、嫌だ!ッ!」
夜神月は私の手から逃れようと、狭いトランクの中で必死に身を端に寄せては、無駄な逃避に全力を注ぐ。
今まで、全てを受け入れたように、あるいは諦めたように、私の行為に無抵抗だった夜神月の姿は、もうそこには無かった。
それほどまでに、このトランクに入れられて絶頂を迎えさせられるという行為は、彼を追い詰めてしまったのだろう。
「(あぁ……、やりすぎたか)」
私から逃れようと、触れてほしくないと首を振って抵抗する夜神月を見下ろしながら、冷静な私が心の中でそう呟く。
仕方が無かった。長時間トランクの中で壊れた彼に大人しくしてもらうには、常に意識を半覚醒状態に保つのが一番だった。だから、こうやって終わらない絶頂で彼の意識を阻害する方法を選んだ。これは、彼が暗いトランクの中で不安を覚えないようにするための、私なりの配慮であった。
しかし、彼を常に傍に置いておきたいと、トランクで運ぶ方法を選んだのは私自身のエゴなのだから、やはり彼をここまで苦しめたのは私だ。そして、その苦しみを私が癒してあげたくても、夜神月は私が触れることすら拒む。
「や、だ……ぁ、あ……許して、やだ、ッ」
怯えた視線で、許しを乞う瞳で、夜神月が私を見上げる。
その拒絶は、私は何度も、彼を壊す中で向けられてきたはずのものだった。それこそ、夜神月をキラとして捕らえた時、初めて彼を犯して陵辱した時は、もっと憎悪が込められた瞳で、彼は私のことを睨んできた。絶対に殺してやると、殺意と罵声を向けてきた。
だから、彼のこの視線は、私にとって初めての経験ではない。
そのはずなのに、私の心は、まるで全ての感情を失ってしまったかのように固まって、正常に動いてはくれなかった。
「月くん」
彼の名前を呼んで、その首筋に噛みつく。
私の噛み痕が色濃くついたそこに、赤く真新しい傷跡を残す。途端、次の十分が来たのか、あるいは首筋に触れられることすら今の彼では達する理由になってしまうのか、再び彼の体が痙攣した。
「ひぃッ、が――ぁ、っ! あ、ぁ!」
定まらない視線を揺らしながら、彼は快楽の中に意識が飲まれていく。
しかし、そんな中でも、夜神月は私の手から、首筋に噛みつく唇の熱から逃れようとするのを諦めない。
そのどうしようもない拒絶に、私はそっと名残惜しさを感じながらも彼から離れ、汗まみれで皮膚に髪の毛が張り付いた頭を撫でた。
「月くん、苦しかったですね。もう、イきたくないですよね」
そう、理解者のように夜神月に声をかければ、絶頂が続く中とはいえ、彼は私の言葉を理解することは出来たのだろう。涙にまみれた瞳の中に、僅かな希望を宿しながら、彼は私のことを見上げた。
だから、私は夜神月が望んでいるであろう事を叶えてやる事にした。
「新しいセーフティ・ハウスに着くまで、あと五時間あります。なので、その間はずっと、月くんがイク寸前で中の玩具が止まるようにしてあげますね」
そうすれば、貴方のお望み通り、もう絶頂が続く地獄から抜け出すことが出来ますよ。
微笑みながら告げた私の言葉を聞いた瞬間、彼の表情が、裏切られたような悲愴に染まり、再び涙を溢れさせて何かを叫ぼうとした。
だが、私は彼の悲鳴を聞くことなく、再びトランクの蓋を閉じた。遮音性に優れたそれは、たとえ彼がトランクの中で泣き叫んでも外に音が漏れることはない。事実、閉じる寸前に「ごめんなさい」と泣き声混じりの謝罪を口にした彼の声は、車のエンジン音に掻き消され聞こえることはなかった。
私は外側の操作盤から、彼に告げた通り、絶頂する寸前で彼の中の玩具が停止するよう設定を変える。これで夜神月の望み通り、あと五時間は絶頂を迎えることはないだろう。それがいかに子供っぽい仕返しなのか、理解はしていたが、しかし心が止められなかった。
「ワタリ、もっとスピードを出して大丈夫だ」
夜神月と触れ合う為に、ゆっくりと揺れの少ない運転をしてくれていたワタリへ、私はそうぶっきらぼうに告げる。
「よろしいのですか?」
「月くんは今、私と一緒に居たくないみたいなので」
不貞腐れるように膝を抱え込んで、親指を噛めば、私は随分と久しぶりに自分の指を噛んだことに気付いた。半年ほど前までは頻繁に噛んでいたせいでボロボロになっていた爪や皮膚が、今はすっかり他の指と変色ないほどに綺麗になっている。
だが、ようやく夜神月に触れられると思っていたのに、直前になって取り上げられたからだろうか。その苛立ちを抑えるために噛んだ指からは血が滲んでおり、私の口内に鉄の味を染みわたらせた。
本来であれば、私は今頃、彼を膝の上に乗せ、そのまま互いに甘味を分け合いながら混ざり合っている予定だったのに。
「……拒絶というのは、中々に辛いな」
ぽつりと、私は彼の姿を思い返しながら、そう膝を抱きしめ呟いた。
私は夜神月を壊す為になんでもすることが出来ると考えていた。夜神月を手に入れる為ならば、その心が手に入らなくても、精神が破壊された後でもいいと思った。それがキラを捕まえた世界の切り札『L』として、キラを愛する為に越えてはならぬ一線であると。だから彼を壊す最中に、彼からどんな言葉や態度を向けられようと、かまわなかった。
しかし、私は自分で思っていたよりも随分と、彼との蜜月の時間に染まってしまっていたらしい。今の私は、彼が自分を拒絶する姿を受け止めることが出来ない。その様を見てしまうだけで、悲しみが心を支配するようになってしまった。
「月くん」
彼に触れられない寂しさのあまり、トランクに頬を寄せる。
きっと、このトランクの中で彼は、今度は別の苦しみに悶えているのだろう。
イきたくてもイけない、今までとは真逆の苦しみに悶えて、涙を流して、そして次にトランクを開けた時、きっと彼は早くイかせてくれと私に強請ってくるに違いない。
私を拒絶することなく、私のことをまるで愛しているかのように、私に縋りついてきてくれるはずだ。
「そうしたら、月くんがまた嫌だと言いたくなるくらい、満たしてあげますね」
それが、夜神月から本物の愛を決して受け取ることが出来ない私の、精一杯の愛を錯覚するための方法だった。
僕は、キラだったらしい。
らしい。という言葉を使うのは、僕にはデスノートで犯罪者を殺した記憶が、キラだった時のが無いからだ。
僕の認識では、僕はある日突然、自分から僕がキラじゃないかと竜崎に監禁を申し出て(これも、僕は自分がどうしてそんな選択をしたのか分からない)、それから監禁を解かれた後、竜崎と一緒にキラを追ってヨツバに辿りつき、キラである火口を追い詰めたはずだった。
そして、デスノートという存在を知った、んだろうか。
分からない、僕はどこで、名前を書くとその人間が死ぬという、恐ろしいノートの存在について知ったんだろう。
覚えていない。あの頃のことは僕にとって、あまりにも朧げで、曖昧で、思い出そうとする度に頭が痛くなって、苦しい。
でもおそらく、キラはデスノートを使って、犯罪者を裁いていた。
そして、竜崎は僕がデスノートを使って犯罪者を裁いていたキラだと断定した。
僕にはその記憶が無いけれど、でも、かつて僕や竜崎が推理した通り、きっと僕はデスノートを自分から手放して、そして記憶も一緒に手放したんだろう。僕が、最初のキラの価値基準が自分に近しいと思ったのは、僕が記憶を失ったキラだから、そう感じたのかもしれない。
本当のところなんて、何も分からない。
でも、世界の切り札である『L』が、竜崎が僕をキラだと言ったんだから、きっと僕がキラだったんだろう。
正直に言えばそんなの、受け入れられるわけがない。自分がキラだったなんて、そんなこと、きっと前の僕ならば、なんとかしてこれは本物のキラが仕組んだ事だと証明しようとしただろう。
でも、今の僕にはそんな気力などない
否、正しく言うなら、今の僕にはそんなこと出来ないし、無意味なことだから。
竜崎によって支配された、この監獄に囚われた僕にとって、重要なのはただ、竜崎が僕をどうするか、それだけだ。
重たい瞼を開ければ、温かい光の中に居た。
ふと周囲を見回すと、そこは今まで過ごしていた高層ビルらしき監獄とは違って、どうやら森の中にあるらしい。窓からは中庭らしき場所が見えて、小鳥の鳴き声がよく響いていた。
その光景の変化に、そういえば、竜崎がセーフティ・ハウスを移動すると言っていたなと思い出して、ここが新しい場所なのかと理解する。
正直に言って、セーフティ・ハウスの場所がどこになろうが、監獄の場所が変わろうが、僕にとっては何も関係ない。どうせ僕はここから逃れることなんて出来ないし、竜崎にされることも何も変わらない。だから、僕にとって、この移動はただ、視界の端に見える風景が変わるだけに過ぎなかった。
けれど、この場所に連れてこられる際にされた事――トランクに詰められ、わけの分からない玩具に弄ばれて、最後は自分から竜崎を求めるように狂わされた事だけは、とても苦しかった。
今も僕の首筋には、昨晩(それが本当に昨晩の出来事なのか、もっと前なのかも僕には分からない)、竜崎に散々噛まれた傷跡が残っていて、それが熱を持って疼いてとても苦しい。体も起き上がれないほど痺れて、少し動かすだけで関節だか腹部だかが酷く痛んだ。
「ぁ……あ、ぁ」
漏れ出てしまった僕の声は、竜崎との行為で散々悲鳴を上げさせられたせいなのか、酷く擦れていて、まともな音にならない。まぁ、この監獄で、僕から何かを言う事なんて無いから、声が擦れても、それこそ喉が潰されても、僕にはもう何も関係ないけど。
「(どうして、こうなったんだっけ……)」
起き上がる気力すらなくて、ただ体を柔らかなベッドに預けながら、僕はもう何千回目になるかも分からない思案を巡らせる。
竜崎は僕をキラだと断定して、僕を真っ白な監獄に監禁した。
そこで竜崎は、僕に色々な事をした。苦しくて、熱くて、あまり詳しくは覚えていないけれど、でも、とても酷いことを沢山された事だけを覚えている。ただ、その時の自分が何を考えていたのかは、まったく覚えていないけれど。
それから僕は一時的に解放されて、とある場所で療養を受けた。
そこにはサユという、妹と同じ名前の女の子が居て、僕にとても優しくしてくれた。彼女は本当にいい子で、彼女のような善人にこそ幸せに生きていてほしいのに、でも彼女はとても辛い経験をした犯罪被害者で、僕の境遇に無理をしないでくれと言ってくれた。
そんなにも優しい、幸せになって欲しい子だったのに、彼女は何故か、僕を罵倒しながら「ざまあみろ」と竜崎に僕を差し出した。
そうして僕は再び竜崎の元で酷いことを沢山されて、療養した体が再びボロボロになって来た頃、突然、全てに耐えることが出来なくなってしまった。
それは、かつて「どうして自分がキラかもしれないと、自分から監禁を申し出たのか」が分からなくなった、あの時の感覚に似ていた。
どうして、僕は今まで、竜崎からの陵辱に耐え続けることが出来ていたのか。その心の支えであった、中心のようなものが突然、僕の中から消えてしまった。支えを失った僕が壊れるのはすぐで、その後の記憶はほとんど何もない。
ただ、朧げな意識の中、ずっと恐怖と快楽のような苦痛に怯えていた。
それから逃れたくて、いっその事、この命が尽きてしまえばいいのにと何度も考えて。
でも、僕が壊れたら僕を殺すと言っていた竜崎は、結局僕を殺さなかった。
それどころか、今の竜崎は、僕のことを愛しているのだという。
竜崎の言葉を少しずつ理解出来るようになった頃、僕は竜崎の囁く『愛』というものに、どうして竜崎がそんな嘘を言うのかが分からなかった。
だって、こんなものが『愛』のはずがない。
僕の知っている愛とはもっと、温かくて、優しくて。父さんと母さんの間にある信頼のような、父さんが家族を大切にしているような、僕が粧裕や家族を守りたいと思うような、そんな優しい『愛』しか僕は知らない。
だから、それとは正反対の、僕を壊すことを目的にしているとしか思えない竜崎の『愛』が、僕には理解できない。
きっと、僕の知っている『愛』と、竜崎が口にする『愛』とは、違う概念なんだろう。
だから、僕はもう、竜崎が何度も口にする『愛しています』という言葉に意識を向けない事にした。
それはただの表面上の無意味な言葉で、きっと僕が理解し得ない暗号のようなものだから。
だから、竜崎が僕の体を恋人のように抱きしめて、唇を触れ合わせてお菓子を分け合って、そして快楽で苦しくなるあの行為をするのも、全部何かの呪いなんだろう。
「(もう、なんだって、いい)」
どうせ、僕には変えようの無い事だからと、僕は呆然と天井を見上げていつもの思考を打ち切る。
竜崎曰く、僕はもう、死んだことになっているらしい。父さんや母さん、粧裕が僕の葬式で泣いている写真を見せてもらった記憶があるから、きっと本当なんだろう。
そんな僕が本当は生きていることに気付いて、この牢獄から救い出してくれる存在なんて、しかもあの『L』相手に僕の居場所を見つけ出すことが出来る人間なんて、この世に居るわけがない。
だから、満足に動くことの出来ない僕にはもう、何かを変えることなんて出来ない。全てが無意味で、だから動く気力が沸いてこない。それよりも、ただ竜崎からされる行為を耐える方に意識を注ぐので精一杯だった。
「(次は、いつ、されるんだろうか)」
僕の世界は、竜崎の腕の中に居るか、竜崎にあの行為をされるか、その二つだけだ。それ以外のことはどうにも曖昧で、覚え続けることが出来ない。
今は、あの全てが狂うような熱が僕を支配していないから、きっと隣で竜崎が眠っているか、あるいはパソコン越しに事件を解決しているのだろう。
しかし、ふと周囲を見回してみると、竜崎の姿はどこにもなかった。
「…………ぁ」
過去のことを記憶しつづけたり、認識することが難しい時期が長かったから、覚えていない日のことが多いけれど。少なくとも、今の僕が覚えている中で、竜崎が僕の隣に居ないのは初めてのことだった。
新しいセーフティ・ハウスにやってきて、色々と準備があるんだろうか。
竜崎は、いつも使っているパソコンを起動させたまま、この部屋から姿を消していた。
「(……パソコンが、動いている)」
その事実に、僕は、全身に恐怖のような期待が走り抜けるのを感じた。
もしも、このパソコンを使って、外部に連絡することが出来たら、もしかしたら僕はここから逃げ出せるんじゃないだろうか。
誰かが、僕がこの監獄に、竜崎の元に捕らえられている事に気付いて、まだ死んでいないと気付いて、助けに来てくれるかもしれない。
いったい、誰が『L』の居場所を見つけられるのか、そんなの分からない。
そもそも、そんなことをして竜崎にバレたら、僕はいったいどんな目に会うんだろうか。また、覚えていることが出来ないほど酷い事をされるか、それか今度こそ、僕は殺されるのかもしれない。
でも、もしかしたら、万が一、ほんの少しの可能性として、此処から逃げ出すことが出来るなら、僕は――。
そう、僕が微かな希望を抱いた瞬間だった。
「月くん、何を見ているんですか」
背後から聞こえた声に、竜崎はいつも、僕に希望を与えて、そして奪ってきた相手だった事を思い出した。
「――――ぁ、あ……ッ!」
竜崎の声に、僕は答える事が出来ず、擦れた悲鳴を漏らす。
一方、竜崎は酷く冷たい視線で僕の事を背後から抱きしめると、僕のことを観察するように、顔を覗き込んできた。
「月くん、今、パソコンを見ていましたか?」
「ちがッ……、違う、見て、な……ッ、い!」
「ああ、月くん。私の言葉が理解出来て、震えることが出来るんですね」
それは実に残念ですと、竜崎は震えた僕を慰めるように、涙が溢れた僕の目元を真っ赤な舌先で舐め上げた。
竜崎の舌先が眼球に触れるのを感じながら、僕は必死に、何か逃げる方法はないかと模索する。
けれど、逃げたいと、その方法を考えることが出来る時点で、竜崎にとって今の僕は望ましくない存在だった。
「昨日、私を拒絶出来る時点で疑ってはいたんですが、最近少しずつ、精神が戻ってきていますね。そうなると、大変申し訳ないんですが、私はもっと月くんを壊さなくてはいけなくなります」
「ッ、やだ、止めて、くれ……ッ! たのむ、から、竜崎」
「ええ、私も本当はやりたくありません。正直に言って、月くんを陵辱している時は私も心苦しくて、勃たない事も多いんです。以前、月くんを壊した時も、毎日月くんを陵辱するのは大変でした。私も辛かった……本心では早く貴方を愛したくて、抱きしめたくて、唇を触れ合わせたくて、愛していると伝えたかった。でも、申し訳ありませんが、私が『L』で月くんが『キラ』であった以上、これは越えてはならない一線なので」
だから、と竜崎はベッドに用意しておいたであろう拘束具で僕の両腕を捕らえると、そのまま僕の体を乱暴にベッドに押し付けて、その上に馬乗りになった。
「月くん、せっかくなので、今回は月くんの要望も聞いてみようと思います。月くんはどれが一番苦しかったでしたか?今の月くんは、私に犯されること自体にはそこまで苦痛を感じられないみたいなので、ここに来るまでにトランクの中でしていたのと同じ事をしましょうか? 絶頂を続けるのと、絶頂ができないの、どちらが苦しかったですか? 今度は私もずっと傍に居ることが出来るので、十数時間と言わず、何日でも何週間でも行うことが出来ますよ? その際に、他の部分も、もっと調教してみましょうか。月くんは男尊女卑で男性権威主義なところがありますから、そうですね……今度は女性のように乳首を肥大化させて、そこへの刺激だけで絶頂できるようにするのも、貴方のプライドを傷つけられていいかもしれません。ああ、男性でも母乳を出すことは出来ますから、そこまで貴方の体を改造するのも面白いかもしれませんね」
淡々と、どこまでも無表情に、僕を壊す計画を語る竜崎に、全身が恐怖で震えた。
その際に見えた、今までの竜崎の視線とは異なる、酷く冷たい色をしたそれに、僕の体は覚えていたくなかった陵辱の日々を思い出してしまう。
ああ、駄目だ、このままだと、僕はまた、あの日々に。
「月くん、私は貴方のことを愛しています。貴方のことをどんな方法を使ってでも欲しいと思いました。でもそのためには、月くんには壊れていていただかないと駄目なんです。だから、私はこれから貴方を壊すために、かなり酷い事をします。多分月くんにとって辛い日々がしばらく続きますが、その分私も辛い思いをしますので、一緒に苦しみましょう。大丈夫です月くん、貴方がまた壊れたら、また月くんを愛することが出来ます。だから、早く壊れてくださいね、月くん」
竜崎はどこまでも冷たい表情でそう語ると、最後に少しだけ、期待を込めるようにその言葉を口にする。
「そして、また二人で愛し合いましょう」
その日が楽しみですねと、竜崎はまた、僕が理解出来ない『愛』を囁き始めた。
駄目だよ、竜崎、僕には、お前の語る『愛』が何も理解できない。
もしも、お前の語る『愛』が理解できなたら、暗い瞳で無表情のようにも見える、けれど今にも泣き出しそうな表情をしているお前を慰めることが出来たんだろうか。
けれど、僕にそんな思考をする暇さえ許さず、再び僕の体に、全てを壊す熱が与えられる。
そして僕は再び壊れるまで、竜崎が『愛』と呼ぶ感情に悶え苦しんだ。