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「​破壊」

 

 久しぶりに感じた、柔らかなシーツの感覚に、遂に生命維持装置にでも繋がれたのかと、目覚めた瞬間思った。
 しかし、瞼を開いて視界に映り込んだのは、見知らぬ天井と、仰向けになった僕を覗き込む、医者らしき複数の人間の顔だった。
 白衣を纏った彼らは、僕の意識が戻ったのを確認すると、落ち着いた様子でどこかに電話をかけはじめた。
 数分後、ドアが開く音が聞こえたかと思うと、真っ黒なスーツに身を包んだ、スパイ映画に出てきそうなガタイのいい男の姿が見えた。


「ヤガミライト。貴方は我々の組織によって保護されました」

 

 流暢とは言えない日本語に、別に英語でもかまわないと伝えようとしたが、声は吐息として零れるばかりで、思った以上に身体は僕の言うことを聞いてくれなかった。
 しかし、僕の状況は分かっているのだろう。スーツの男は医者からカルテを受け取りながら、無理はしなくていいと僕の動きを静止させた。

 

「貴方の処遇は、今、私達の上司が決めているところです。残念ですが、貴方の自由は認められていません」

 

 しかし、と。スーツの男は苦々しい表情でカルテに視線を落しながら、言葉を続ける。

 

「少なくとも『彼』の元よりは、人権に配慮した保護であることをお約束します」

 

 それはありがたい話だと、僕は大きく息を吐き出してから、再び目を瞑って意識を失った。

 

 

 

 

 

 僕がキラとして、悪魔――Lに捕らえられたのは、十一月になったばかりの頃だった。
 あいつは僕が腕時計に細工をしていたことに気付いており、僕が火口の名前をノートの切れ端に書いた瞬間、ようやく証拠を得たと悪魔のように歪んだ、けれど誕生日を迎えた子供のような無邪気な笑みで僕を捕らえた。
 ノートの所有権は火口から僕へ既に移った後だったため、ノートを奪われても僕の記憶は消えなかった。だが、それが幸いだったのか、あるいは不幸だったのか。今となっても判断がつかない。
 どうしてお前がキラなんかになったんだと、最後まで泣き崩れていた父さんの声を背後に聞きながら、僕はLの拘束の元、日本ではないどこかの国へと渡った。
 とは言っても、キラであることが確定してからはずっと拘束具によって捕らえられ、ほとんど全ての情報をシャットアウトさせられていたため、何処に連れていかれていたのかはあくまで僕の推測だ。
 だがおそらく、僕が連れていかれたのは、Lが本来自分の拠点として使用していた場所だったに違いない。
 秘匿性に優れた、誰にも存在を知られない所。
 僕が全ての拘束具を外されたのは、真っ白な壁によって覆われた、とても天井の高い造りをした監獄だった。
 その監獄には天窓くらいの位置に一つだけ窓があり、そこから見える景色だけが僕に外の世界を教えてくれた。それは外界に繋がっている希望の場所のようにも、もう二度とあの窓の向こう側には戻れないのだという絶望の象徴ようにも見えた。
 僕の監獄での記憶の半数を占めるのが、その窓から見える景色だった。
 残りの半数の記憶は、尋問の記憶だった。
 否、あれは、あの監獄で行われたのは、尋問なんかじゃなかった。
 あれは、拷問だ。
 何かを聞き出す目的を持たない、虐げる行為そのものを目的とした、ただの――。

 

 

 


「夜神さん、起きてらっしゃいますか?」

 

 己の名前を呼ぶ柔らかな女性の声に、僕は自分の意識がまた白い監獄に囚われていたことに気付いた。

 

「えぇ、大丈夫です。起きています」

 

 擦れた声で返事をして、意識が飛んでいたことを悟られぬよう現実に視線を戻す。
 今僕が居るのは、どこかの別荘らしきアンティーク調の家具に囲まれた部屋だった。最初に目覚めた時は医師や医療用器具に囲まれていた為どこかの病院かと思った。しかし、ここは病院の一等室にしては豪奢な家具が多く、また外に繋がる窓からは庭以外の何も見えない。要人用の病室ではなく、隔離するための別荘地であることは直ぐに察しがついた。
 とはいえ、ここは監獄とは比べ物にならないほど心地よい環境だ。Lの所ではシーツは元より、僕には身に纏うべき一枚の毛布すら与えられなかった。常に裸体を監視カメラの前で、そしてLの前で晒すことを強いられていた環境に居た身としては、もはやここが天国なのかと錯覚する。
 そんな弱った身体を受け止めてくれる医療用ベッドの周りには、昨日まで物々しい医療器材がベッドを取り囲むように置かれていたが、今は点滴のみを残して全て無くなっていた。
 想像していたよりも肉体の回復は順調らしいが、たまに僕の意識はまだ囚われているのか、白い監獄に飛んでしまう。一瞬だってあの地獄のような記憶など思い出したくもないことばかりのはずなのに、記憶が自然と再生されてしまった。そんな精神状態の己を恨めしく思いながら、少なくともここは悪魔の居る白い監獄よりもずっと安全なのだと、己に言い聞かせることで精神の安定を図る。

 

「ちょっとだけ体、起こしますね」

 

 僕に声をかけてきた女性、というよりも少女に近い年齢だろうか。彼女は僕に近寄ると、そのままベッドの脇にあるボタンを軽く操作した。
 すると、電動式のベッドの背もたれが、ゆっくりと機械音を響かせながら起き上がった。久しぶりに寝る以外の体制を取った気がすると、改めて周囲に視線を向ければ、大きな窓の向こうに心地よさそうな庭が見えた。
 本当に、僕はあの監獄から逃れられたらしい。と、感慨のような、けれど未だに現実感のない感覚のまま、呆然と温かな光に照らされた窓辺を眺めた。
 そんな僕の視線に気付いたのだろう。彼女はいいことを思いついたというように両手を合わせ、ちょっと待っていてくださいねと部屋を出て行く。
 数分後、彼女は車椅子を押しながら戻ってきた。

 

「夜神さん、外に出てみませんか?」

 

 今日は天気もいいですから、とても気持ちいいですよ。と微笑む彼女に、僕は本当に外の光を浴びることが出来るのかと、罪悪感のような戸惑いを覚えた。それほどまで、僕にとって外は自由の象徴であり、キラとして捕らえられた枷のようなものだと思っていた。
 しかし、初日に『Lの元よりは人権を保証する』と告げられた通り、僕にはこの屋敷内だけとはいえ外に出る自由が与えられているらしい。
 彼女は器用に僕の身体を抱き上げると、そのまま軽々と車椅子の上に移動させた。その際見えた己の腕や脚の細さに、女性でも苦労なく抱き上げられるほど窶れてしまったのだなと、己の身体の変化を改めて知る。

 

「もうすぐ七月ですけど、この辺りはまだちょっと涼しいんです」

 

 彼女はそう言いながら、僕の膝に赤いチェック柄のブランケットをかけると、寒くないですかと訪ねてくる。
 僕は問題ないよと頷きながら、ここは北半球で日本と緯度がさほど変わらない国かと、今の現状を一人考えた。
 ここが何処の国で、なんの組織によって保護されたのか、誰に聞いたところで答えてはもらえなかった。が、あの世界の切り札『L』から僕を奪い取った組織だ。国家直下の組織であるのは間違いなく、その国も大国であるのは間違いない。
 ならばFBIかCIAか、もしもFBIなら僕は以前に二十四人の捜査員を殺したから、個人的な恨みで点滴に毒物を混入されるかもしれない。だとすればCIAが望ましいが、それはそれでまた拷問される日々に逆戻りだろうか。
 なんて、自分の悲惨な未来を他人事のように考えていると、温かい日差しが僕の体に降り注いだことに気付いた。

 

「やっぱり外は気持ちいいですね」
「…………はい、そうですね」

 

 久しぶりの、外の世界だった。
 自分で車椅子を動かす体力さえない僕は、彼女に案内されるまま、綺麗に管理された広い庭を巡る。
 最初にここは別荘かという印象を抱いた通り、元々人を捕らえる目的で作られた場所ではなさそうで、丁寧に管理された芝生も、しばらくすれば花が咲くであろう生垣も見事だ。
 現状においては、捕らえられた監獄が変わっただけに過ぎないのだが、この別荘には心を慰めてくれるものが多い。
 温かなベッドと、身を包み込む木綿の柔らかな服、それから外に出る自由。
 なんて、僕が今手にしているものを並べ立ててみると、改めてあの悪魔の元に居た時、己がどれほど人権というものと縁遠い生活をしていたのか身に染みて、喉の奥から自然と苦笑が湧いてきた。

 

「本当に、温かい……」

 

 身に降り注ぐ光を感じながら、噛み締めるように、大きく息を吸い込む。
 そうすれば、若葉の瑞々しい香りに、土が湿った匂いが僕の肺を満たした。遠くでは夏の花も咲いているのだろう。心地よいそよ風が運んでくる、人工的ではない甘い匂いに、僕は何故か、去年の大学入学式の日を思い出した。
 あの日も今日のようによく晴れた春の日で、会場のホールには、どこぞの有名な華道の先生が活けたという作品が飾られていた。匂いというのは記憶によく結びつくというが、たしかに花の香りだけで、あの日の光景を今、目の前の出来事のように思い出した。
 そして、代表挨拶のために昇った壇上にも、同じ様に花が置いてあったせいだろう。
 鮮明に蘇った記憶は、同時にあいつの姿を思い起こさせた。

 

『私がLです』

 

 今まさに、耳元であいつの声が聞こえたような気がして、僕の身体は笑えないほどに反応してしまい、何にも拘束されてなどいないのに身動き一つできなくなってしまった。

 

「夜神さん、大丈夫ですか? 具合、まだ優れませんか?」

 

 しばらく呆然と俯いていた僕に、彼女はそう心配そうに尋ねてくる。

 

「……なんでもありません。ただちょっと、久しぶりの外だから、疲れてしまったのかもしれません」

 

 こちらを覗き込みながら首を傾げてくる彼女に、必死に心の中に渦巻いた動揺を悟られぬよう、長年演じてきた優等生の笑みを浮かべる。
 彼女が僕の世話役以外に、どういった立場の人間かは分からないが、僕を保護している人間と繋がっているのは間違いない。そいつらに僕は、己はまだ有用な人間であるということを証明しなければならない。長期間の監禁と拷問によって精神がイカれていると判断されれば、僕はすぐに処刑されるか、壊れてもかまわないと廃人になるほどの薬物でキラとしての能力について自白させられるだろう。
 だが、僕が有用な人間であると示せれば、まだチャンスがある。僕が未だ処刑されないのは、キラとしての能力に利用価値を見出している人間が上層部に居るからだ。そいつらを利用すれば、ミサに渡すはずだったノートを回収して、僕はまたキラに戻ることが出来る。
 そのためにも、己の衰弱を悟られてはならない。と、いつも通り完璧な笑顔を浮かべたというのに、彼女はとても心配そうな表情で僕を見つめていた。

 

「……夜神さん、無理、しないでくださいね。私が出来ることなら、なんでもお手伝いしますから」

 

 だから、無理に取り繕わなくてもいいんですよと、彼女はこちらを安心させるように微笑む。
 彼女がどこまで僕の意図を理解しているかは不明だが、たしかに長期間監禁され拷問された人間としては不自然な笑顔だったか。去年の六月からずっと、キラ事件捜査のために監禁だの手錠生活だのをされてきたせいで感覚が狂ってしまっているらしい。一般的な感覚を見誤るなんて己らしくないと、自身がまだ本調子でないことを悟る。
 だが、修正は安易だ。まず彼女を信用させるために、この女が求めているだろう『衰弱して弱っているがそれを表には出さない、けれど自分には心を開いてくれる男』を演じよう。
 そう考えながら、僕はまるで初めて理解者に出会ったかのような、気付いてくれて嬉しいと語るような弱気の笑みを浮かべた。

 

「そんなこと言ってもらえたのは、いつぶりになるかな……ありがとうございます。貴方が、私の世話係でよかった」

「いえ、そんな……それより、敬語なんてよしてください。夜神さん、多分私と同年代ですし……もっとフランクな感じでいいですよ」

 

 お互い、そちらの方が気楽でしょうからね。と、彼女の方から距離を詰めてくる様子からして、おそらく彼女経由で僕を懐柔し、キラの情報を聞き出す算段なのだろう。
 どうやら拷問で無理矢理聞き出す方向性ではないらしいという事に安心しながら、相手から心を開く体なのは僕にとっても利用しやすくて都合がいいと、心の中で笑みを浮かべた。

 

「うん、そうだね。そっちの方が、僕も嬉しい。えっと……君の名前は?」
「あ、私、サユと言います」

 

 サユ、と彼女の口がその言葉を紡いだ瞬間、無条件で妹の顔が浮かび、そして酷く苛立ちを覚えた。その感情が表情に出なかったのは、長い間あいつとの知恵比べという名の嘘の付き合いをしていたおかげだ。
 僕を捕らえた組織がどこまで僕のことを調べているかは分からないが、だとしても妹の名前を――粧裕の名前を利用することには心底腹が立った。
 僕と同じぐらいの年齢の女に、妹と同じ名前を名乗らせれば、僕のことを懐柔できると思ったのか。
 馬鹿らしい。と、しばらく間を開けてしまったせいだろう。サユと名乗った女は、申し訳なさそうに眉を下げた。

 

「ごめんなさい、ファミリーネームは名乗っちゃいけないって、叔父さまから」

 

 僕の間をそうやって解釈したらしいサユに、どうやら相手はノートのことまでは情報を手に入れてないのだと確信を得る。もしもノートのことを知っているならば、僕がノートを持っていないのは明白なのだから、世話係にまで名前を伏せさせる必要はない。それよりも懐柔を行いやすくするように、偽名でもいいから名前を全て明かすべきだ。おそらく世間で噂されている程度の『死ねと念じれば死ぬ能力』くらいの検討しかついていないのだろう。
 僕からファミリーネームを尋ねるまで待てばここまで悟られることもなかっただろうに、案外この女から情報を引き出すのも簡単か。と、これから先に必要になってくる懐柔方法に思考を巡らせる。

 

「大丈夫、気にしてないよ。そしたら、僕ばっかりが名前を呼ぶのも、なんだか変だ。サユも、僕のことはライトって呼んでほしいな」

 

 ならば僕からもっと歩み寄るフリをしようと、いつも通りの、けれどちょっと弱々しい笑みを浮かべれば、サユは満足そうに頷いた。

 

「はい。では改めまして、よろしくお願いしますね、ライトさん」
「あぁ……よろしくね、サユ」

 

 妹と同じ名前を名乗った女を心の中では冷やかな目で見つめながら。
 僕は、まだまだ自分は監獄から逃れられてはいないのだと、必ず生きて再びキラとして復活するのだという覚悟を決めた。
 そして、今度こそLを――あの悪魔を殺してやるのだと。

「夜神月、貴方が壊れたら殺します」

 

 白い壁の監獄にて。
 目隠しを外され、最初に告げられたのは、そんなLの言葉だった。

 

「あぁ、そうか……」

 

 僕はかつて自ら監禁を申し出た時と同じように、両手足を縛られた状態で、固い床に座らせられていた。
 そんな状態の僕、キラへと向けるLの、どこまでも冷たく底が見えない視線に、思わず息を飲む。
 ついにデスノートについての尋問が始まるのかと、いったいどんな拷問をされるのかと考えていた僕にとって、Lの言葉は『これから尋問を行うが、お前の生死を気に掛けるような生易しい事はしない』という意味なのだと理解した。
 しかし、デスノートのルールについてある程度知っているLに対して、どこまで秘匿すれば再び僕にチャンスが巡ってくるのか、それについて考える時間は十分にあった。
 だから、たとえLの牙城に閉じ込められたとしても、ここからは新たな心理戦を繰り広げることになる。
 と、あの日、あの瞬間までの僕は確信していた。

 

「竜崎、お前に捕まった時点で、僕はどうせ逃れられない。キラである以上、どれだけよくても終身刑だ。僕はもう、何も隠さない」

 

 痛い思いをするのも嫌だからねと、冗談めかして口にしてみるが、Lが僕を見つめる視線に変わりはない。
 そう簡単にLを出し抜けるとは思っていないが、拷問を行われるのは御免だ。肉体的な苦痛に対して耐久はある方だとは思っているが、しかし特殊部隊のように訓練を受けているわけではない。ましてや、相手はあのLだ。どれだけ耐久のある人間であろうと吐かせる術を知っている。
 だからこそ、僕はこの世界で唯一Lに太刀打ちできるであろうこの頭脳で勝負をしなければならない。そのためには、Lが僕と対話をする方向にもっていかなくては駄目だ。

 

「竜崎、僕は――」
「夜神月、貴方は一つ、大きな間違いをしています」

 

 遮るように告げられた言葉に、僕にとって馴染みのない『間違い』という言葉に、どういう意味だとLを睨み返す。
 すると、Lは僕の身体を突き飛ばし、地面に這いつくばらせると、後ろから馬乗りになり全身の動きを抑えた。

 

「ッ、おい、さっきも言ったとおり、僕は!」

 

 地面に叩きつけられた衝撃に耐えながら、必死にLを説得しようとして口にした言葉。
 しかし、Lは僕の意思など関係ないとでも言うように、一方的に告げる。

 

「私は、貴方を尋問するつもりはありません」
「……デスノートという証拠があれば、僕を罪に問うには十分だと?」

 

 キラが誰であるのかという点、そして凶器であるデスノートの検証さえ出来れば、あとはどの様にFBIを殺したのか、なぜ殺したかのか調べる必要はない。というつもりなのだろう。
 だが、完全解明を求めないなど、あまりにもLらしくない選択だ。たとえ立件するに相応しいだけの証拠があろうとも、Lであればこの事件の全てを解明したいはず。すくなくとも、僕の知っているLという男はそういう人間だった。
 しかし、僕の問いに、Lは呆れたように言葉を吐き捨てる。

 

「その前提が間違いだと言っているんです」

 

 前提が間違いとはどういう意味か。と、Lの言いたい意味が分からず、らしくもない質問をしてしまいそうになった時だった。
 Lは、傍らに置いてあった分厚い封筒をつかむと、その中身の書類を僕の前にばらまいた。
 英語や日本語で作成された書類が、吹雪のように視界を塞ぐ中、紛れていた数枚の写真が、僕の目の前に落ちてきた。
 その写真を見て、どういうことかと、僕は思わず絶句する。

 

「これは……」

 

 そこに映っていたのは、陰鬱とした表情で僕の遺影を持つ粧裕の姿と、棺に向かって泣き崩れる母さんの姿と、その肩を支える父さんの姿だった。
 ふと他の散らばった書類に視線を向ければ、そこには夜神月と名前の記された死亡届や死亡診断書が目に入り、Lが何をしたのかを悟った。

 

「キラ事件は、容疑者死亡により幕を閉じました。私はもう、貴方から何かを聞き出す必要はありません」

 

 その言葉に、ようやく僕は、Lの言う前提が何かを知る。
 Lは、事件の完璧な解明など求めなかった。
 僕を捕らえ、デスノートという凶器を見つけた時点で、Lの中ではキラ事件は全て解決してしまった。FBI殺しなど、Lの中では些細な謎でしかなく、デスノートという手段が分かった今となれば、いくらでも推理が組み立てられるのだろう。

 

「貴方は拘束後、私の監視を抜け出して、逃亡。しかし逃げ切れないと悟ると、自ら高所より落下。飛び降り自殺を図った。頭部より落下したため顔は確認できないが、DNA鑑定の結果、夜神月の遺体であると判定。偽の死体の用意と病院に金を握らせるだけで簡単に偽装が出来ました。葬儀は日本で行われましたので、証拠は全て火葬によって燃え、今は骨を残すのみです」

 

 そして火葬された骨ではDNA鑑定は行うことが出来ないので、あれが赤の他人の骨だと気付かれることはありません。と、己の仕組んだ偽装工作を淡々と述べるLに、いったいこいつの目的はなんなんだと考えを巡らせる。
 Lはキラ事件の調書を作るつもりがない。
 キラの存在を公の元に引きずり出すつもりもない。
 そして、キラの処刑を司法に委ねる気すら、まったくない。

 

「……お前、本気か?」

 

 Lがしようとしていることに気付き、思わず嫌悪のまま言葉をこぼす。
 あの日、初めてキラの存在をリンド・L・テイラーとテレビの放送時間を用いて立証した時、お前は言ったはずだ。
 キラの正体を突き止め、必ず処刑台に送ると。
 しかし、今、Lがしていることはその真逆だ。キラの死を偽装し、正当な裁判を行わず、こうして何処とも知れぬ場所に閉じ込めている。そして此処で行われる事は、L曰く、僕が壊れるような事。
 ああ、つまり、こいつはキラを司法の手に委ねるだけでは納得出来ず、己の手で罰を与えようとしているのか。

 

「なんだ、竜崎。キラによる私刑を否定したお前が、結局そのキラを裁くのに私刑を求めるのか」

 

 なんて自己矛盾だろうかと、僕はLが選んだ方法を嘲笑う。
 キラのしていることはただの神を気取った幼稚で傲慢な私刑だと、悪だと断言していたこの男が、結局自身も同じ道を辿るのか。否、それどころか、Lのしようとしている事は、キラの行為を私刑と言うならそれ以下だ。
 僕は確かに善人の邪魔でしかない悪人を憎み、死んでいい存在だとその命を消してきたが、しかしどんな悪虐非道の限りを尽くしてきた人間であろうと、惨たらしく殺した事など一度もない。デスノートのテストや捜査を撹乱する目的の為を除けば、皆一様に、心臓麻痺でそれほど苦しむことなく殺してきた。決して『この世のものとは思えぬ苦痛にのたうち回って死ぬ』など、一度として書いたことも、書こうと思ったこともない。
 当然だ。僕は悪や罪を恨んでいるのではなく、悪がこの世に生まれないように裁きを行なってきた。善人が安心して暮らせる新世界を作ることが目的だった。
 だが、Lは違った。こいつは、キラを恨んでいる。
 人類史上、最も凶悪な殺人鬼として、キラのことを自分の手で裁こうとしている。

 

「自分が正義だと言っておいて、結局お前も同じじゃないか」

 

 心の中に浮かんでくる嘲笑が止められず、僕だったらその自己矛盾に消えたくなると笑いをこぼす。
 そして同時に生まれたのは、Lへの失望だった。
 こいつは、キラ事件を容疑者死亡に見せかけて勝手に終わらせた。それはつまり、僕との戦いを放棄したのも同義だ。たとえLに捕まった状況でも、僕にはまだLと戦うつもりがあった。それはLも分かっていただろうに、こいつはそのゲームに乗ってこなかったのだ。

 

「(そして、ゲームを破棄してまで選んだのが、こんなくだらない私刑とは)」

 

 自分の中で、先ほどまで確かにあった熱が冷めていくような感覚に、キラとして捕まった時以上の落胆と苛立ちを覚えた。
 竜崎は、Lはもっと、面白い相手だと思っていた。いっそ、かつて嘯いたように、尊敬のような念すら、僕は抱いていたのかもしれない。
 それなのに、僕らの末路がこんなにつまらない終わりなど、はっきり言って失望以外のなにものでもなかった。
 そんな、僕の人生の大半を支配していた退屈の訪れを再び予期した時だった。
 Lは僕の体を仰向けに反転させると、そのまま僕の前髪を掴み上げ、死体のように濁った黒い瞳で僕の顔を覗き込んだ。

 

「貴方は今日、間違えてばかりですね」

 

 お前が推測した私刑というものさえ、私の目的ではないのだと、Lはそう嘲笑のような、憐れむような笑みで、僕に告げた。

 

「竜崎……」

 

 ならばお前の目的はなんなんだと、本当の理由ならば僕の中に渦巻いた失望を消すことが出来るのかと、問いかけようとした時だった。
 突然の答えが、絶望と共に、僕に告げられた。

 

「夜神月」

 

 Lはそう僕の名前を呼ぶと、僕の下半身、ベルトに手を伸ばし、カチャカチャと金属音を立てながら乱雑にそれを外し始めた。

 

「おい、待て、何、して……」

 

 Lがしようとしている行為に、心当たりがないわけがなかった。
 しかし、あのLが僕に対してそれをするなんて考えたくなくて、脳が本能的に答えを拒み、思考を真っ白に塗りつぶす。
 けれど、僕がどれほど答えを知りたくないと拒んだところで、Lはその行為を止めようとはしなかった。Lは外したベルトを部屋の隅に放り投げると、当然のように次は僕のスラックスと下着に手をかけ、そのまま無理矢理引きずり下ろした。

 

「ッ! おい、竜崎!」

 

 空気に晒された下半身に、嘘であってくれと願いを込めるように、Lの名前を呼ぶ。
 しかし、Lは僕の声など聞かず、そのままスラックスと下着を足首まで下げると、足の拘束を解き、部屋の隅へと投げ捨てた。
 このままでは本当に犯されると、咄嗟に自由になった足で竜崎の頭を目掛けて蹴りを入れるが、混乱した僕が取る動きなど安易に予想出来ていたのだろう。すぐに足を抑えつけられ、片足を折り曲げた状態にベルトで固定される。

 

「元から恋人のように丁寧にしてあげるつもりもありませんが、アナルセックスが未経験ならば抵抗しない方が無難ですよ。……まぁ、『ハジメテ』は流血するというのが、こういった行為でのお決まりではありますが」

 

 Lはつまらなそうに告げると、僕の足の間に身体をねじ込ませ、自身のジーンズからチューブ型のワセリンを取り出した。そして、慣れたように片手で蓋を開けると、そのまま白く透明な中身を僕の下半身、ペニスの上に絞り出した。

 

「待て――――!」

 

 ワセリンの感覚に驚いたのも束の間、Lが僕のペニスを扱くように扱いながら、ワセリンを手に馴染ませたせいで、今度は寒気が全身を駆け巡った。
 やがてLはある程度、手のひらにワセリンが広がったのを確認すると、そのまま僕のアナルに指先を這わせ、堅く閉じたそこへ指を突き立てるように挿入した。

 

「ッ――、やめ、ろ!」

 

 ずぶずぶと侵入してくる異物に、指一本だと分かっているのに身を裂かれるような苦しみを感じる。それは物理的なものというよりは、あのLに強姦なんていう事をされているという精神的な理由だろうと、どこか冷静な己が自己解析した。

 

「慣らさないせいで月くんが苦痛に身悶えるのはかまいませんが、ある程度の潤滑油がなければ私が動き難いので」

 

 だから、自分が快適に動ける程度には、慣らさせてもらうとでも言うように、Lは二本目の指を僕の中へと入れてきた。
 先ほどの倍の質量に、身体が拒絶を示すように強張る。だが、Lは難なく指を動かし、僕の直腸内へワセリンを塗りこんでいく。

 

「あははは、あっははははははは……ッ」

 

 その、酷く慣れたような手つきに、そいういうことかと、いつの間にか僕の口からは限界を迎えた笑いが零れていた。

 

「これがお前の――世界の切り札『L』の、秘密の趣味か」

 

 なんて馬鹿らしい、なんて滑稽で幼稚で吐き気がするような趣味なんだと、吐き捨てるように言葉を紡ぐ。
 Lがどのような性癖を持っているのか、考えたことなど無かったし、知りたくもなかった。Lとはそんな、俗物的な欲望とは無縁の、どこか聖人のような、肉欲など持たない存在だと思っていた。
 しかし、常軌を逸脱した天才故の異常性癖なのか、難事件そのものに性的興奮を覚えているのか。
 Lは今までもこうして犯罪者を捕らえては、表では死んだことにして、今まさに僕にしているように『遊んで』いたのだろう。

 

「なら、リンド・L・テイラーも犯したのか? 警察が秘密裏に捕まえたとか言ってたけど、本当はお前が玩具にしていた、ここの監獄の住人だったんだろう?」

 

 なるほど確かに、Lならば犯罪者の身柄についてはある程度の意見を言うことが出来るだろう。あるいは、今回の僕のように『公平な立場』として引き渡しに協力という名の下、理由をでっち上げて死んだ事にして、内密に自分の手元に置くことも可能なはずだ。

 

「この監獄から開放する代わりに、お前のフリをしてテレビカメラの前に立てと言ったのか? なるほどな、新しい連続殺人犯のキラが出てきて、そっちに興奮したから用済みになったのか。キラの存在も証明出来て、遊び飽きた玩具も処分できて、さぞ都合が良かったんだろうな」

 

 そんな遊びを今までも何回も繰り返していたのだろう。
 己の手元に捕らえた犯罪者の肉体を強引に押し開き、弄び、人権など与えず、壊す。
 自分がこの事件を解決したのだと、謎を追い求めるスリルを思い出し、事件そのものを投影して、犯していた。

 

「じゃあ僕も、次に興奮できる犯罪者が出てくるまで、好き勝手遊ぶための玩具なのか。なら僕は長生きできそうだ。キラより多くの人間を殺す殺人犯なんて今後百年出てくるかも分からないからな。だけど、また次に興奮できる犯罪者が出てきたら、そいつを捕まえるために僕の命を使うんだろう? リンド・L・テイラーみたいに、今度は僕に『L』を名乗らせてくれるのか? だとしたら、その日が待ち遠しくて仕方ないな」

 

 これが、こんなものが、己が憧れ勝負を挑んだ『L』というものの醜い本性かと、失望が胸を締め付けた。
 ここでLを刺激するようなことばかり言っても、僕にはなんの利益もなければ、この状況を打開するわけでもない。まったくもって無意味、それどころかLを激昂させかねない言葉だというのに、僕は心の中に湧き上がってきた言葉を止めることが出来なかった。
 それは、今までずっと、本性を隠し、本音を押し殺して生きてきた僕にとって、初めての衝動的な言動だった。

 

「L、お前こそ犯罪者だ。身勝手な欲望のまま他人を弄ぶ、唾棄すべき凶悪犯だ。……お前の名前をノートに書けなかったことが、キラとしての唯一の心残りだよ」

 

 それでもLには、Lにだけは、己の本心を伝えてしまいたいと、自棄になった心が全てを吐き出させた時だった。

 

「えぇ、残念でしたね」

 どこまでも冷え切った、Lの声が、頭上で響いた。
 瞬間、Lの指が抜けたかと思うと、空いた穴を埋めるように、Lのペニスが僕の中を侵略した。

 

「ッ、が、ああ、ああ゛あ゛ぁ――!」

 

 あまりの痛みに、一瞬、意識を持っていかれそうになる。
 肉体を引き裂くように、容赦なく、遠慮など知らず、Lのそれが僕の中に無理矢理入ってきた。
 まるで、身体の中心に、杭を打ち込まれたようだ。
 そしてこの杭は、僕をこの監獄に閉じ込めるための象徴なのだろうと、いつものように誰に説明されるまでもなく悟った。

 

「夜神月、私は壊れた人間に興味はありません。ですから、最初に説明した通り、貴方が壊れたら殺します」

 

 僕に覆いかぶさりながら、腰を進めてくるLの姿から、身体を反らし逃れようとする。
 だが、己から目を離すことなど決して許さないと、Lの手が僕の頭を鷲掴みにした。

 

「人を殺す時、一切感情の動きがなかったキラですから、さぞ精神力は強いのでしょう。こんな状況でも、今まさに逃げ出す算段を立てているかと思います。どうぞご自由に、その利口な頭を使って画策してください。そして私は全力で貴方の策を潰します。貴方をこの監獄から逃すつもりなどありません。ここが貴方の死に場所です」

 

 黒い、決して光を宿さない瞳が、僕を見下ろし睨みつける。
 その瞳に、僕は本物の死神の目を知っているはずなのに、Lの持つ瞳こそが死神のそれだと、心の中で何かが囁いた。

 

「……殺す」

 

 瞬間、己の口から出てきた言葉は、随分と久しぶりに音にした、Lへの殺意だった。

 

「L、必ずお前を殺してやる。僕にこんな屈辱を味合わせた奴は絶対に許さない。僕を生かしておいたのを後悔させてやるよ。ここが僕の死に場所だって? 違うよL、ここはお前の死に場所だ。僕はお前に壊されないし、自殺だってしない。絶対にお前を殺して此処から出てやる!」

 

 その時が楽しみだと笑えば、Lは酷く気分を害したように眉を顰め、淡々と言葉を紡いだ。

 

「無様に長生きしたければ、せいぜい私に媚びを売ってください」

 

 と言っても、今日だけは、どれだけ従順に振る舞っても無駄ですが。
 Lがそう告げたのが合図であったように、始まった律動と苦痛に、僕は一人目を閉じて痛みに耐えた。
 

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