「リトライ・ライフ」
6
「……最悪だ」
呆然とした足取りでバスルームに向かい、体の至るところに残ったセックスの痕跡を自分で洗いながら、僕はそう自分の人生で一番の後悔を口にした。
つい一時間前までLのペニスを受け入れ、あろうことか何度も中出しをすることを許してしまった自分は、どうかしていたとしか思えない。
と、自分で後孔の中に出された精液を掻き出しながら、僕は己を振り返る。
「月くん、まだ時間がかかるようでしたら、お手伝いしますが」
バスルームの外から聞こえてきた声に、僕は心の中で絶対に入ってくるなと叫びながら、怒りを鎮めるように熱いシャワーを頭から浴びた。
それぞれ自分の部屋でシャワーを浴びることになったが、挿入する側であったLは早々に終わったらしい。
こんな惨めな洗い方をしなくていいのは最高だなと嫌味を言ってやりたかったが、Lであれば素直にそうですねと肯定するだろう。
なので、僕はとにかく言い争いにならないようにとLの声に無言を貫き通し、たっぷり一時間以上の時間をかけて、ようやくバスルームを出た。
「いい湯でしたか、月くん」
「人生で一番最悪なシャワーだったよ」
もう二度と、中出しなどさせない。
否、そもそもセックス自体、もう二度とLとしてなるものか。
そんな決意を固めている僕の隣にLが近づいてきたかと思うと、Lは突然僕の濡れた素肌の腰を撫で上げた。
だが、それを平然とした表情で眺めている僕に、Lは満足したように頷いた。
「ちゃんと、パーソナルスペースが縮まっているようで安心しました」
「……ああ、そうだな。これで縮まってなかったら、もう救いようがないからな」
僕等の思惑通り、僕とLのパーソナルスペースは実に急激に縮まった。
散々、Lに体を触れされたせいだろう。
今更、裸のどこに触れられようが、舐められようが、一切反応しない自信がある。
それこそ、性器やアナルに触れられても、何をしているんだと平然と聞くことが出来るだろう。
僕はドライヤーでさっさと髪の毛を乾かすと、いつの間にか用意されていた服に着替える。
普段の服よりも少しばかりフォーマルに寄ったその服は、おそらくワタリが『自分の父親に恋人を紹介する時用』として見繕ってくれたのだろう。
実に頼もしい、常識をわきまえた人だと、L、ニア、メロといった面々に囲まれた後のせいか、その素晴らしさに感動すら抱く。
一方、ふとLの方に視線を向けると、そいつはシャワーを浴びたばかりだというのに相変わらずぼさぼさの髪の毛で、服に関してもいつもの白いシャツとジーンズだった。
「おい、L、お前まさかその恰好で父さんに会うつもりじゃないよな」
たしかに以前の時間では、お前はLとして父さんからの信頼を得ていたかもしれない。
だがそれは、あくまでキラ事件を解決するための指揮官、世界の切り札『L』という存在だったからであって、息子の恋人として紹介するにはどう考えても無理がある。
最悪、どれだけ演技をしようが、そんな不審者と駆け落ちをしたのであれば強制的に連れて帰るか、お前も殺して私も死ぬと言われかねない。
と、僕が心配している一方で、Lは安心してくださいと視線を背けた。
「今、ワタリが私の服を用意してくれています。おそらく、お堅い夜神さんでも認めてくださるような、月くん好みの体裁が保てる姿になれると思いますよ」
「そうか、それは実に楽しみだよ。あと、いつもの座り方は駄目だ。背筋もちゃんと伸ばせ。コーヒーに砂糖も入れるな」
「最後のは問題ないのでは?」
「普通の人はシュガーポットの中身を使い切る人間を見たら不信感を抱くものなんだよ。そんなに甘いものがいいならオレンジジュースでも頼んでろ」
正直、大の大人がホテルのラウンジでオレンジジュースを頼むのも見苦しいが、ただの砂糖が溶けたコーヒー風味の何かを飲まれるよりはずっとマシだ。
「分かりました。出来る限り努力します」
「出来る限りじゃない。全部、間違いなく、やれ」
そうでなければ許さないという僕の視線に、Lは面倒だという表情を一切隠さなかったが、最終的には仕方ありませんと納得したようだった。
果たしてLがどこまでまともな人間を演じられるかは疑問だが、少なくとも父さんの目の前だけは必ず真人間を演じさせてやる。
父さんを納得させる為にも、何より僕自身のためにも。
「では、月くんに夜神さんを納得させるための小道具を渡しておきます」
Lはそう言うと、自分のジーンズのポケットから、何やら小さな箱を取り出した。
「月くん、左手を」
「あぁ、小道具ってそういうことか……」
Lが持っていたのは所謂指輪ケースと呼ばれるものだった。
開かれたケースの中には二つの指輪が並んでおり、ちらりと見えたブランドの名前が英国王室御用達のものである事は、前の時に散々結婚準備を進めるミサから説明されたせいで知っていた。
Lはその一方を僕の左手の薬指にはめると、もう一方を自分の指にはめた。
「こういうのが、世間一般的には付き合っていると信じてもらえるらしいので」
イミテーションではない、本物の宝石があしらわれた指輪をLはまるで玩具か何かのように見つめながら、よく分かりませんがと付け加えた。
たしかに僕も指輪を欲しがるミサの気持ちがよく分からなかったが、しかしLの言う通り、こういった小道具があるのと無いのとでは、人間の印象というものは大きく変わる。
Lにしては随分と周囲への見え方を考えたなと思いながら、僕も自分の指輪に視線を向けた。
「まぁ、小細工は重要だ。それにしちゃ、高すぎる気もするけど」
「ひとつ三十万ポンドで信頼が買えるなら安いものです」
そうか、三十万ポンド。
と、Lの言葉を聞き流そうとして、ふとその金額を日本円に換算してみたところ、途端に指先が重くなるような気がした。
よくそんなものを小道具として持ってきたなと思ったが、しかしこいつが金について気にしないのはいつものことかと、僕はもしも此処から逃げ出すことがあれば絶対にこれを持って行こうと決意した。
勿論、売り払ってしばらくの活動資金にするためだ。
「……お気に召しませんでしたか?」
ずっと左手を見ていた僕に、Lは何をそんなに見ているのかと首を傾げる。
「うん? あ、あぁ……指輪を付ける習慣が無かったから、慣れないなと思ってな」
さすがにこの値段のクラスだと、売ったら足がつくか考えていた。
と本当のことを言えば、父さんへの挨拶後に回収されるだろうなと思い、僕は適当にそれらしい理由を口にする。
「そういえば、前回の時、月くんはミサさんと結婚のご予定がありましたね。もう入籍は済ませていたんですか?」
「その辺りは全部ミサに任せていたから……でも、入籍はまだだったと思う」
「そうですか……では、婚約指輪も?」
「ニアとの対決で考えてる暇も……って、なんでそんなこと聞くんだ」
「いえ、参考までにと思いまして」
いったい何の参考なのか、Lは僕と自分の指にはめられた指輪に交互に視線を向けると、そのまま背を向けて部屋を出ていこうとした。
その際、チラリとこちらを振り向くと、どこか楽しそうな表情で机の上を示しながら言った。
「では、そちらの資料に私達の設定が書いてありますので、あと一時間で読み込んでください。その後、夜神さんの所へ出発します」
そうLが示した資料に視線を読み進めると、そこに書いてある『設定』に、僕はまた目眩がするような気がした。
傍から見て不審者そのものであるLが、はたしてどの程度、一般人を装えるのか。
正直に言って、その姿を見るまでは半信半疑だった。
しかし、父さんが宿泊するホテルに向かうまでの車内、目隠しを外した途端に見えたその姿に、僕は驚愕のあまり唖然とその姿を見つめてしまった。
「お前……やろうと思えば、出来るんだな」
「はぁ、どうも、ありがとうございます」
ワタリの手によって装いを正されたLは、正直に言って、個性派のアーティストか俳優に見えた。
普段はボサボサの髪の毛は綺麗にオールバックに整えられ、目の下の色濃い隈は化粧である程度薄くなっており、それも目元がミステリアスに見えるよう調節された濃さのようだった。
そして、普段の着心地を優先した白いシャツとジーンズではなく、オーダーメイドらしきワンポイントのラインが入ったコートとシャツ、それから綺麗に磨かれた革靴という紳士の装いに、分かってはいたが服装というものがいかに印象を左右するかよく実感した。
「今までも何度か変装をしたことがありますが、これは中でもトップクラスで窮屈ですね」
今にも早くこの服が脱ぎたいと苦しそうに舌を出したLだったが、外見のせいかそれすら紳士の見せる冗談の仕草のような気がする。
「お前、今度から人前に姿を見せることがある時はその恰好しておけよ。絶対に周囲からの目が変わるし、何より世間が思い描く『L』っぽい」
「興味ありませんね。そういう表に出るのは月くんに任せます。ああ、それか月くんが私がこの姿をする度にセックスするというなら考えますが」
「嫌だよ。なんでお前ともう一回あんなことしなくちゃいけないんだ」
「互いに苦痛を味わうのも信頼関係を築いていくには重要かと思いまして。一回は一回、ですよ」
そう言いながら、Lは革靴を窮屈そうにすり合わせながら、いつもの座り方が出来ないのか背もたれに大きくもたれ掛かりチョコレートを咀嚼しはじめた。
だが、普段であればまたLが何かを食べているなと思うこの光景も、今はこの装いのおかげか、変人というよりは個性派アーティストの魅力的な一面に見える。
「(というか、ここまで完全に紳士風にされると、むしろどうやって僕と知り合ったんだって思われないか……?)」
僕も自分の容姿が優れているとは思うが、しかし僕は所謂正統派と言うべきか、真面目な好青年という印象が大きい。
一方で今のLは、紳士風でありながらも若干のアウトローを感じさせる印象で、本来の滲み出る性格のせいか少しの浮世離れ感を漂わせてもいる。
つまり、同性同士の恋人とかそういうのを置いておいて、そもそも友人だとしても何を切欠に交流が始まったのか疑問に思われるタイプだった。
無論、そのあたりの設定は詰めてあるが、二人一緒に並び立った時の印象というのは大事だ。
「(否、その辺は、父さんはミサのことも普通に受け入れたし……大丈夫か?)」
「どうかしましたか、月くん」
僕が悩んでいる一方で、チョコレートを食べ終えて手持無沙汰になったLは、ずりずりと僕の隣に近寄ってくる。
その際に気付いたが、どうやらLはコロンまでしているらしい。お菓子ではない、微かに香るオゾンノートの匂いに、こいつは本当にあのLなのかと思わず疑った。
「別に、設定を思い返してただけだよ」
「そうですか、では、一番重要な設定を再確認しましょう」
一番需要な設定とは何を想定しているのか、僕が尋ねようとした時だった。
Lは僕に顔を近づけると、そのまま僕の唇に自分の唇を重ね合わせてきた。
先ほどチョコレートを食べたばかりのLの唇は、その甘さを色濃く残しており、僕の口の中にもカカオの味が広がる。
その行為は、今朝行ったセックスでもしなかった、所謂キスと呼ばれる行為だったが、しかし散々首筋を舐められた影響か、交わったおかげか。僕は特に取り乱すこともなく、Lの舌先を受け入れる。
やがて、互いに舌先を合わせる程度に交わった事を確認すると、Lはゆっくりと僕から顔を離していく。
「今から私と月くんは、駆け落ちした恋人同士です。いいですね」
「ああ、お前に言われなくても分かってるよ」
事実、L相手だというのに、こうしてキスも難なく受け入れている。
そんな、セックスする前の僕とは見違えるようだと自分で思っていると、Lは上出来ですと僕の頭を撫でてから、丁度よく停車した車から下りる。
「では、月くん。エスコートしますよ」
そう言って手を伸ばしてきたLに、僕は当然のようにその手を掴んだ。
ホテルのラウンジに入った途端、遠くからでも見えた父さんの姿に、僕は胃が痛くなるのを必死に堪えながら、覚悟を決めてその席へと向かった。
「父さん、おまたせ」
「月……」
父さんは僕とLの姿を交互に見ると、まずは座りなさいと対面の椅子に視線を向けた。
その通り座ろうとした僕の隣で、Lはそっとさりげない仕草で僕の椅子を引き、どうぞ月くんと小さな声で囁いた。
こいつ、出来る。と、完全な紳士風を装うLに関心を抱きつつ、僕もありがとうと小声で答えながら座る。
「父さん、紹介するよ。竜崎エルさんだ」
「初めまして夜神さん、竜崎エルと言います。普段はコンサルタント業、あとは大学で犯罪心理学等の臨時講師をしています」
Lはそう、椅子に足を乗せることも背中を曲げることもなく、きっちりとした姿で座りながら、スラスラと事前に決めておいた設定を父さんに告げた。
どこからどう見ても疑いようのないその姿に、あのLがよく頑張っているとワタリが見たら涙を出していたかもしれない。
「あぁ、初めまして。夜神総一郎。日本の刑事局に勤めている」
「はい、月くんからお伺いしています。正義感の強い、自分が理想とするお父さんだと。このような形になってはしまいましたが、本日お会いできるのがとても嬉しいです」
本当に、ここまで出来るなら普段からそうしてくれないだろうか。
一方、駆け落ちということで、僕の相手がどんな人間か見極めるつもりでいたらしい父さんは、思った以上に全うな人間が出てきたことに、どう反応したものか戸惑っているらしい。
咳払いをすると、僕にゆっくりと視線を向けた。
「うむ……。それで、月、竜崎さんとはいったいどういう経由で」
「あぁ、エルとは大学の一般見学できる授業で知り合って、色々と話している内に、研究室にもお邪魔するようになったんだ」
「月くんは非常に優秀で、知的好奇心の多い子でしたから。教鞭を握る者として、もっと多くの知識を吸収してほしいと思い、お誘いしました」
まったく、体裁のいい設定だと、互いにスラスラ出てくる嘘に内心呆れながら、問題はここから先の設定だと僕は秘かに覚悟を決める。
「それで、その……エルが、僕を自宅に呼んでくれたりして、そのまま互いに興味があるって分かって」
「なるほど、それで、未成年の息子に手を出したと」
ああ、やっぱりそこだよなと、僕は父さんの怒りに同意する。
中身はさておき、現時点の僕はまだ高校生であり、世間から見ればまだ子供で、父さんはそういう世間的な扱いに敏感だ。
というか僕自身も、高校生に手を出す大人はどうかと思う。
しかし、事実だけは変えられないため、Lに対する父さんの不信感を払拭するため、僕はわざとらしく切羽詰まった様子で切り出した。
「違うんだ、父さん! エルは悪くない……悪いのは僕の方で。実は、エルに僕は大学生だって伝えてたんだ。だから、エルは互いに責任の取れる立場だと思っていたから」
「私も月くんの話に違和感を抱ければ良かったんですが、何分、月くんの話はどれもしっかりとしていて信憑性があったので、つい他大学の学生だと」
「そ、そうか……」
自分の息子が、大人に混ざるために年齢を詐称していた、というのは父さんとしてもLより僕に怒りを向けるべきと判断したのだろう。Lへの不信感が薄くなったことに安堵を覚えながら、僕はさらに言葉を続ける。
「それで、秋頃にエルが母国のイギリスに帰国する話を聞いたんだ。エルは最初、僕に留学の話を持ってきてくれて……そこで初めて、自分が高校生で今年受験だって話したら、僕等の関係はあっちゃいけなかたって。でも、僕がどうしてもエルのことが諦められなくて……ッ! だからあの日、エルが帰国する日に無理矢理一緒についてったんだ」
「月……」
「ごめん、父さん。本当に、よくない方法だったって今でも思ってる……。父さんにも、母さんにも、粧裕にもたくさん心配をかけて。でも、僕、どうしても初めて自分を理解してくれたエルと一緒に居たくて……」
僕がそう顔を下げると、Lは月くんとこちらを心配するような声色で、僕にハンカチを差し出してきた。
これはつまり、ここで泣くふりをしろという指示なのだと解釈して、僕はその通り目元に涙を溜めてから顔を上げた。
「父さん、僕は将来、父さんのように、この世から犯罪被害を減らす仕事をしたいと思ってる。でも、エルと海外の話をするようになって、犯罪被害にはもっと国際的なものもあるって知るようになって……だから、日本の警察に入庁することに迷っているのもあるんだ」
「夜神さん、その点については私からも言わせてください。月くんは、夜神さんもご存知の通り、本当に優秀な子です。彼ほどの才能ある子を日本に留めておくのは、私は世界の損失だと考えています。月くんには日本に限らず、もっと広い視野で大学を選んでほしい。なので、彼がここに留学したいと言うならば、私は恋人としても一個人としても彼を援助したいと考えています」
「だから、父さん。僕は、日本に戻らない……。ここで、勉強したいんだ」
さて、これでただの駆け落ちではなく、自分の将来を考えた上での駆け落ちであるというアピールは出来た。
あとは、父さんの頭がどこまで固いかだ。
特に同性の恋人に関しては色々と言ってくるだろうと、僕が策を練っていた時だった。
父さんは眉間に当てていた指を離すと、ゆっくりと落ち着いた様子で、吐息を零した。
「月、最初に伝えた通り、私はお前を引きずって日本に戻すつもりはない」
「父さん……」
「お前には、お前のしっかりした考えがあった。それは、父さんも信頼している。お前は簡単に道を踏み外すことはない。だが、やはりお前がした事は良くなかった。竜崎さんに未成年に手を出させてしまったし、母さんも粧裕も、当然私も悲しませた。その方法については、親としてお前を叱るべきだと思う」
しかし、と、父さんは言葉を続ける。
「たしかに、お前は警察庁に入って、私と一緒に仕事をするものだと思っていたから、残念でないと言えば嘘になる。だが、お前が日本に留まる存在ではないのも、よく分かる。お前にはもっと、世界的な道がある。だから、お前の夢を叶えるためにも、竜崎さんの元で学べることは全て学んできなさい。無論、私からも支援する。お前が立派に成長して、いつか世界的な犯罪を解決していくのを楽しみにしているぞ、月」
「父さん、ありがとう……」
意外にも、あっさりと僕の駆け落ちを認めてくれたことに、父さんがどれほど僕のことを信頼していたのかを知って、思わず涙が出そうになった。
しかし思い返してみれば、前の時から父さんは常に、僕のことを信頼してくれていたように思う。
それこそ、ずっと、僕はキラでないと信じて、監禁から解放するために命までかけて、そして僕はキラではないと信じて死んでいった、父さん。
実際のところは僕がキラだったのだから、父さんの僕への信頼は盲目的と呼ぶべきなのかもしれないが、しかしだとしても、父さんからの純粋な信頼というのは、どうにも僕の胸を熱くさせた。
まぁ結局、僕は今でも、父さんに嘘しかついていないんだけれど。
「しかし、月。今後の戸籍や国籍のこともあるんだ。ちゃんと近々、母さんと粧裕に顔を出すためにも一度日本に帰ってきなさい」
「うん、分かったよ父さん……国籍?」
突然父さんが国籍の話をしだしたことに、どういう意味なのか一瞬で理解できず、疑問符を浮かべる。
だが、一方の父さんは、全て理解しているといった様子で頷いた。
「ああ、こっちに来たということは、正式に婚姻したいと考えているんだろう? 実際に、随分立派なものをしているしな」
父さんの視線の先にあるものを追って、僕は自分の薬指にはめている指輪に辿りつく。
明らかな高級品、どう考えても冗談で贈るものではなく、互いの指についているということはつまり、これは恋人同士が贈り合ったというよりは、婚姻を前提にしたエンゲージリングにしか見えない。
そこまでして僕はようやく、たしかにこの状況はどう考えても結婚報告だと気付いた。
「父さん、まだエルとはそこまで――」
「はい、夜神さん。私も月くんとは、手続きを含めて近々ちゃんと正式な形で結婚の話をしに一度、日本に行こうという話をしていたところだったんです」
僕の言葉を遮るように大声気味でそう言い始めたLに、お前は何を考えているんだと横目でLを睨むが、Lはいたって紳士的な態度で父さんに真剣な面持ちを向けていた。
「ああ、やっぱりそうだったのか」
「はい、また近々、正式なご挨拶に伺わせてください。ああ、それから挙式はイギリスで上げようという話になっていまして、是非、夜神さん一家を招待させていただければと」
「そうか、また何か必要なことがあれば教えてくれ。私もこちらの結婚式については疎くてな」
「はい、それは勿論」
「ところで、月。もう竜崎さんの家族にはご挨拶したのか?」
「ああ、つい先日、私の生家に行ってきたばかりです。私が以前使っていた部屋に滞在して……それにしても月くんは、本当に勉強熱心で手厳しい。私の教え子達も居たのですが、その二人になっていないと、色々と勉強を教えてくれました」
「はは、月は真面目だからな」
平然と、何事もなく、ごく普通に進んでいく話に、僕は自分の外堀がどんどん埋められ、結婚に傾いていっている様を呆然と眺めていた。
待て、否、たしかに、たしかに僕はLの生家。というか、出身であるワイミーズハウスにも行ったし、Lが使っていた部屋にも滞在した。嘘ではない、嘘ではないが、その言い方だとどう考えても恋人の家族に挨拶をしに来た恋人だ。
否、僕とLは恋人同士なんだから、これでいいのか。待て、違う、恋人なのはあくまで父さんの前だけのふりで、実際に結婚などするはずはない。
だが、待て、父さんを直接巻き込まれると、どう考えても正式に結婚しないといけなくなるんじゃないのか。
「月、結婚式、楽しみにしているからな」
父さんの、そんな僕への信頼に溢れた言葉に、僕は今更違うと言えず、とにかく笑みを張り付ける。
あれ、僕、本当にLと結婚することになったのか。
Lと?あの世界の切り札と?この僕が、本当に?
「月くん、幸せな家族になりましょうね」
僕の隣で、まったく話し合っていない設定。
否、もはや設定ではなく、今後の正式な決定事項を語るお前だけは、絶対に許さない。
そんな決意を固めている中、僕は今日から家族公認で、Lの恋人兼、婚約者になってしまった。
「随分と楽しそうですね、L」
私の髪の毛をセットしてくれているワタリに、そう己の興奮を指摘されて、私は無理もないだろうと鼻歌を歌う。
「夜神月が特に疑問に思うことなく、指輪をしてくれたからな。このままいけば、夜神総一郎を巻き込んで、私と彼の結婚という話に持っていける」
「最初に、夜神さんが泊まっているホテルを調べてほしいと言われた時には何をするのかと思いましたが、中々に策士ですね」
そう、私の作戦に関心するワタリに、私も本気だからなと笑みを浮かべる。
夜神月はあそこで偶然、夜神総一郎と再開したと思っているかもしれないが、全ては私が仕組んだことだ。
突然の移動だから迎えが間に合わないと嘘とついて、わざと夜神総一郎のいるホテルのラウンジに滞在させ、目撃させた。
そうすれば、後はトントン拍子に話が進んで、今日渡した指輪を見れば、夜神総一郎のような社会的規範を重んじる固定観念の強い人間であれば、結婚するつもりなのだと解釈してくれるだろう。
私としても、最初はそんなことをするつもりはなかったが、しかし夜神月があまりにも、私に対して反逆の意思を見せるのだから仕方ない。
ここはもう、体裁を重んじる彼を永遠に捕らえるためにも、結婚という強い枷をつけるのがいいと、私が作戦を立てるのは早かった。
「しかし、貴方が婚姻に拘るとは意外でした」
てっきり、そういう社会的な契約には興味がないものと思っていましたが、と私が正式な婚姻を望んだことに興味を持ったワタリが、そう尋ねてくる。
たしかに、私は社会的な規範を重んじることもなければ、そこに意味も見出さない。
だが、今回のことに関して言えば、少し事情が違う。
「夜神月は、目的の為なら誰とでも寝るし、前回もそれで色々していたからな」
けれど、と私は続ける。
「正式な結婚に関しては、誰ともしていない」
つまり、これを弥海砂風に言うならば、こういうことだ。
「最終的に全てを成し遂げた『Lの勝ち』ということで」
己の勝利を確信しながら、私はこれから訪れる夜神月との結婚生活に思いを馳せた。