「愛を暴く」
「降参だ。僕の、負けだ」
数分間の思考後、これ以上の策は考え付かないと、僕はようやく投了を宣言した。
ソファの背もたれに身体を委ねながら、そう諦観と共に言葉を零した僕に、目の前の対戦相手はニヤリと今日一番の笑みを浮かべた。
「では、決まりです。夜神月、貴方が『キラ』だ」
揺るぎようのない証拠を突きつけられて、言い訳の出来ない状況に追い詰められて、世界の切り札、Lの勝利宣言に、僕はついに負けてしまったと、大きなため息を吐き出して顔面を両手で覆う。
こうして、Lとの『夜神月がデスノートを拾っており、それによって犯罪者を殺していたら』と仮定したゲームは、僕の敗北によって幕を閉じた。
「くそ……ついに、負けた」
「実に惜しいところまでいきましたが、残念でしたね、月くん」
「ああ……Lの名前が分かった時には勝ったと思ったのに、まさかLが先にノートに自分の名前を書いてたなんて」
「二十三日後には私も死ぬのだから引き分けだと言わないあたり、月くんの紳士さに感謝します」
そうゲームへの感想を口にしながら、僕はすっかり冷めた紅茶に手を伸ばした。
Lとの試合は、想像した通りに白熱した。デスノートの所有権や殺し方のルールといった、デスノート事件の調査で判明したものを駆使しながらLの正体を暴こうとした僕に対して、Lは常に僕の裏をかくように迫ってきた。デスノートという存在さえ知り得ない中で、それでも的確に僕を追い詰めてきた姿は、目の前の男が世界の切り札と呼ばれている理由を僕によく教えてくれた。
「月くんのFBI殺しも見事なものでした。あとは、お菓子の袋にノートの切れ端とテレビを仕込んで、私の監視の中堂々と殺すというのも、突拍子もないですが実に面白い手段でしたね」
「当時はただの受験生だからね、不自然じゃない行動も限られてくる中、よく思いついたと自分でも思うよ。それを言えば、僕に直接『私はLです』と名乗ってくる方法は本当に驚かされた。あんな屈辱、生まれて初めてだったよ」
「月くん相手、いえ、大量殺人鬼『キラ』相手ですからね。私も命をかける必要がありました」
キラという、ゲームの最初の頃に姿の見えない僕の名前としてLが提案した名前で呼ばれ、それは名誉な話だと笑みを零す。
Lとゲームを初めて随分な時間過ごして知ったことだが、彼はお世辞や社交辞令というものに馴染みのない、言ってしまえば天才にありがちな社交性を持たないタイプの人間だった。そんなLが言うのだから、これはLによる正当な評価なのだと、なんとも言い難いほど自尊心をくすぐられて、敗北の苦悩も薄れた。
「しかし、月くんも用心深くて困りました。まったく尻尾を出さない。おかげで私の本名を暴かせ、勝利を確信させて油断させるしかありませんでした」
「それじゃあやっぱり、エル・ローライトって本名なのか?」
「はい、紛うこと無き、私の本名です。世界で、私とワタリしか知らなかった名前です。貴方が三人目ですよ、月くん」
それは随分な口説き文句だと、僕は心の中でそっと、Lの本名を何度も繰り返す。
これで本当にデスノートがまだこの世界に残っていたら、Lの顔も名前も知っている僕は世界で唯一、Lを殺せる人間だった。と、負けたはずなのに優越感が僕を支配する。
そんなことを考えているのがバレてしまったのだろうか。負けたくせに勝ち誇るなんてと不満そうな、僕によく似て負けず嫌いなLは、意地の悪い笑みを浮かべながら口を開いた。
「まぁ、月くんが一年前同様、勝利を確信したら油断する性格で助かりました」
「まったく……ニアとの苦い記憶を思い出させないでくれよ。せっかくの優越感が消えたじゃないか」
「ニアのことは苦手ですか?」
「まぁ、ね。一度負けてるし……でも、次勝負することがあれば……そうだな、今回のゲームなら、ニアに勝つ自信があるよ」
既にLと一度ゲームをして、大体の方向性というのは理解した。もしも僕が本当にノートを拾っていて、今回は無理だったが、もしも僕がLに勝っていれば、数年後にニアやメロがLの後継者として僕の前に立ちふさがっていたのだろう。
そういった想定をしてニアやメロとゲームをしてみるのも面白いと僕が考えていると、Lはそうですねと紅茶を口にした。
「次のテスト候補として、悪くない案です。実戦的な内容ですし、月くんであれば対戦相手として申し分ない……ですが、駄目ですね。許せません」
悪くないテストだと認めながら、しかし難しいでも出来ないでもなく、『許せない』という言葉でニアやメロとの対戦を拒絶したLに、それはどういう意味なのかと首を傾げる。
すると、Lはまるで長年思い続ていた恋人と出会ったような、執着と情熱を孕んだ、思わず心臓が高鳴ってしまうほど鋭い視線で、僕を射抜いた。
「夜神月、貴方は私が見つけた、私の為の敵です。私が負けているならまだしも、こうして私は勝利を収めたのですから、貴方を……『キラ』を私以外の人間が相手にするなんて、許せません」
貴方は私だけの獲物だと、Lは僕に近づき、僕の目を覗き込んでくる。
映画のラブシーンにだって出てこないような、陳腐でありきたりな言葉だというのに、まるで恋に落ちたように僕の心臓はずっと煩く脈打った。それほどまでに、Lの瞳も声も態度も、どこまでも本気の色を帯びていて、まるで口説かれているようだと錯覚してしまう。
「……ははは、あのLでも、嫉妬なんてするんだな」
「はい、どうやら私は嫉妬深いようです。今、初めて知りました。貴方が教えてくれた感情です」
まったく恥ずかし気もなく告げられた言葉に、思わず顔が赤くなってしまいそうになる。
否、もしかしたらもう、僕の顔は恋を覚えたての少女のように赤く色付いているのかもしれない。雰囲気を作るためにとカーテンを全て閉めて、間接照明だけを灯している部屋で良かったと、僕は薄暗いホテルの一室に感謝を覚えた。
しかし、そんな艶やかな色を帯びた空間のせいだろうか。Lは僕のソファのひじ掛けに両手を付くと、自分の身体を檻のように僕の身体を捕らえた。
「では、夜神月。最初の約束通り、貴方に尋問をさせてもらいます」
耳元で囁かれた言葉に、僕はなんて恐ろしい約束をしていたのだろうかと、今さながらに思い出した。
恐怖なんて今まで抱いたことのない感情に慣れず、それから逃れたい一心で、やれやれといったフリで虚勢を張る。
「僕、仕事で徹夜した後に、薬物中毒者に殺されかけても病院に行かないで、真っ先にLの元に来てそのまま頭を使うゲームをした後だから、とっても疲れてるんだけど」
「それは都合がいいですね。わざわざ精神的に追い詰めなくとも、疲労した頭なら簡単に秘密を漏らしてくれるでしょう」
どうやら僕の状況はまったく考慮してくれないらしいと、相変わらず容赦のないLに苦笑を零す。しかし、自分でも改めて口にしてみて、よく犯人の弾丸が掠ったような命からがらの状態でも、ゲームの為にLの元に駆けつけたなと、自分の異様さにも自嘲が零れた。
そんな、傍から見れば異様な僕らを邪魔するものは無く、Lはゆっくりと、僕のネクタイに手をかけた。堅く結んであったはずのそれを片手で器用に解くと、Lは僕に両手を合わせるように指示する。
「手錠の用意でもしけおけば良かったですね」
これから僕の両手を拘束しようとしているLに、言うべきか迷ったが、ここまでやったのならばネクタイで縛られるよりもずっとそれらしい方が面白いと、僕は自分のジャケットのボタンを外した。
「仕事の後でそのまま来たから、僕の上着に入ってるよ」
「それはいいことを聞きました」
Lはそう言うと、僕の上着から手錠を取り出し、なんの躊躇いもなく僕の両腕にその枷をはめる。
普段であれば手錠をかけられるなんていう屈辱に怒っていたかもしれないが、しかし僕はLに大量殺人鬼『キラ』として捕まった後だ。
抵抗など出来ないと、僕は重たく冷たい鉄の拘束を受け入れた。
「いい眺めですね」
ソファの上で手錠をかけられた僕を見つめながら、Lはそう舌なめずりをする。
まるで肉食動物を目の前にした、足を怪我した草食動物の気分だ。と、捕食される恐怖を内心抱きながら、そんな一方的なものではプライドが許さない。などという衝動に駆られ、僕は挑発的な視線でLを見上げた。
「へぇ、世界の切り札に、こんな加虐趣味があったなんてね。それで、いったい僕にどんな酷い尋問をして、何を聞き出すつもりなんだ?」
「そうですね……本当にデスノート事件が現実なら色々と聞きたいこともありましたが。それよりも今は、もっと貴方の個人的なことが聞きたいです」
「僕の個人的な事? なんだ、家族構成とか高校時代の思い出とかでも答えればいいのかな」
「そんな、いくらでも調べられることは望んでいません。そうですね、例えば……心の内側の話、恋愛関係についてでも聞いてみましょうか」
こんな状況でそこを突いてくるかと、案外厭らしいLの考えに、こいつも人間なんだなという安心を覚える。
「恋愛関係って、今まで付き合ってきた子の名前でも教えればいいのか」
「それより、もっと根本的なところで聞きたいのですが――夜神月、貴方は他人を愛したことはありますか?」
その問いは、鋭いナイフを突き立てられたような衝撃を僕に与え、思わず目を見開く。
他人を愛したことがあるかなんて、僕がずっと隠してきた本質を突く質問に、こいつは僕のことをどこまで想像出来ているのだろうかと、思わず息を飲んだ。
「……当然、あるよ。家族のことは大切で、愛している」
「そんな家族愛などという答えで逃げられるなんて、本気で思っているんですか、月くん。私が聞きたい『愛』がなんなのか、貴方はよく理解できると思いますが」
誤魔化すことなど許さないと語るLの瞳に、この男に隠せることなど何もないのだと悟ってしまう。
今まで誰にも明かしたことのない胸の内に、僕は震えながらも、しかしこの男相手ならばむしろ明かしてしまいたいと、初めて堅く閉ざしていた心の底を曝け出す。
「あぁ、お前の想像通り……無いよ。今まで何人かの子と付き合ってきたけど、誰一人とだって同じ感情を共有できなかった」
自分の容姿が他人と比べてかなり優れていることは自覚している。だから何度も告白されることはあったし、この子は聡明そうだと思った相手ならばその告白を受け入れることもあった。その時の僕には相手への恋愛感情なんて微塵もなかったけれど、そういう『愛』というものは付き合っていく上で一緒に育んでいくものだと知識では知っていたから。
けれど、僕は何度相手を変えて、恋人同士の戯れを繰り返してみても、終に相手と同じ『愛』とやらを共有するこは出来なかった。それどころか、付き合う前は聡明に見えていた子も、その『愛』とやらのせいで愚かに狂っていく姿を見て、なんて無様なのだろうと見下してさえいた。
「ああ、やっぱり」
分かっていましたと囁くような声に、僕が秘めていた本心をLは何時から見透かしていたのだろうかと、驚愕する。
父さんと母さんが仲睦まじい姿を間近で見ながら、自分にもいつかそういう信頼できる相手が出来るのだと信じていて、自分に裏切られた僕の心をLは見抜いていた。
愛することの出来ない自分を自覚した時、己はなんて冷血な男なのだろうかと、彼女の恋心に寄り添ってやれない心無い人間なのだろうかと、自分に失望して、だからずっと隠して生きてきた。
今、こうしてLに暴かれるまで、ずっと。
「何人かの子、ということは交際経験があるのは女性だけですか? 自分を異性愛者だと思い込んでいたから、恋愛感情に至らなかったという可能性は?」
「それも、考えたことがある。だから男相手にも色々試してみた。けど、誰に対しても同じだった。性別とかじゃない、僕が考えている理由は……」
その先に僕が答える言葉もLは分かっているのだろう。
僕がこれから告げる言葉を今か今かと待ち望んでいる様子のLに、これではまるで告白だと、初めての経験に唇が震えた。
それでも、まるで誘導尋問のように、僕は本心を口にしてしまう。
「僕は、僕と同じ知性の相手じゃないと、愛せない」
「それはつまり、私のことですね。夜神月」
お前が愛せるのは己だけだと当然のように言ってのけたLに、なんて自信家だと詰ってみたかったが、しかし事実なのだから否定しようもない。
ああ、そうだ。僕はLの言うとおり、きっとLならば愛することが出来るのだろう。己を打ち負かしたこの男相手ならば、僕はようやく、恋心なんていう今まで理解できなかった感情をようやく自分のものに出来る。
事実、肌が触れ合うほどの距離にLが居ることが、自分でも驚くほど、僕の心臓を高鳴らせた。
だが、このまま翻弄されるだけなど自分のプライドが許さなくて、それならばLの方の感情も引き出してやると、僕は余裕綽々といった視線で目の前の男を見つめた。
「尋問とはいえ、僕だけ明かすなんて卑怯じゃないか。僕も、Lがどんな相手に恋愛感情を抱くのか知りたい」
「本来の尋問なら私のことは一切明かしませんが、そうですね。ゲームで私を23日後に死ぬところまで追い詰めた成果を讃えて、特別に教えてもいいでしょう」
Lはそう言うと、手錠をかけられた僕の腕を掴みあげると、捕らえられた象徴のような鎖に唇を落した。
「私は今まで他者に恋愛感情どころか、性欲も抱いた経験がありません。私がいつも興奮するのは、難事件を解決した時だけです。難解な謎を解き明かした瞬間、私はオーガズムよりも深く快感を覚える……。貴方にこうして興奮して、全てを暴いて犯したいと感じているのも、人生で一番の強敵を捕らえた故、一種の支配欲の現れだと考えていました」
ですが、とLは小さく息を飲んで、シャツ越しに僕の胸元、脈打つ心臓を確かめるように、熱い手で触れた。
「もしかしたら私も貴方と同じ様に、同じ知性の相手にこそ、愛を覚えるのかもしれません」
「じゃあ、Lが愛せるのも僕だけか」
揺るぎない自信のままそう笑えば、Lは自意識過剰だと僕を嘲笑うことなく、そうですねと僕の言葉を肯定した。
なるほど、つまり、これは知性愛者同士による初めての邂逅で、互いに愛し合っているに過ぎないのかと、僕はこの異様な現状を微笑ましく思った。
それはLも同じようで、恋人に触れるような手つきで、僕の頬を撫でた。
「貴方を抱いてもかまいませんね」
僕が否と答えるわけがないと確信を抱いた、肯定を前提とした問いかけに、少しばかりの意地悪な感情が芽生えて、挑発的に唇を吊り上げる。
「なんだ、今は尋問中なのに、わざわざ僕の許可を取るのか」
「ええ、勿論。セックスは合意の上に行う、倫理観は大切ですから」
「さっきのゲームで、散々僕の人権なんか無視した捜査をしてたくせに。もっと強引に犯されるのかと思ったよ」
「月くんがそういったプレイをお望みであれば、努力しますが。どうしますか?」
貴方の言うとおり、人権を無視することそのものには罪悪感など何も覚えない質なもので。と、加虐趣味を滲ませたLの唇に、このままだと本当に乱暴に犯されてしまうと悟って、悪戯はこの程度にしておかないとまずいと苦笑を零す。
それよりは、ようやく知ることの出来た『愛』なのだからと、僕は少しだけ腰を浮かせて、Lの薄い唇に口付た。
「男に抱かれるのは初めてなんだ。優しくしてほしい」
「分かりました。最大限、努力しましょう」
そう言ったくせに、貪るようなキスを落してきたLに、こいつの最大限はどこまで信頼できるのだろうかと、心の中で笑いと共にちょっとした恐怖が生まれた。
「んっ……」
蠢く舌先の圧と共にやってくる、物理的にも精神的にも甘い感覚を覚え、吐息を零す。
恋人以外とするのは初めての性交だと思いながら、今の僕はフリーなのだし、こんな告白染みた話をした後なのだから、Lと僕は恋人ということになるのだろうかと考える。
けれど、二人の関係を恋人なんて言葉で纏めるには、どうにも抵抗を覚えて、ならば他にどんな言葉があるだろうかと思いを巡らせれば、浮かんできたのはやはり『友達』という言葉だった。
「(否、友達は、セックスなんてしないか)」
それともこれは、セフレという不純で割り切った関係だろうか。なんて、Lが聞いたら雰囲気を壊しますと怒りそうな言葉まで浮かんできた。
しかし、僕らの関係をどう定義しようとも、ただひとつ言えることがあった。
「エル・ローライト……」
キスの合間、確かめるように名前を呼んで、確信する。
この男こそが、今まで誰も触れることの出来なかった僕の奥に、ただ唯一触れるこの出来る相手だと。