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「​追憶に縋る」

 ホテルを転々とする体制から一変、捜査本部としてわざわざ建築したというビルに移ってから一ヶ月ほど経った頃だった。
 快適に空調管理された室内から、竜崎が窓の外をやけに見つめているなと思った時、ふと竜崎が思いついたように口を開いた。

 

「明日、少し休息を取りましょう」

 

 高層ビルの窓という巨大なキャンバスに切り抜かれた、夏の爽快に晴れた空を見上げながら、唐突に紡がれた言葉。
 それを聞いた時は、今もキラ事件に対してやる気がなくてアイスクリームを食べているような奴が、わざわざ休息なんてものを取る必要があるのかと思った。それも、今からではなく、わざわざ明日と時間を指定して。
 だが、竜崎が突拍子もないことをする事に慣れてしまっていた僕は、さして深く考えることなく、パソコンの画面に視線を移しながら適当に答えを返した。

 

「ああ、分かった」

 

 つまり僕はあの時、それでいいと返事をした。
 返事をしてしまった。
 だから、翌朝目を覚ました時に映った光景が、捜査本部で与えられていた高級ホテルのような自室ではなく、リムジンらしき高級車の中であった事に文句を言うことは出来なかった。

 

 

 

 


「まさか、お前の言う休息がこういうことだとは思わなかったよ」

 

 つい先ほど目を覚ましたリムジンから降ろされ、久しぶりの炎天下に晒されたかと思ったら、そこはテレビでもよく特集が組まれる有名な水族館だった。
 夏の晴天という行楽日和にしては暑すぎる中、僕は港特有の潮風で涼しさを得ながら、その聳え立つ巨大な建物を見上げる。一方、竜崎は僕の呆れとも感嘆とも言えぬ態度を気にすることなく、すたすたと水族館の入場ゲートまで歩き始めた。

 

「月くんは監禁されてから今日まで、ずっと外出も出来ず休暇らしい休暇もなかったので。休息も兼ねて、たまには外に出てみようかと」

 

 そうは言っても監視付きですが。と、互いを繋いでいる手錠の鎖を指先で持ちながらそう言う竜崎に、僕は本当かと首を傾げた。

 

「それで水族館ね……。キラ事件が進まなくて退屈だったお前が来たかっただけじゃないのか?」
「月くん。こういうのは、私の遊びに付き合ってやっているんだと思うのではなく、自分の為に来ているのだと思った方が楽しく過ごせますよ」

 

 全ての物事は心の持ちようで如何様にも変わりますから。
 などと知ったように語る竜崎に若干の苛立ちも感じはしたが、確かに言う通り竜崎の遊びに付き合っているんだと思うよりはマシだろうと、僕も遊ぶことに気分を切り替える。
 そうやって楽しもうという意思を持って入場ゲートに近づいていけば、テーマパーク特有の非日常に入り込むような好奇心が胸を満たした。
 しかし、一方で夏休みのシーズンだというのに、僕ら以外の客どころかスタッフでさえ人の影が見えないことに、違和感とまさかという予想を覚え、念のために僕は竜崎に問いかける。

 

「ここって、貸し切りに出来るような場所なのか?」
「普通は出来ないそうですが……世の中、大抵のことは金を積めば出来るようになっていますので」

 

 なので貸し切りしましたと平然と語る竜崎に、やはりこいつの金銭感覚はどうかしていると、今更すぎる事実を確認する。
 僕は竜崎が『L』として活動する上で、どのようにお金を稼いでいるのかは詳しく知らない。が、ともかく竜崎は都内の一等地に捜査用のビルをわざわざ建設したり、ふと水族館に行きたくなって翌日には無理矢理貸し切りに出来てしまうような、一般人の生涯賃金くらいの金をポンと出すのが惜しくないほどの資産を持っているらしい。
 と言うより、自分の目的に対して手段を選ばない質であるというのが正しいのだろうか。
 キラをどうしても捕まえたいから、水族館に行きたいから、常識や限度なんてものを気にせずに、自分の持っている力を全力でつぎ込んでしまう。
 まさに力を持った子供のような奴だ。なんて、僕がこっそりと竜崎の性格を分析していると、竜崎は『ですが』と言葉を付け加えた。

 

「危機管理のために、数人の飼育員やスタッフは裏側には居るそうです。とは言え安心してください。肉眼で目視はされますが、記録媒体の持込は禁じていますし、監視カメラ等の記録には残らないようになっています」
「はは、まるで大統領みたいな扱いだな。まぁ……こんな手錠で繋がれた僕たちが、スタッフにどんな関係だと思われるのか、ちょっと怖いけど」

 

 僕の方は事実の通り一般人に見えるかもしれないが、もう一方の竜崎の方はどこか独特な雰囲気を持った、年齢不詳国籍不明な男だ。つまり、そんな相手と手錠で繋がっている僕も当然、不審人物に映ることは間違いない。
 少なくとも、友達には見られないだろうなと僕が考えていると、竜崎はそうですねと首を上に向けながら口を開く。

 

「この状況で考えつくことと言えば……どこぞの大富豪が愛人である美少年を連れて、特殊プレイをしながらデートをしている。みたいなところでしょうか」

 

 なんなんだ、その不愉快極まりない設定。
 と、思わず声を上げたくなったが、たしかに今の自分達を客観的に見れば竜崎の言う通りだろうなと気付いてしまう。

 

「はは、せめて手錠が無ければセレブのお忍び旅行くらいに映るだろうにな。今からでも外さないか、これ」

 

 どうせなんの準備もせずに訪れたこの水族館で何かが出来るわけもないんだからと、竜崎に鎖を持ってアピールをしてみせたが、竜崎は絶対にそれだけは駄目だと僕の提案を視線で拒絶した。

 

「私は愛人と手錠プレイをしながらデートをする大富豪と思われてもかまいませんので」
「僕が気にするんだよ」
「そうですか。ですが出来ません。なので、月くんもお金のためならパトロンと手錠デートでも何でもする美少年役を受け入れてください」

 

 これもキラ捜査として仕方のないことですからと僕の意見を一切聞こうとしない竜崎に、僕は文句を言う気にもなれなくて、ハイハイと竜崎の言葉を仕方なく受け入れる。とりあえず、もうこの水族館には何があっても個人的に来ることはないだろう。

 

「それにしても……久しぶりにこの水族館に来たけど、相変わらず綺麗だな」
「月くんは、過去に来たことがあるんですか?」

 

 入口近くにある、イルカやシャチが悠然と泳ぐ水槽を眺めながら呟いた言葉に、竜崎もまた同じ様に水槽を眺めながらこちらに視線を向けず尋ねてきた。

 

「あぁ、多分、これで三回目になるかな」
「そうですか。でしたら、別の水族館の方が目新しくて良かったかもしれませんね」

 

 他の水族館も候補にはあったのですが、と珍しく僕のことを気遣ってくれるような台詞を口にした竜崎に、こいつは本当に眠っている僕を強制的にここに連れてきた張本人なのかと思わず疑問に思う。
 だが、ふと視線を向けた竜崎の横顔が、少ししょぼくれているように見えて、何を気にしているのかと思わず笑いながら首を傾げた。

 

「別に、こういうのは何度来てもいいものだろう? たしかに行ったことのない場所は『初めて来た』っていう感動もあるけど、二回目や三回目は、前はこんなことがあったなって思い出しながら見て回れて楽しめるものだよ」
「月くんは、そういった過去の回想を楽しめるタイプの人間ですか」

 

 まるで自分とは違う生命体を見るような視線で僕を見てくる竜崎に、たしかにこいつは過去の思い出をなぞって楽しめるようなタイプではなさそうだと苦笑する。
 それは天才だの知性的だの合理的だのとは関係ない、元々生まれ持った感覚の違いなのだろうが、少なくとも僕は家族写真のアルバムを見て楽しめるタイプの人間だった。
 だから竜崎の問いかけにも、そうだねと過去にこの水族館に来た日々のことを思い出しながら頷く。

 

「ここは昔、父さんと一緒に来たことがあるからね、いい思い出も多いよ」
「夜神さんと……ですか」
「うん。父さん、刑事なんて仕事してるからね。呼び出されたらすぐに帰らないといけないから、休日なんてあってないようなものだし、家族旅行はしたことない。日帰りの遊園地や水族館とか約束してても、基本は当日になってやっぱり行けないってことがほとんどで……」

 

 薄暗く青白い光によって演出された館内をゆっくりと歩きながら、僕はそう幼い頃の自分を回想する。
 小学生の頃、周りで家族旅行に行ったのだという同級生が、そこで親に買ってもらったらしいキーホルダーや文房具を皆に見せていて、それを羨ましく思ったこともあった。
 けれど僕は早熟な子供で、何より父さんが命をかけて犯罪者を捕まえていた事を知って尊敬していたから、直前に約束を反故にされても、約束したのにと父さんを責め立てることはなかった。
 水族館で父さんにいっぱい魚のことを教えてあげるんだと、図書館で借りてきた図鑑で勉強した事は心の内側に隠して、いってらっしゃいと仕事に行く父さんを見送り、遊ぶ予定が無くなってしまったとぐずる妹の遊び相手になってあげる。
 それが幼い頃の僕のあたりまえで、当然の光景だった。

 

「でも、一回だけ、父さんと二人っきりで水族館に行ったことがあるんだ」
「それが、ここなんですか?」
「うん。僕の人生で唯一、ズル休みをした日だよ」

 

 僕みたいな、世界一真面目な優等生がした、唯一の悪い事。
 なんて、まるでとんでもない秘密を語るような心地で、僕はその日の事を思い出す。
 あれはたしか、僕が小学校三年生くらいの頃だっただろうか。
 朝起きて自室からリビングに下りていくと、珍しく私服の父さんがおはようと僕に声をかけた。僕が起きる頃にはいつもスーツに身を包んで、僕が寝ている頃に帰ってくるのが普通の父さんだ。そんな父さんの私服を見るというのはどうにも不思議な心地で、僕は目をぱちくりとさせながら、おはようと声を返した。
 そんな驚いていた僕に、父さんはさらに僕を驚かせる事を言った。

 

『月、今日は学校を休んで、二人で水族館に行こう』

 

 その言葉を聞いた瞬間、なんて悪いことを父さんに提案されているんだろうと、驚きと恐怖と、それから期待で心臓がはち切れそうに脈を打った。
 だって、学校は体調が悪くなければ休んではいけないものだし、嘘をついて休んで遊びに行くなんて、とっても悪い事だ。

 

「日本では、遊びに行くために学校を休むことは悪い事と認識されているんですか?」
「そうだね、少なくとも僕は考えたことすら無かった。竜崎の生まれた国はそうじゃなかった?」

 

 僕がそうやって尋ねれば、竜崎はその手にはのらないと視線を水槽に向けた。

 

「私の出自を探ろうとしても無駄ですよ」
「別に、そんなつもりないよ。ただの世間話だ」

 

 たしかに僕は竜崎にとってキラ容疑者で、そう簡単に個人情報を明かして相手じゃないということは分かっている。
 でも、今日のような『休息』くらいは、少しくらい個人的な話をしてもいいんじゃないかと首を傾げれば、竜崎はどこか複雑そうな表情で僕を見つめた。

 

「…………休暇に対して、日本のような認識はなかったと思います。が、そもそも私にはあまり関係のない事でしたので、詳しく知りません」

 

 それが竜崎の限界の譲歩だったのだろう。
 もうこれ以上、自分の情報について語ることは出来ないと顔を背けた竜崎に、あの世界の切り札『L』相手にここまで語らせたら十分だろうと、僕はそうなんだと呟いてから話を続けた。

 

「正直、最初父さんに提案された時は、何か試されているんだと思ったよ」

 

 たしかにその前の週、父さんと水族館に行く約束を反故にされたばかりではあった。
 でも、だからといって悪いことをしていいわけじゃない。何より二人きりということは、母さんや粧裕とは一緒に行かないということだ。
 それは単純に、父さんが偶然にも休みになったその日、粧裕の幼稚園で親子遠足があったから母さんと粧裕は行けないというだけの話だったけれど。
 でも、もしもここで僕が自分の欲望に任せて『うん』と父さんの提案に乗ってしまったら、父さんが突然豹変して『母さんや粧裕のことも考えず、自分から悪い事を選ぶなんて! お前はなんて悪人なんだ、月』と怒られるのではないかと本気で考えた。
 一方、当然そんなつもりなんてない、ただ息子との約束を反故にしてしまった罪悪感から、せめて何か思い出に残ることをしてやりたいと提案してきた父さんは、なんの反応もない僕にどうしたのかと不安になったのだろう。
 やっぱり約束を破ったことを怒っているのかと、珍しく慌てた様子の父さんに、僕は試されているんじゃなくて、本当に父さんと水族館に行くことが出来るらしいと確信して、何度も何度も頷いては、絶対に行きたいと興奮気味な声で答えた。

 

「本当に父さんと一緒にこの水族館へ着いた時『僕はついにやったんだ!』って、すごく嬉しかったよ」

 

 まるで、夢の国にやってきたかのような心地だった。
 またその日は、いつも遠出の時、飽きたとか疲れたとか駄々をこねる妹もいなかった。だから、僕はその日だけはお兄ちゃんとしての夜神月ではなくて、父さんの息子としての夜神月でいられた。
 おかげで、僕は一日中父さんの手を引きながら、図鑑でいっぱい覚えた知識を披露しながら水族館を巡ることが出来たなと、魚の解説が記載されたボードを眺めながら思い返す。

 

「月くんのことですから、ああいうのも全部やったんでしょうね」

 

 いったい何のことだと竜崎の視線を追ってみると、そこには子供用の『海の生き物クイズ』とチープながらも可愛らしい文字が書かれた、クイズが表示されるモニターと解答用の三択ボタンが一緒になった、古びた機体が設置されていた。

 

「懐かしいな、これ、まだあったのか」

 

 僕が小学生の頃は最新だったその機体も、今は埃を被って久しいらしく、水族館の端に追いやられていた。
 だが、まだ電源そのものは入っているようで、僕らが近づいてボタンを押してみれば、モニターに『海の生き物クイズに挑戦しよう』という文字と共に、雑音混じりの音楽が流れ始める。

 

「竜崎の言う通り、これもやったよ。図鑑で予習してきたのに三問も間違えて、悔しくてその場で全部覚えていったな」
「では、今なら全問正解でき……ましたね」

 

 話している間にポチポチとボタンを押して全問正解を叩き出した僕に、流石は月くんですと、竜崎はたいした感動も込めずに言った。

 

「まぁ、所詮は子供用のクイズだからね。別に僕じゃなくても、大人になれば誰でも分かる」
「月くんは大人というものに夢を持ちすぎですね。少なくとも松田さんがこのクイズをしたら正答率は半分を切ると思いますよ」

 

 それはいくらなんでも松田さんに失礼なんじゃないだろうかと思ったが、しかし彼の天然な性格を思うと否定もしきれなかったので苦笑いを零しておく。無論、人は見かけによらないものだから、松田さんが海の生き物にとても詳しかったりという事もあるかもしれないけれど。
 と、そんな会話をしながら順路を歩いていれば、視界が青色の神秘的な空間から屋外の景色がよく見える解放的な光景に変わった。
 どうやらここから先はイルカショー等を行うステージや、ふれあい広場などがあるらしい。
 もしかして、竜崎とふたりきりでイルカショーを見ることになるのだろうかと、一瞬あの広い客席に二人だけで座っているシュールな姿を想像してしまう。
 だが、竜崎の足はイルカショーのステージに向かうことはなく、かといってふれあい広場に向かうことも無かった。

 

「竜崎、どこに行くんだ?」

 

 もしかしてトイレかと首を傾げながら竜崎の後ろについていくと、そこにはたしかに順路には含まれていたが、華やかなステージに気を取られて見落としてしまうほどひっそりとした、特別展示室があった。

 

「深海探査についての調査、か」

 

 写真のボードはありはするものの、そのほとんどが文字やグラフで構成されている特別展示室は、水族館というよりは博物館や科学館のように思えた。
 そんな中、竜崎は流し見するようなスピードで特別展示室内を歩き出したが、おそらく竜崎のことだ。この早さでも全ての文字を認識、理解出来ているのだろう。僕もついていくことは出来るが、それは母国語だからすぐに理解できるに過ぎず、英語や他の言語ではこうはいかないだろう。

 

「(というか竜崎、いったい何ヶ国語出来るんだろう)」

 

 こういうところを見ると、やっぱり竜崎は世界の切り札などと呼ばれるほどに頭の回転が早いんだなと、傍から見れば不審者に過ぎない男を見つめながら微かに笑う。

 

「何か、面白いものでもありましたか?」

 

 僕の笑いに、多少の嘲りを感じたのか、竜崎は少しばかり不機嫌そうな顔で振り返る。
 正直に尊敬を念を抱いたのだと言っても良かったけれど、でもたしかに竜崎の不審者感を笑った節もあったので、僕は誤魔化すように視線を展示物に反らした。

 

「別に、ここにも父さんと一緒に入ったなって、懐かしいと思っただけだよ」
「昔から、知的好奇心が旺盛だったんですね」

 

 たしかに、今にして思えばこの特別展示室は、海洋研究者を目指しているわけでもない小学生が入るには、少しばかり難しい。というより、正直に言えばつまらない場所だろう。
 けれど当時の僕にとっては、図鑑にすら載っていない最新の知識が集う場所として、この特別展示室はよく記憶に残っている好きな所だった。

 

「……随分と、楽しそうですね」

 

 竜崎が指摘してきた僕の感情に、そんなに分かりやす顔に出ていただろうかと、窓ガラス越しに映る自分の顔を確認する。

 

「楽しめって最初に言ったのは竜崎だろう?」
「ええ、まぁ、そうですが。単純に、月くんにとってこの場所は、夜神さんとの楽しい思い出が詰まった、良い場所なんだなと思いまして」

 

 その言葉は、ただ声を聞いただけならば、いつもの淡々とした感情の込められていない声色にしか聞こえない。
 だが、微かに横目で見た竜崎の表情はどこか不満そうな姿をしていた。
 自分からこの場所に来たくせに、何がそんなに嫌なのか、僕には竜崎の気持ちがよく分からない。かと言って、どうして不機嫌なのかと訊ねたところで竜崎が素直に話すとも思えなかった。
 だから僕に出来るのは、純粋な事実を伝えることだけだと、苦笑交じりに口を開く。

 

「……別に、この場所にあるのは、いい思い出だけじゃないよ」

 

 たったそれだけの言葉だったのに、竜崎はすぐに僕の言う『いい思い出』ではないものに察しがついたらしい。

 

「そういえば、ここに来るのは今日で三回目と言っていましたね。二回目はどういった経緯で?」

 

 よく分かったなと、相変わらず竜崎の推理力は異常だと改めて驚きを感じる。

 

「二回目は、高校の課外授業で来たんだよ。たしか、一年生の頃」
「私はそういった教育課程を経ていないのでよく分かりませんが、通常はそちらの方が楽しい思い出が多くなるのでは?」

 

 それこそ、マンガや小説のようなエンタメの世界では、甘酸っぱい思い出が出来る場所として描かれてしますが。と、不思議そうに僕を見つめる竜崎に、それは本気で言っているのかとため息を零す。

 

「そりゃ、恋人とデートにでも来ればいい場所なのかもしれないけど。学校行事で来たのは最悪だったよ……」

 

 あくまで課外授業という名目上、たとえ水族館であろうとも勉強目的だと、行動する時は男女別々の班で別れて動くように言われていた。だが、恋愛を覚えたての高校生が男女ともに、そんなルールに従うわけもなかった。

 

「一緒に写真を撮ってくれって何人にもお願いされて、ほとんど見てる余裕なんて無かったからね」
「……それは随分、月くんらしい理由ですね」
「あははは、まぁ、そうだな。本当……散々写真ばっかり撮られて、なんのために水族館に来てるんだか分からなくなったよ。まるで水槽の内側の魚になった気分だった」

 

 何度も何度も、使い捨てカメラのフラッシュを浴びた記憶に、これが展示物の気持ちかと厭世気味になった日のことを思い返す。
 最初は同じクラスの同級生だけだったのが、次第に別のクラス、それから上学年の先輩と増えていき、まだ高校に入学したばかりで上手い断り方を知らなかった僕は、流されるままに写真撮影に付き合わされた。
 まったく、魚を見に来ているのか、僕を見に来ているのか分からない。と、愚痴を零そうにも、同じ班の人間からすれば嫌味でしかないのは重々承知していた。だから、結局最後は一人体調が悪くなったと嘘をついて、集合時間よりも大分早い時間に大型バスの中へ隠れるように戻った事をよく覚えている。

 

「だから、ここでの記憶は楽しいのが半分、苦いのが半分ってところかな」

 

 そう誤魔化すように笑ってみせたが、記憶とは時間が経過するごとに色あせて、細部を思い出せなくなるものだ。だから正直に言えば、父さんと来た遠い日のことよりも、三年前の高校の記憶の方が鮮明に覚えていた。
 昔父さんと一緒に行った思い出の場所だなと、たとえ高校の課外授業だとしても、僕なりに楽しみにしていたこの水族館。それが、追いかけまわされた記憶に塗り替えられた事も含めて、ここは僕にとっては苦い思い出の多い場所になってしまった。
 そんな感傷を隠していた僕に、竜崎が唐突に僕の顔を覗き込んでくる。

 

「では、私とここに来た経験は、月くんにとってどっちの思い出になりそうですか」

 

 突然の問いかけに、いったいどうしたんだと、僕は竜崎から逃れるように、後に後退りながら首を傾げた。

 

「どっちって……そんなの、月日が経ってみないと分からないだろう」
「ですが、想定は出来るはずです」
「まぁ、ある程度は……でも、お前と一緒に過ごす経験がどんな風に記憶に残るか。なんて、正直に言って未知数だよ」

 

 気付けばいつの間にか竜崎に連れて来られて、散々に付き合わされた苦い記憶として残るのか。
 あるいはキラ事件を解決して、この手錠が外れ竜崎と別れた後、あの世界の切り札とこんな場所に行ったのだという貴重な思い出として残るのか。
 そんなものは、今のこの日々が思い出になるような時間が経過しなければ分からないし、僕等の関係が、キラ事件の決着がいつになるかにもよって分からない。
 ああ、けれど、色々と考えてみて、ひとつだけ確かなことがあると気付いた。

 

「まぁ……竜崎との経験は多分、どれも全部、何かしらの思い出としってずっと覚えてはいるだろうけどね」

 

 それだけ竜崎という男は僕にとって強烈で、印象的で、特別な存在であることは認めざるを得ない。
 それは共にキラ事件を追うという特別な立場もあるが、同時に自分と同等の頭脳で物事を考える人間がこの世に居ることを知れた、特別な存在だからというのもある。
 と、僕が珍しく本心を打ち明けたというのに、竜崎は何故か僕を訝しむように見つめてくる。

 

「……出来れば、楽しい思い出として記憶していただきたいんですが」
「なんだよそれ。まぁ、少なくとも、高校時代の頃よりはいい思い出だと思うよ……。竜崎は、自分からこの特別展示室に入ってくれたし」

 

 高校一年生の頃に一緒の班になったクラスメイトは皆、水槽の魚も流し見する程度で興味も持たず、それよりいかにして僕を出汁に女子と遊べるかを考えているような奴らばかりだったから。だから、その時も特別展示室は興味深い内容の解説がされていたけれど、イルカショーを女子と一緒に見ようと盛り上がる連中に付き合わされて、結局入ることは出来なかった。
 案外、皆、水族館という雰囲気と青くて鮮やかな空間が好きなだけであって、中に展示されているものに興味や好奇心を抱いているわけではないんだなと、僕はその時初めて知った。
 だから、何も言わずに自分からこの特別展示室に入ってくれた竜崎との水族館は、少なくとも僕にとってはいい思い出の部類に入る。

 

「夜神さんとの思い出に匹敵しますか」
「それは、欲張りすぎだろう」

 

 無論、こんな傲慢な台詞をポンポンと吐き出してしまう竜崎に、僕の心を詳しく解説してやる気なんて無いけれど。
 少なくとも、今は楽しいよと、僕はじっくり特別展示室のボードに書かれた細かな文章に視線を落した。

 

 

 

 

 


 僕等が出口のお土産コーナーに辿りついたのは、お昼もすっかり過ぎた頃だった。

 

「さすがにお腹空いてきたな」

 

 さっそくお土産のお菓子を物欲しそうに見つめる竜崎に、ここで食べるんじゃないぞと注意しておくが、残念なことに竜崎が僕の言うことを聞くはずもなく、あいつの手の中には既にレジ前にあったペンギン型の棒付きキャンディが握られていた。

 

「月くんも、何か欲しいものがあればお好きにどうぞ」

 

 まるで自分の店かのように振る舞う竜崎に、お前はいったい何なんだと聞きたくなったが、この水族館を貸し切りに出来た男だ。きっとこの土産を買い占めることも容易いのだろう。
 とはいえ、さすがに子供向けのお土産が多い中で欲しいものはないなと、僕は竜崎がお菓子を選別している後ろで、適当にぬいぐるみを触ったりキーホルダーの類に視線を向けたりして時間を潰した。
 父さんと一緒に来た時はたしか文房具を買ってもらって、壊れるまでずっと使い倒していたなと、クジラのチャームがついたシャーペンの存在を思い出す。さすがにもう捨ててしまったが、子供の頃はとても大切な宝物だったように思う。
 棚一面に並ぶチープな量産品であっても、ここに来た記憶が結びついて特別な物になるのだと、記憶というのはすごいなと感心していた時だった。

 

「日本の水族館では、名前入りのチャームが売られているんですね」

 

 いつの間にかお菓子を選び終わったらしい竜崎が、僕の肩越しに顔を覗かせて、可愛いイルカが付いたキーホルダーの棚を興味深そうに見つめた。

 

「こういったものは、日本ではメジャーな存在なんですか?」
「うん? ああ、そうだな。水族館だけじゃなくて、よく観光地とかで見かけるよ。といっても、僕の名前はどうせ無いだろうからって詳しく見たことないけど」

 

 いくらカタカナ標記で汎用性があるとはいえ、ライトなどという名前は早々あるものではないし、僕も今まで同じ名前の読みをする人間に会ったことはない。とはいえ、僕自身はこの名前を疎ましく思ったことはないし、特に揶揄われた経験もない。何よりあの父さんが付けてくれた名前なんだからと、暗い世界を照らす光のような存在には、月というのは相応しいとさえ思っている。

 

「なるほど、これを買うことが出来るのは一般的な名前の人間に限るんですね」
「まぁ、そういえばそうだな……。もしかしたら、竜崎の名前ならあるかもしれない。探してみるか?」

 

 僕が冗談めかしてそう聞けば、竜崎は何を言っているのかと分かりやすく呆れた顔で、バリバリと舐めていたキャンディを噛み砕いた。

 

「月くん、今日はやけに私のプライベートについて探ってきますね」
「僕の方がいっぱい話したからね。僕だって、こんな立場じゃなかったら、もっと竜崎の過去とかそういうの、知りたいって思うよ」

 

 とは言っても、キラ容疑者という立場だからこそ、竜崎と一緒に水族館なんて場所に来ることが出来ているのだけれど。
 だから僕がどれだけ望もうと、冗談を交えようと、竜崎は自分から何か己のことを語ることはないんだろう。
 それが友人としては――たとえ表面上の言葉でしかなかったとしても、不公平な気分になるのは否めない。

 

「そういう事をさらりと言ってのけるところ、どんどんとキラ容疑が濃厚になっていきますね」
「濃厚も何も、お前の中では、僕がキラなんだろう」
「はい、その通りです」

 

 はっきりと告げられた竜崎の言葉に、こんな場所に来ても竜崎は相変わらずだなと、一種の諦めを感じながら僕は売店の外に出る。
 竜崎はいつの間にか来ていたワタリさんに山のようなお菓子の箱を渡すと、ふと何も選んでいない僕の方を見る。

 

「月くんは、特に欲しいものはありませんか?」
「僕は特に無いよ。ミサにぬいぐるみを買っていったところで、どうして自分とはデートしてくれないんだって煩くなるだけだろうし」
「はぁ、では自分用にあの等身大ラッコのぬいぐるみはどうですか。全長130センチあるそうです」
「捜査本部のどこに置くんだよ、そんな大きなぬいぐるみ。置くとしても寝室くらいしかないだろう」
「いいじゃないですか。キングサイズのベッドですから、添い寝も出来ますよ」

 

 竜崎とラッコのぬいぐるみを挟んで川の字、というのはなんの冗談なんだろうか。想像しただけでもシュールだと思いつつも、けれどあのふわふわとした手触りのぬいぐるみは、抱き枕としてはたしかに魅力的だった。
 だけどやっぱり、いい年をした男二人がラッコを挟んで寝るという図に耐えきれず、僕はいらないよと竜崎の提案を断る。

 

「そういうのよりも、僕は……」

 

 そう言って振り返れば、先ほど通り過ぎてきた、この水族館で一番大きいという水槽が遠くに見えて、僕はため息と共に言葉を零す。

 

「竜崎と、写真の一枚でも取れれば……それで十分なんだけど」

 

 結局、一番記憶を鮮明に保つことが出来るのは写真だと、僕は決して叶うことのない願いを口にする。
 そんな僕の言葉に、竜崎はどこか驚いたような様子で、僕の隣にやってきた。

 

「月くん」
「分かってるよ。お前も僕も、映像記録に残るわけにはいかない。キラと戦っているんだから当然だ」

 

 もしもここで写真の一枚でも撮影しようものなら、その瞬間、僕も竜崎もキラによって殺される可能性が各段に高くなる。
 だから竜崎も、それから捜査本部のメンバーも皆、自分達が映っている写真や記録等は全て破棄してきたのだという。それがどれほどの決断なのか、こうして過去を回想しながら今日一日を過ごした僕にはよく理解できる。
 きっと、父さんと一緒にここで撮影した記念写真も、父さんは捜査のために全て捨てたんだろうなと、失われた記録に思いを馳せる。
 なんて僕が感傷に浸っている間、竜崎は不思議そうに指をくわえながら僕を覗き込んできた。

 

「意外でした。月くんは、高校時代の経験からここで写真を撮影されるのは嫌かと」
「そりゃ、見世物みたいに撮られるのは嫌だけど……。でも、思い出を留める行為に、嫌悪感は抱かないよ」

 

 写真を撮影する行為そのものは責められるべきものではないからと言えば、竜崎はそうですねと、突然僕をジッと見つめはじめた。

 

「竜崎……?」

 

 いったい何をしているのか、僕の背後に何かがあるのかと振り返ってみたが、そこにあるのは、ただの水槽だけだ。
 しかし、竜崎はとても物欲しそうな、何かを我慢するような視線で、僕のことを凝視し続けた。

 

「怒られると思って黙っていたんですが」

 

 何かを決意したのか、竜崎はぽつりと独り言のように言葉を零す。

 

「私も高校時代、貴方の写真を撮ろうとしたクラスメイトの気持ちが分かります。それだけ月くんは美しいですし、こういった幻想的な空間に居る貴方は、一種の魔性さえ携えています。カメラのレンズという枠で、貴方の美しい姿を永遠に捕らえておきたいというのは、とても理解できる感情です」
「お、おい……突然、どうしたんだよ」

 

 自分の容姿が整っていることは理解している。けれど、まさか竜崎にこうも堂々と美しいだの魔性だのと言われるのは、羞恥心のようなものが沸いて出てきた。
 だが、一度自分の本心を語り始めてしまった竜崎は留まることを知らず、そのままグイグイと僕ににじり寄って来る。

 

「ずっと、月くんを水槽のような場所に閉じ込めて、捕らえたいと……そう考えながら、この水族館を巡っていました」
「お前……ッ! 何、考えて」
「はい、月くんがこうして怒るだろうと思っていたので黙っていたんですが。でも、写真の話を思い返すと、どうしても話したくなりました」

 

 まったく、どうして僕を怒らせると分かっていて我慢できないんだと、思慮のある大人なんだか自由奔放な子供なんだか分からない竜崎にため息を零す。

 

「僕はただ、竜崎とは友人として写真が撮りたいって言っただけなのに」
「私のこの感情は、友情由来ではないと?」
「普通、友達を水槽に捕らえたいなんて思わないだろう。お前のそれは、僕をキラだと思っているから……早く牢獄に捕らえたいっていう、そういう感情だろう?」
「そう、なんでしょうか……」

 

 僕が示した答えに、竜崎は納得がいっていないように首を傾げた。
 竜崎が何を考えているか、なんて。たしかに竜崎の推理過程や考えていることを推察するのは得意だけれど、こういった推理ではない、感情的な部分について推察するのは難しい。
 そしてそれは、時々幼稚な情緒を見せる竜崎自身にも、言葉にするには難しい感情だったらしい。

 

「月くんをキラとして捕らえたい。というのは、当然ですがあります。でも、この水族館で隣に立つ月くんを見て思うのは、キラに対する感情というよりは……もっと、封じ込めたいと言うか。宝物として、永遠に飾っておきたいような、そんな所有欲と独占欲にも似た感情です」

 

 まったくもって竜崎の言葉は問題発言なのだが、しかし気付けばワタリさんも居なくなった今、二人きりの場所で僕以外に竜崎の異様さを指摘してくれる人間はいない。
 だから僕は竜崎の勢いに圧されないように、きつく口調を強めて反論した。

 

「竜崎、僕は竜崎とは友人でいたいと思ってる。僕をキラとして疑っているのは、もう諦めたけど……。でも、飾っておきたいなんて、僕に対して失礼だって思わないのか?」
「そうですね、本当に月くんを閉じ込めた際には、ただ鑑賞するだけではなくて会話もしたいと思います」

 

 駄目だ、こいつ、まったく通じていないと頭を抱えるが、一度深く疑問を持ってしまった竜崎を止める手立ては無いらしい。

 

「月くんを殺して、ホルマリン漬けにして永遠の美を見ていたいとか、そういうわけじゃないんです。月くんには、私が見える位置にずっと居てほしいと言うべきか、私以外と接触する手立てを断ちたいんです。私との思い出だけで、貴方の記憶を埋め尽くしたい。夜神さんとの記憶も、高校生の頃の記憶も消えてしまいそうなほど……正直言って、貴方が夜神さんとの記憶を楽しそうに回想するのが、私は少し苦痛でした」

 

 ぶつぶつと、いつまでも己の心を正直に吐露する竜崎に、いったいなんなんだと、僕は呆れとも諦観とも言えない気恥ずかしさを抱えながら俯く。

 

「……普通に、友達として今日を楽しんでた自分が、馬鹿みたいだよ」
「いえ、私も、一人で来るよりも楽しいと感じることがあるんだなと、月くんと友人としてここに来て良かったと思っています。それは間違いありません」
「じゃあ、友人でいいじゃないか、もう」

 

 それ以上、深く考えないでくれと、僕は竜崎の視界から消えようと出口に向かって歩き出した。けれど、それを食い止めるように竜崎が僕の腕を掴んで、真っ黒な瞳で僕の顔を覗き込んできた。

 

「今までずっと、月くんに対してどうしたいのか、よく分かりませんでした。けれど、今日、水槽の中に居る魚と一緒に月くんを見た瞬間、ようやく何かを掴んだような気がするんです。どうすれば、私が一番満足できるのか、その片鱗が見えたような」

 

 ジッと、こちらを見つめる男が、その感情に気付いてしまうのが、僕は恐ろしかった。
 だって、ここまでハッキリと語っているのに、情緒が未熟な竜崎は、未だにその可能性に気付けていないというのだ。
 なんて、馬鹿らしい。
 これが本当に、あの世界の切り札なのだろうか。

 

「月くん、教えてください」

 

 お前の言うその感情はまるで、愛だの恋だの、そんなものに似ているなんて、僕の口から言わせたいとしか思えない。
 けれど、そんな簡単に答えをやるほど僕は優しくも、そして竜崎からの感情を受け止める準備も出来ていなかった。

 

「……そういうのは、今日が思い出になった頃に、分かるものなんじゃないのか」

 

 だから、僕は全てを未来の竜崎に押し付けることにした。

 

「思い出、ですか?」
「そう。今は色んな感情や経験が渦巻いて分からなくても、思い出になるくらい時間が経過すれば、もっと俯瞰的に物事を見れるようになる」
「そういうもの、ですか」
「そういうもの、なんだよ」

 

 僕よりも人生経験が長そうなくせに、どうしてこういうところは苦手なんだと、僕は親指をくわえて真剣に考え始めた竜崎を呆れながら見つめる。
 そうやって悩み続けて、僕との手錠が外れた頃に、ようやく気付いてくれないだろうか。
 だってそうでもしなければ、僕は本当に竜崎に水槽のような、永遠に出られない場所に閉じ込められかねない。と、本気で思ってしまうほどに、竜崎は真剣だった。

 

 

 だから、全てが思い出になる頃に縋りながら。

 父さんとの記憶も、高校時代の記憶も、全て塗り替えていった竜崎に、悔しさにも似た戸惑いを抱いてしまった。


 なんて、それこそ恋のような感情、絶対に認めたくないけれど。
 

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