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「悪魔と理髪師」

 竜崎がキラ事件捜査のためだけに建てたというこのビルは、コンピューター関連もさる事ながら居住区域までホテルのスイートルームのような作りをしている。

 広々としたベッドに綺麗なシャワー室、それから最適に管理された空調湿度と、ただ生活するだけならばなかなかに快適な空間であるのは、調査本部の誰もが認めていた。

 けれど、それはあくまで日常的な生活においてで、時にやはり足りないものというものは出てくる。

「竜崎、ハサミってないのか」

 バスルームから繋がった広い洗面室にて、ドライヤーを片付けながら隣で退屈そうに座っていた男に問いかけた。

 ここ最近、前髪が視界の端にチラついて邪魔だなと思っていたが、残念ながら僕はそう簡単に外に出て、ちょっと気分転換もかねて散髪、なんてことは叶わない。

 風呂に入る時でさえ竜崎とは手錠で繋がっている中、外出になんてことを望めば絶対に手錠のまま行動することになるだろう。さすがにそれは避けたいが、かといって理髪師のような部外者をこのビルの中に呼ぶことも当然できない。

 となれば、後はもう自分で髪の毛をカットするしかないと思ったが、しかしこのビルの中に散髪用のハサミは準備されていなかった。

「用意は出来ますが、貴方に渡すことはできません」

 僕の希望に否と返ってきた返事だったが、竜崎が言いたいこともよく分かる。

 僕は現在、第一のキラの容疑者であり、僕がキラであれば何よりもまず竜崎を殺したくて仕方ないはずだ。

 自分への殺意がある、と疑っている相手に刃物を渡すと言うのは、なかなの自殺行為だ。しかし、そんなことを言ってはこうして手錠でつながっている今も、なかなかに危険なはずなのだが。

「お前を殺すつもりなら、とっくに手錠の鎖で絞め殺してるよ」

「組手なら負ける気はありません、が。さすがに刃物は勘弁してください」

 最悪相打ちになってしまうので、と語る竜崎の頭の中には、自分だけが死ぬ想定はされていないらしい。手錠生活がはじまってしばらくした頃にカポエラらしきキックを受けたが、どうやら竜崎の攻撃手段はまだまだあるようだ。頭脳だけでなく、体術に対しても自身があるあたりさすがのLと言うべきか。

「て言っても、そろそろ切りたいんだけどな」

 後ろ髪が長いのはまた結ぶことで対応できるが、中途半端に伸びた前髪だけはここ最近目の中に入ってきて煩わしい。

 と、前髪を指先でいじりながら不満げに声を漏らした時、竜崎は考えるように上を見上げてから口を開いた。

「では、貴方にお渡しできない代わりに、私が切ってあげましょう」

「竜崎は髪も切れるのか?」

 とても他人の髪を切ったことがあるようには思えないが、しかし竜崎の適応能力はかなり高い。こと、機械方面においては初めて扱うはずのものであっても、まるで玄人のように扱うのを何度か見てきた。

 が、その一方で、生活能力というのは著しく低いというのを僕はこの手錠生活で何度も実感した。服を着替えるのも補助が必要で、体を洗うにもどこか危うげな動作が多く、髪の毛は自然乾燥に任せようとするので毎回僕が乾かしてやっている。妹が幼稚園くらいの頃に世話した記憶が蘇ってきたほど、生活力においてLは才能がない。否、そもそもにおいてやる気がない。

 ならば散髪はLにとってどちらに含まれるのかと訝しげな表情で反応を窺っていると、Lは安心してくださいと自分の髪の毛をいじりながら口を開いた。

「以前捜査の際、変装のために自分で切ったことがあります。他人の髪の毛を切るのは初めてですが」

「そうか、お前の手先が器用なことを祈るよ。……変な髪型にしたら怒るからな」

「それは日本のコメディアンで言うところのフリというやつですか?」

「違う」

「分かりました、善処します。ではこちらへ」

 日本語において善処しますというのは「いいえ」と同義だが、あまり深く考えないようにしようと、僕は竜崎の申し出を受けることにした。

 竜崎に案内されるまま、洗面台の大きな鏡の前にある椅子に座る。改めて鏡に映った自分の姿を見ると、普段の生活でここまで髪の毛を伸ばしていたら、早く切ってこいと母さんや妹に怒られるくらいの長さになっていた。無論、そんな不衛生なことをした試しがないので怒られた経験はないが。

「夜神くん、両手を椅子の後ろに回してください」

 

 竜崎の言葉に素直に従うと、ガチャリという音と共にやってきた、冷たい金属の感覚に体が微かに跳ねる。この感覚からして、どうやら竜崎と繋がっている手錠とは別の、一般的な鎖の長さの手錠をされたらしい。

 まさか、髪の毛を切っている間に反抗してハサミを奪われることを危惧したのかと、なんでもないような表情でいる竜崎に視線を向けた。

 

「竜崎、ここまでするなら、事前に言ってくれないか」

「言ったところで断らないでしょう。無駄なことは言わない主義です」

 

 それはたしかにそうだが、普通は髪の毛を切るのに手錠をされては誰だって驚く。

 長い監禁生活と監視生活で、手錠という非日常的な存在に慣れてしまった僕であろうとも、まずは一言あるべきだろうという不満が募った。

 

「人間関係では無駄だと分かっていても手順を踏むのが大切なんだよ」

「そうですか、綺麗な女性とたくさんお付き合いしている夜神くんの言葉ですから、参考になりますね。それで、色男はどんな髪型をご所望ですか?」

 

 竜崎の明らかにこちらを煽る言い方に、思わずムッとして反論が口から出そうになったが、それこそ無駄な事かと言葉を飲み込んだ。

 竜崎に何を言っても無駄だ、ということはこの数日間でよく学んだ。このまま続ければまた無意味な喧嘩になるし、手錠をされている側としては大人しく従って目的を果たしたい。

 僕はもういいかと小さなため息を吐き出してから、再び鏡に映った自分の姿に視線を向けた。

 

「全体的に短くするだけでいいよ。とにかく、前髪を切るのが急務かな」

「分かりました」

 

 竜崎はそう言うと、自分の手錠を外し部屋の外へと出て行く。やがてしばらくすると、銀色のワゴンに散髪用のハサミやら剃刀やらシェービングクリームやらを乗せて戻ってきた。こんなに本格的なものまで用意してあったのかと驚いていれば、竜崎は白いシーツを僕の首元に巻きつけた。

 

「苦しくありませんか?」

「あぁ、大丈夫」

 

 そうですか、と竜崎は静かに呟くと、ワゴンから一本の散髪用のハサミを手に取った。銀色にきらめくそれはよく手入れされており、竜崎が試しに動かしてみるだけで、金属が擦れる鋭い音が広いバスルームによく響いた。

 

「では、動かないでくださいね」

 

 危ないですから。

 その一言と同時に、竜崎が持ったハサミが大きく僕の髪の毛を切り落とす。

 

「…………っ!」

 

 ジャキンッ、と耳元で聞こえた音に、思わず体が跳ね上がってしまった。

 なんの躊躇いもなく、一度に大きくざっくりと断ち切られた髪の毛は、大きな束となってシーツの上に落ちていた。どうやら竜崎の中には徐々に毛先を整えていくという案はないらしい。

 鏡越しに見るその動きが、よく言えば大胆、悪く言えば容赦がないせいで、本当に竜崎に任せて大丈夫だったのかという不安がじんわりと背筋を汗で湿らせた。

 どんな髪型になるかという不安が最初はたしかにあったはずなのに、今はそれどころじゃない。シャキンと大きな音を響かせるハサミが、己の肌を傷つけないかという恐怖の方が、強く僕を支配していた。

 そんなことはないと信じつつも、いつ耳が切り落とされてしまうのだろうかと思ってしまうのは不可抗力というものだ。

 

「大丈夫ですよ月くん、私は貴方がキラでもこんな形で危害を加えるつもりはありませんから。もっとリラックスしてください」

 

 そんな僕の不安を察したのだろう。竜崎は鏡に映った僕を見ながら、どこか不満げにそう告げてきた。

 

「別に、お前を疑ってるわけじゃないよ」

「そうですか。まぁ、私がもしも貴方に髪を切られる側だったら絶対に警戒しますけどね。可能性は低いですが、キラが直接私を殺す可能性も十分ありますので」

 

 あっけらかんと告げられた言葉に、手錠をされていなかったら殴っていたなと、どこか冷静な自分が判断する。

 散々自分のことは信頼しろと言っておいて、いざ自分の側になると信頼など絶対に出来ないと堂々と告げるその度胸。否、この場合は無神経さと表現するべきか。社会生活を営む規範として互いに尊重し合うという、一番基本的なところが欠落しているのは薄々分かっていたが、Lはそれでも生活する上で困ったことはないのだろう。

 

「良かったな、僕を拘束しておいて。本当なら今頃殴ってた」

「はい、なので普段以上に遠慮なく話すことが出来ます」

 

 普段からして遠慮なんてしていないだろうと言いたいが、このままこの話を続けたら本当に殴ってしまいそうなので、こういう時は僕が大人にならなければと言葉を飲み込む。実際は竜崎の方が僕よりも年上なのだろうが、実年齢よりも精神年齢の話だ。

 

「その点、私は最終的にはキラを死刑台に送りたいと思っていますが、司法の手に委ねるまでは絶対に殺しません。なので、安心して私に身を委ねてください。あまり緊張されて身体を堅くされては、初めての友人に信頼されない悲しみで、ついつい手が滑ってしまうかもしれないので」

 

 竜崎のあまりにわざとらしい言葉に、思わず苦笑いが溢れた。

 友達だなんて本気で思っているのか疑わしいどころか、その友達の信頼を得られないせいで悲しくて手元が狂うなど、竜崎なら絶対にありえないだろう。仮に竜崎の手元が狂うようなことがあるとすれば、それは感情的なものよりも、好物で己のエネルギー源だと言って憚らない甘味を数日摂取できなくなった時だけだろう。

 

「分かった分かった。竜崎を信用してるから、手先に集中してくれ」

 

 しかし、こちらにかまって欲しい子供だと思って扱ってみれば、僕のことをキラだという前提の話であっても、随分心穏やかに対応できた。今日一日はこれでいこうとひっそり心の中で決めながら、竜崎の望むようにリラックスして全身を預けてやる。

 

「…………」

 

 シャキン、シャキン、シャキンと、美容師が奏でる心地よいリズムとは異なり、一つ一つの音はゆっくりであったが、そのぎこちない音にも慣れてきた。

 鏡を見る限りでも、初めは心配だった髪型も、僕が要望した通り。と言うよりは、竜崎に監禁を申し出る前の髪型が、忠実に再現され初めていた。

 これなら後は大丈夫そうだなと、心の中で安堵のため息をついた時だった。

 

「……♪」

 

 竜崎の唇が窄められ、その隙間から陽気な音楽が奏でられる。

 髪を切るのが楽しくなってきたのか、普段は表情の変化が乏しい竜崎が、どことなく楽しそうな表情で口笛を吹く姿に、珍しさのあまり声をかけてしまった。

 

「今日は随分と機嫌がいいな、竜崎」

「……そうですね、喜びとは飛び火するものですから」

 

 飛び火、という竜崎の言葉に、いったい何の話だと、鏡越しに竜崎の顔を凝視する。

 喜びが飛び火するというならば、それはつまり僕が喜んでいるという意味か。それなら僕は喜びどころか呆れしか抱いていないのはお前も分かっているだろうに。と竜崎の言葉に疑問を持っている時だった。

 突然竜崎が、耳元の髪の毛を弄りながら、囁くようにメロディを奏でた。

 

『美しい女性(Pretty woman)』

「……っ!」

 

 甘い、とてもあの竜崎の口から紡がれたとは俄かには信じられない、とろけるような声色と音楽に、思わず体が震え上がり、無様にもガタガタと椅子を揺らしてしまった。

 僕が動いたせいで危うく肌に触れてしまいそうになったハサミを引っ込めながら、竜崎は不思議そうな表情で僕の顔を覗き込んだ。

 

「そんなに驚いてどうしたんですか」

「それはこっちの台詞だ! なんだ、突然、美しい女性なんて」

 

 とてもじゃないが、お前の口から出るとは想像できない言葉だし、僕に向けて囁くなんて天地がひっくり返っても起こらない事のはずだ。

 それを何で、自分ではなく僕の方の奇行みたいな扱いをしているのかと竜崎を睨めば、竜崎は本当に驚いたように目を見開いた。

 

「あぁ、すみません。私の口笛に『今日は機嫌がいいな』と言ってきたので、てっきり知っているものだとばかり」

「知ってる? 何をだよ」

 

 未だに竜崎の行動に驚いているせいで、まともに思考が纏まらず、反射的な答えしか返せないのは仕方のないことのはずだ。

 だって、あの竜崎が、世界の切札が、僕に向かって……。と、混乱している僕の体の位置を直しながら、竜崎は再びハサミで僕の髪の毛を切り始めながら口を開いた。

 

「スウィーニー・トッドというミュージカルの一場面です。有名な作品ですから、ご存知ありませんか?」

 

 竜崎が口にしたその作品名は、たしかに聞き覚えのある名前だった。

 いったい何処で聞いたのだろうかと過去の記憶を探っていると、そういえば音楽の授業で聞いたのだと、高校時代の記憶が蘇った。

 音楽の授業というのは、無論教科書もあるのだけれど、基本的にはその時の教師の趣味趣向が大きる出る教科だ。僕が一年生の時に音楽を受け持っていた先生は、大学時代にミュージカルのサークルに所属するほど、大のミュージカル好きだったらしい。自分が演じた経験や解説を交えながら、ウエストサイドストーリーだとかサウンド・オブ・ミュージックとか、そういった有名どころのミュージカルを色々と見せられた記憶がある。

 その中に、竜崎の言った『スウィーニー・トッド』という作品があった。

 

「たしか……理髪師の男、スウィーニーが自分に冤罪を着せた判事に復讐する話、だったよな」

 

 その作品は、今まで授業で紹介された作品の中では随一に暗く、澱んだ雰囲気を持った作品だった。

 あらすじとしては、十九世紀のイギリスで、理髪師をしていた男とその妻が居た。その妻に横恋慕をした判事が妻を奪うため、判事は理髪師を無実の罪で島流しにしてロンドンから追放したが、十数年後、理髪師は復讐の為にロンドンに戻ってくる。という、メロドラマと復讐劇をかけ合わせたような話だった。

 

「復讐のためにロンドンに戻ってきたスウィーニーが、自分の銀の剃刀に『我が友よ』って語りかけるあたりまで授業で見た記憶がある」

「随分序盤ですね。そこから先が面白いんですよ、このお話は」

「たしかに、これから復讐劇が始まるってところで終わったな」

「復讐劇もそうですが、もうひとつ名場面の曲があるんです」

 

 すると、竜崎は僕の首筋に突然指を伸ばすと、すっと撫でるように肌を撫で上げた。

 

「おい……っ!」

 

 触れた竜崎の体温に、身体がぞわぞわと反応してしまう。

 いったい何がしたいのかと凝視していれば、竜崎の指先に赤い血らしきものが付いているのが見えた。その色に、ちらりと鏡を確認してみせば、いつの間にか僕の首筋には薄くではあったが一本の赤い傷跡があった。

 おそらく、先ほど竜崎の歌声に驚いた時に出来てしまったのだろう。

 なんだ、ただ血を拭ってくれただけか。と安堵を覚えた次の瞬間、竜崎は僕の血が着いた指先をペロリと舐め上げた。

 

「ッ、竜崎! 何してるんだ!」

 

 お前がよく指先についたままにしているお菓子のクズじゃないんだぞと続ける前に、竜崎は味わうようにモゴモゴと口を動かしてから口を開いた。

 

「この味……月くんの血肉で作ったパイは『正義』感に溢れた人にオススメの味で、舌触りが『軽やか』なのが特徴です」

 

 なんだ、こいつ、突然何を言い出したんだ。

 だが、すぐに竜崎が言った言葉に違和感と共通点を見つけ、まさかと思い尋ねる。

 

「……僕の名前と『正義(Right)』と『軽い(Light)』をかけてるのか?」

 

 竜崎がこんなくだらない言葉遊びを口にする理由がさっぱり不明だったが、しかし僕が問いかけた言葉で正解だったらしい。竜崎はその通りですと、唇を舐め上げながらパチパチと乾いたやる気のない拍手をした。

 

「スウィーニーは判事へ復讐を果たす前に、トラブルで人を殺めるんですが、死体処理に困っていると、復讐の共犯者でパイ屋を営む女主人に『人肉でパイを作れば死体処理も出来て店も儲かるから一石二鳥だ』と持ちかけられるんです。そこからどんな職種の人間でパイを作ったらどんな味がするか、というのを実にたのしそうに歌うシーンがあるんですが、イギリスらしい皮肉がきいた歌で面白いですよ」

 

 なるほどそんなシーンがあるのか、カニバリズムとは中々刺激的な展開だ。と、よくそんな内容を含むものを授業で取り扱ったものだと当時の音楽教師の顔を思い浮かべたが、だからこそ授業ではそのシーンまで扱うことが出来ず途中で終わったのかもしれない。

 しかし、例え話をするためとはいえ、突然僕の血を舐めて僕の血肉でパイを作ってみたら、なんて悪戯が過ぎるにもほどがある。何か報いたいと思ってしまったのは必然か、一回は一回だと、僕も竜崎の味を想像してみる。

 

「そしたら、竜崎は探偵だから、原材料は秘密主義で中身の肉は何が使ってあるか分からない。みたいな感じかな?」

「うまいですね、パイなだけに」

「……まぁ、実際にお前の肉でパイを作ったらケーキみたいに甘いパイになりそうだけど」

 

 心底面白そうに冗談を交えて返してきた竜崎に、僕としては自分を人肉パイに例えられた心地悪さを知って欲しかったのだが、どうやら竜崎相手には意味がなかったらしい。

 僕の言葉も特に気にしていない。どころか、もっと面白い話を思い出したとでも言うように、楽し気にハサミを指先でくるくる回しながら、竜崎は口を開く。

 

「実際に人肉パイを作っていた殺人犯に味の感想を聞いてみましたが、ミュージカルのようには美味しくないそうです」

「は……?」

 

 とても一般的な会話には出てこないであろう言葉の羅列に唖然としている僕の一方で、竜崎は特に気にすることなく言葉を続ける。

 

「私がこのミュージカルを見たのは捜査のためです。とある劇団がスウィーニー・トッドを上演している時期にだけ犯行があると分かったので、劇団スタッフと常連客に容疑者を絞りました。事件を解決した感想としては、犯人はどちらかと言うとハンニバルのレクター博士の方に近いものを感じましたが」

 

 中々に面白い事件でしたと過去を回想する竜崎の言葉は、創作やミュージカルというものとは違って、本当にそういった事件を捜査してきたのだという現実味があるせいでゾワリと悪寒を伴う。

 

「……部屋の冷蔵庫に入ってたパイはしばらく食べられそうにないな」

 

 松田さんがミサの仕事の関係で貰ってきたという有名店のパイは、宝石のように砂糖のコーティングが輝いて美味しそうだったけれど、とてもではないがこの話を聞いた後に食べたいとは思えなかった。

 と、僕がポロリと零した言葉に、竜崎は今日見た中で一番嬉しそうな顔で、ニヤリと口を開いた。

 

「そうですか、私がワンホール全て食べるのでお気になさらず」

「……そう言われると意地でも食べたくなってきたな」

「では人肉パイ事件の詳細を話しながら食べましょう。解体現場、調理場、完成品、全て見ましたので、実況はまかせてください」

 

 まずは人体の解体方法からレクチャーしてあげましょうと悪い顔をする竜崎は、わざと不快な話をしたがる小学生男児のようで、おまえはいったい何歳なんだと問いたくなる。少なくとも僕よりは年上だとは思うが。

 というかそもそも、あれは捜査本部のみんなで切り分けるものであって、お前がまるまるワンホール食べていいわけがないだろう。

 これ以上、竜崎の人肉パイ解説を聞くとパイ以前に本当に食欲を失くす。と、別の話題を探そうとして、そういえばそもそも何故こんな話になったのかの発端を思い出した。

 

「……それで、さっき歌ったのはどんなシーンの歌なんだ?」

 

 改めて僕に対して、甘い声色で『美しい女性』なんて歌った竜崎の意図が分からない。

 今の状況と似たような場面だから、思い出してつい歌ってしまったのだろうとは思うが。スウィーニー・トッドは愛憎うずまくメロドラマだと聞いたから、こんなに甘い歌を歌うシーンはラブシーンか何かなんだろうか。だとすれば、やはりどうして僕に向かって歌おうと思ったのか、まったく理解できない。

 と、竜崎の答えを待てば、目の前の男はとてもあっけらかんとした表情で答えた。

 

「あれはスウィーニーが判事の首を切り裂こうとする場面です」

 

 竜崎の言葉に、思わず様々な感情が溢れ、押し黙る。

 

「スウィーニーは自分の店に来た判事をこうして椅子に座らせ、この歌を歌いながら喉元に剃刀を当て、首を搔き切ります。理髪師相手なら皆、なんの躊躇いもなく首に刃物を当てるのを許す。という、中々に面白い人間心理をついた殺害方法です」

 

 淡々と、スウィーニーの殺し方をまるで自分が作った調書を読み上げるように語る竜崎に、思わず目を閉じて天を仰ぐ。

 結論としては、ラブシーンでなかった事に安堵すればいいのだろうが、それはそれとして、よくそんな物騒なシーンを僕相手にやろうと思ったな、こいつ。

 と、隠せない感情が表に出てしまったらしい。僕の顔を見た竜崎が、珍しいですねと僕の表情を笑った。

 

「月くん、随分と面白い顔をしてますが、そんなに意外なシーンでしたか?」

「意外か以前に色々言いたいけど……そりゃ、美しい女性なんて歌詞で、まさか殺害シーンなんて思わないだろ」

 

 少なくとも、僕が知っているドラマというものは、人を殺す時はもっとおどろおどろしいBGMが流れるものだ。

 だからこそ、物語の最終局面――スウィーニーが判事に復讐を遂げるシーンが、ラブソングのようなメロディを奏でるなんて、どうにも僕には不釣り合いに感じてしまう。

 けれど、それがこのミュージカルの肝なのだと、竜崎は語る。

 

「だからこそ面白いんだと思いますよ。人肉パイの場面といい、復讐の場面といい、このミュージカルは残酷なシーンほど楽しそうな曲が奏でられます。ちなみに、月くんはこの『愛らしい女性』が誰のことか分かりますか?」

 

 ちょっとしたクイズのように出された質問に、そこまで見ていないから分からないと答えるのは、正直言って癪だった。何より、竜崎がこう問いかけるということは、僕の知っている内容だけで誰なのか推理できるということだ。

 竜崎に推理を見られているならば間違えるわけにはいかないと、僕は高校時代、気怠い午後に見た映像を記憶の底から呼び起こす。

 物語の粗筋は、判事がスウィーニーの妻に横恋慕して、スウィーニーを追い払おうと冤罪で流刑にした。そして名前を変えて再びロンドンに戻ってきたスウィーニーは自分が居なくなったあと、妻が判事に陵辱されて毒を飲んで死んだと知った。つまり二人に共通する美しい女性とは。

 

「スウィーニーの妻か」

 

 竜崎のニヤリとした笑みに、僕は自分が見事正解を引き当てたのだと知り、久しぶりに気分がよくなる。

 

「はい、正解です。この歌は、スウィーニーと判事が、一人の美しい女性を思い浮かべながら歌うラブソングというわけです」

 

 お互いに、同じ女性を思い浮かべながら、彼女に向けて恋を歌う。しかし、ただ過去の女性を思い返している判事とは違って、スウィーニーは未だに妻を愛し、そのために今日まで、復讐の刃を研いでいた。

 そしてついに復讐を遂げる日、愛しい人のことを歌いながら、復讐を果たす。

 なるほど。と、僕は竜崎の言う『面白い』とはそういうことかと納得する。

 

「一見すれば平和な場面に見えるが、実は片方は相手に並々ならぬ殺意を抱いている、か。たしかに、そう考えると面白いかもね」

「ええ、まるで私と貴方のようですね」

 

 スウィーニーと判事の関係を僕らに例えた竜崎に、どういう意味なのかと問うことはしない。

 なにせ、僕は竜崎が何を言いたいのかを嫌というほど理解していた。

 

「僕はキラじゃないから、お前のことを殺そうなんて思ったことはない」

 

 殴りたい時はいっぱいあるけどけどねと茶化して笑ってみせるが、竜崎は相変わらず僕がキラだったという体を崩すつもりはないらしい。

 もう何度、竜崎に僕はキラでないと訴えたか分からない。が、竜崎は頑なに僕をキラだと、キラだったと言う。いっそ、僕にキラであってほしいとも言っていた。

 

「貴方がキラの記憶を取り戻したら、今すぐにでも私を殺したいと思いますよ」

 

 それはそうだろう。キラであれば、今すぐにでもLの命を奪いたいと思う。

 と言っても、本当に僕がキラならば、竜崎を殺して真っ先に疑われるような立場の内は殺しはしないだろうが。

 

「僕がキラじゃないって言うのは何度でも言うけど……たしかに、僕がキラなら、スウィーニーみたいにずっと殺意を隠したまま竜崎と一緒に居ることになるね」

「日夜問わず思われているとは、熱烈な感情ですね」

「おい、変な風に言うなよ」

「まぁ、それは第三のキラも同じ。皆、私を殺したがっている」

 

 思われてばかりの身は辛いものです。と、まるで多くの人間に好意を向けられている人気アイドルやスターを気取るように、竜崎はわざとらしく困ったといった表情をしてみせた。

 その姿が竜崎らしくなくて、僕はついクスリと笑いを零す。

 

「なるほど、モテモテで大変だな。さすがは世界の切札『L』だ。多分、キラだけじゃなくて世界中の犯罪者に死んでほしいと思われているんだろうな」

 

 冗談めかして言ってはみるが、実際のところ『L』という存在は多くの犯罪者から疎まれているのだろう。

 どんな未解決事件であろうとも、手掛かりのまったくない難事件であろうとも、竜崎はまるで小説の名探偵のように全てを解決しまう。僕がキラなら、本当に、竜崎以上に消えてほしい相手など居ないと、とても簡単に想像できてしまうほど。

 だからこそ、Lは今まで一度も顔を出さず、正体を隠して捜査をしてきたのだろう。

 

「色男は本名も何もかも隠さなくちゃいけないなんて、大変だ。僕だって結構モテる方だけど、そんな経験したことない」

「ええ、私、こう見えてけっこうモテるんですよ。色男のスウィーニー役に相応しいでしょう。なので、私がスウィーニー役で、月くんが判事役なのはぴったりですね」

「どうかな、お前が復讐者で僕が腐敗した判事役っていうのは、まったく似合わないな」

 

 竜崎はいつだって冷静で、感情的な姿を見たことがない。無論、今は僕がキラじゃなかったと拗ねてはいるが、ホテルを転々としてキラを追っていた頃の竜崎は、まるで推理をする機械のように感情を排除し、理論的に推理を組み立てていた。きっと竜崎は大切な人、なんてものが居るのかさえ分からないが。そういった人間を喪っても、何も変わらずLとしてキラを追い続けるのだろう。

 そして僕だって、こんなにも世間の腐敗を嫌悪している人間もそうそう居ないと自負している。普通は成長する過程で、自分にはどうすることも出来ないのだと諦め、腐敗に迎合していくものだ。けれど、僕はそんな人の怠惰を許さず、憎んでさえいた。だからこそ、キラの思想を完全に否定できないでいるのだけれど。

 しかし、僕が言いたいことを竜崎は分かっているだろうに、あいつは不思議そうに首を捻った。

 

「そうですか? 自分の欲望のまま、強い力をもって邪魔者を消すなんてまさしくキラのしていることです」

「僕の見立てだと、キラは自分の利益のために殺人は犯していないと思うけど」

「利益ではなく、欲望です。キラが成し遂げようとしている世界は、彼が抱いている独善的な善悪観に基づいている。実に幼稚で、傲慢で、そして強欲です」

 

 断言する竜崎に、僕は反論をしようとして、すぐに言葉を飲み込んだ。

 たしかに、キラの思想は竜崎の言う通りに表現することも出来るだろう。

 しかし、僕にはやっぱり、キラの思想が欲に塗れているとは思えない。神を気取っていると言うならば、たしかにキラは神気取りの人殺しなのかもしれない。けれど、それは同時に神としての責務を背負っているという意味だ。キラが集団なのか個人なのか分からないが、自分の利益のために殺しをしない純粋さを持ち合わせながら、しかし人間を多く殺すというのはいったいどれほど心理的な負荷がかかるだろうか。

 だが、こんなことを竜崎と口論しても意味がない。それどころか、キラの思想にそこまで共感できるのはお前がキラだからと僕への疑いをさらに深める結果にしかならないだろう。まぁ、竜崎はこれ以上ないほど、僕がキラだったと確信しているようだが。

 しかし僕はキラではないのだから、キラとして疑われ続けるのは御免だ。だから、僕はキラの思想についての議論を避けて、竜崎の揚げ足取りに舵を切った。

 

「竜崎……キラのことを『彼』なんて、まだキラが男だって決まってないだろ」

 

 僕がそうやって揶揄えば、竜崎はどこか不満げな表情をした。

 それは僕が竜崎の言葉尻を捕らえたから、というよりは、僕がキラの思想についての議論から話題を反らしたからのように思えた。

 竜崎はどこかつまらなそうに僕の髪の毛に視線を戻すと、ぶっきらぼうな口調で反論した。

 

「……すみません。私の中では月くんがキラなので、ついその言い方になってしまいました」

「もういいよ。本当は今すぐにでも殴りたいけど」

 

 その時、ずっと響いていたハサミの音が止んだ。

 

「終わりました。これくらいの長さでどうですか」

 

 無事終わってくれたカットに、僕は鏡をマジマジと見つめる。

 会話の間ずっと見ていて不安は無くなっていたが、最初の大胆な動きからは想像も出来ないほど完璧に、竜崎は僕の髪を監禁前の形に戻してくれた。鏡の中には、二ヶ月前に竜崎の居るホテルにやってきた僕と全く同じ姿があって、素直に感動の吐息が溢れ出る。

 

「へぇ、意外と器用じゃないか、竜崎」

 

 上手いと言うよりは、二ヶ月前の僕の姿を完全に覚えていたという記憶力と再現力に関心して褒めたのだが、竜崎はどこか不満げな表情だった。

 

「意外、という評価は不服ですね。私、こう見えても世界一の探偵ですよ?」

 

 世界一の名探偵であることと、髪の毛を切る能力があるということは全くもって関係ないはずだが、どうやら竜崎の中では関係があるらしい。わざとらしく唇を尖らせる姿に、こいつの拗ねる姿も見慣れたなと笑みを零す。

 

「普段のお前の生活力を見てるとね。一人で髪の毛をドライヤーで乾かせるようになってから言ってくれ」

「乾かせますよ。やる気がないだけで」

「髪の毛を乾かすのはやる気の問題じゃないんだよ。幼稚園児だった頃の妹だって一人で乾かせたぞ」

「そうですか、ですが私は無理ですので、お世話が得意な月くんにお願いします」

 

 こいつ、一緒のベッドで眠るから仕方なく乾かしてやっているのを良いことに、まったく成人男性の発言とは思えない。

 だが、結局シーツや枕がびしょびしょに濡れるのは御免だから、結局今日も乾かしてやったわけだけれど。そろそろ一人で乾かす練習でもさせるかと、まるで子育て中の父親のような考えが浮かんでしまう。

 

「……いや、ここまでくると大型犬のペットみたいなものか」

「何か言いましたか?」

「なんでもないよ。それより、そろそろ手錠を外してくれないか?」

 

 ずっと手を後ろに回して拘束されるのは監禁生活で慣れてしまったが、やはり手錠なんてものは、外すことが出来るならば早く外したい。

 と、竜崎が手錠の鍵を取り出すのを待っていた時だった。ジッとと僕を見ていた竜崎が、突然ニヤリと笑みを浮かべたかと思うと、僕の肩を強く抑え椅子に押し付けた。

 

「竜崎?」

 

 何をしているのかと不気味な笑みを浮かべる竜崎を見上げれば、竜崎はワゴンの上から銀色に光る剃刀を僕に見せつけるように手にした。

 

「夜神くん、この際です。髭も剃ってあげますよ」

 

 とても楽しそうな表情でそう告げた竜崎に、本気かと目を見張る。

 まさか、僕が判事役だの、髭剃りのフリをして首を掻き切るだの、人肉パイだのという話をしておいて、この流れで本当に髭剃りをするつもりか。しかし、ここでまた嫌だの信頼ならないといえば、竜崎は再び友達なのに信用してくれないのか、悲しいですね。と、思ってもいない事をわざとらしく言うのだろう。 

 

「い、いいって。僕、全然生えないし」

 

 もう一度あの問答を繰り返すのは疲れるため、そう別の理由を作り上げて告げる。

 事実、僕はとっくに成長期を終えているはずなのに、全くと言っていいほど髭が生えたためしがない。友人からは朝の支度が簡単でいいじゃないかと言われたりしたが、正直なところ、童顔なこの顔も含めて少しばかりコンプレックスに感じている部分ではある。

 なのであまり触れてほしくない部分なのだが、竜崎はそんなことお構いなしといった様子で、ぐいっと僕の顎を掴んだかと思うと、まじまじと僕の肌を見つめた。

 

「は、離せよ……」

「監禁の時も思いましたが、本当に生えていないですね。滑らかな肌です」

 

 本当に綺麗です。と、関心するように僕の頬に手の甲を当ててきた竜崎に、何故だか気恥ずかしさが湧き上がってきて、目を伏せる。

 

「……お前だって、剃ってるところ見たことないけど」

「私は髭が伸びた肌の感覚が嫌いなので、脱毛しています」

「あ、あぁ……そう」

「ですが、やはり産毛の処理はたまにはしていいでしょう。というかやらせてください。お願いします」

 

 なぜそんなに僕の髭を剃りたがるのか理解できなかったが、竜崎は僕の許可を取る前に、シェービングクリームのスプレー缶を手に取ると、遠慮なく直接僕の顔に吹きかけてきた。

 

「ッ、は、おい、何するんだよ!」

 

 口の中にシェービングクリームが入りそうになるのも構わず声を上げる。

 だが、竜崎が目の前に突き出した、鋭利に研がれた銀色の剃刀への恐怖によって、僕は強制的に言葉を封じられてしまった。

 

「極上の仕事を約束しますよ」

 

 竜崎はそう言うと、メスのようによく切れそうなカミソリを僕の喉元に当てきた。

 首筋に這う、銀の冷たい感覚に、思わず背筋が凍る。これはたしかに、ミュージカルで演じられていたように、簡単に人を殺すことが出来てしまうだろう。事実、少しでも竜崎が変な気を起こせば、その瞬間、僕の大動脈は切り裂かれ、あたり一面が血の海になるのがいとも簡単に想像できた。

 

「竜崎……」

 

 こいつは僕を殺さないと言うけれど、本当に大丈夫だろうか。と、僕は乞うように、吐息と共に竜崎の名前を呼んだ。

 しかし、竜崎は僕の言葉に答えることなく、ゆっくりと、銀色の剃刀で僕の首元を撫でた。

 スッと、クリームによって滑るように動く剃刀の動きと共に、竜崎の唇が軽やかに動き始めた。

『美しい女性の魅力的なその姿

 コーヒーを口にしながら空を見つめる

 その美しさはひとつの驚異

 窓辺で、階段で、空気を浮き立たせる美しい女性』

 歌い始めたその旋律こそが、竜崎の言っていた『スウィーニーが判事を殺す時の歌』なのだろう。

 甘く、甘く、どこまでも優し気に囁かれるような歌声に、これが本当にあの竜崎かと、僕は耳元に響く声を静かに噛み締めた。

 

『そのシルエットがいつまでも心に残る

 こちらを見つめる姿が永遠に忘れられない

 静かに息づく美しい人――』

 先ほどの髪の毛を切るのとは違って、繊細に、丁寧に、剃刀の刃で僕を撫でてくる。

 こちらを真剣な眼差しで見つめる、黒く濁った瞳に、いつも見ているはずのそれに圧倒されてしまうのは、この状況のせいか。

 などと考えていた時、竜崎の指先が、僕の喉元を掴み上げた。首元へとやってきた圧迫感に呼吸が苦しくなり、悲鳴のような音が喉から漏れ出た。

 竜崎の行為に、本当に殺す気はないんだろうなと疑いの視線を向けるが、あいつはスウィーニーと判事のシーンの再現に夢中なのか、僕の視線に答えることはなく、甘い旋律を紡ぎ続けた。

 

『だが彼は去ってしまった

 けれど、彼が私から離れてしまっても

 必ず彼を私の元へと連れ戻す

 必ず私と共に』

 その時、気付いてしまった。

 竜崎の口ずさむ言葉は、スウィーニーが妻を想って歌っているものではない。

 本来であれば『彼女』と歌うべきであろうところが『彼』と変えられ、歌われている。

 それだけじゃない。竜崎の瞳が、深淵を覗き込むような心地にさせる瞳が、僕を見つめ続けていた。

 僕の中を探るように、僕の奥へと入り込んでくるように、僕のことをただ一心に、見つめ続ける。

 ああ、そうか、この歌は、おそらく僕に――否、キラに向けて紡がれていると、竜崎の思惑を理解してしまった。

 

『美しい人

 カメラの前で、檻の中で、こちらを見つめる

 文字を綴り、微笑むその姿

 お前は私をこれほどまでに歌わせる』

 最愛の人間に向かって歌うような竜崎の姿に、頭がクラクラする。

 竜崎の声から、視線から、そして僕の喉を掴む指先から、恐ろしいほどのキラへの愛、あるいは執着を感じてしまい、圧倒されそうになる。

 そして竜崎はさらに僕を追い詰めるように、鼻先に触れるほど顔を近づけ、僕の瞳を覗き込んできた。

 

『お前は私から離れていく

 けれどお前はここに居る

 お前はまだ、ここに居る

 私の人生を証明する、ここが天国

 美しい人 私がお前を必ず――』

 

 迫ってきた竜崎の顔に、ああ、口付けられると、まるで初心な少女のように瞳を閉じてしまった。

 だが、いつまでもやってこない感覚と、止まった旋律に、どうしたのかと恐る恐る瞼を開けた。

 再び明るくなった視界には、もう先ほどの狂うように情熱的な視線を向けてくる竜崎はおらず、いつもの感情の分からない竜崎が剃刀についたクリームを拭っていた。

 

「はい、完了です。私の遊びに付き合ってくださりありがとうございました」

 

 なんでもないような表情でそう告げてくる竜崎に、さっきまでのあれは幻か白昼夢だったのかと思ってしまう。

 こっちは口付けまで覚悟させられたというのに、結局何もされなかった事せいで、物足りなさなんてものを覚えてしまっている。と、自分の脳裏に浮かんできた言葉に、まるで竜崎にキスされたかったみたいじゃないかと恥ずかしさが湧き上がってきて、誤魔化すように口を開いた。

 

「……もう、こういう遊びは勘弁してくれ。殺されるかと思った」

「はい、すみません。月くんの付き合いがいいもので、ついつい私も楽しくなってしまいました」

「こんな椅子に縛り付けておいて付き合いがいいも何もないだろ……。はぁ、父さんがこの部屋のカメラを見てないことを祈るよ」

 

 竜崎とこんな事をした姿を見られてしまったら、また父さんに酷い心配をかけてしまう。今度こそ心臓麻痺で倒れてしまったらどうしてくれるんだ。 と、恨めしい視線で竜崎を見つめていた時だった。

 僕の手錠を外しながら、竜崎は何かを思いつめるように、ぽつりと言葉を零した。

 

「……やはり、キラは判事よりも、スウィーニーのほうが似合ってしまいますね」

「竜崎?」

 

 さっきまで自分はモテるだの、キラは腐敗した判事だの好き勝手言っていたくせに、突然どうしたのかと竜崎の顔を直接見上げれば、そこには珍しくしおらしい表情をした男が居た。

 今日は、初めてみる表情ばかりだと驚いていると、竜崎はどこか独り言のようにぽつぽつと言葉を零し始める。

 

「私は、キラのことを冷酷なサイコパスだと考えていました。自分の邪魔をするものはなんであろうと排除する。それは誰であろうと例外なく、たとえ肉親や友人、恋人であっても殺せる。だから、貴方が品行方正で真面目な好青年に見えるのは、そう見えるように演技をしているのだと思いました。心の内では自分以外の存在を利用することしか考えていない、けれど表面上は魅力的に見える、サイコパスの典型です。ああ、それから複数の異性と同時に交際する傾向もあります」

 

 そういえば月くんも沢山の女性と付き合っていましたねと、相変わらず僕がキラという前提で行われる会話に、そろそろ手を出しても許される頃かと、軽く竜崎の胸を押しのけた。

 

「勝手に僕をサイコパス扱いするなよ。不愉快だ」

「私が解決した事件の犯人は、大抵その傾向がありますから。人間が自分の意思で多くの人間を殺すのは、そういった心理的な問題がなければ起こり得ません。だから貴方も同じだと……ですが、こうして貴方と一緒に生活して、貴方が夜神さん……お父さんのことを本当に信頼している姿を見て、私の分析は間違いだったのかもしれないと思うようになりました」

 

 自分が間違えていたと、あのLの口からそんな言葉が出てきたのを聞いたのは、僕が初めてなんじゃないだろうか。と、どういういう意味かと首を傾げた。

 

「貴方は、本当に家族を大切にしている。心の中で見下しているわけでも、いつか利用する駒として考えているわけでもない。貴方にとって、夜神さんは尊敬すべき正義感を持った父親で、お母さんや妹さんは大切で守りたい存在です。貴方は大切な人の幸せを願ってやまない、ただの普通の青年です」

 

 竜崎が僕にそんな評価を下しているとは思わず、少しばかり唖然とその姿を見つめてしまった。

 竜崎が僕に向けていった『普通』という言葉は、これまでの人生で一度だって僕に向けられたことのない評価だった。

 いつでも優等生で、大抵のことが一番だった僕は、どの集団においても『普通』じゃなかった。

 けれど、初めて言われた『普通』という言葉に、苛立ちや不服さなどは一切なかった。それは相手があのLで、何より竜崎が表現した『普通』こそが、まさに僕の真の姿だと思えたからだった。

 

「あぁ、そうだよ。僕は家族のことが大事だ。ああいう善良な人達が悲しまず、不幸な犯罪に巻き込まれることなく、正当な幸せが享受できる世界を望んでいる。だから……キラの思想には、少しばかり共感してしまう部分もある」

 

 あまりキラの思想に同調するようなことを言っては怪しまれる。と、これだけ僕のことをキラだと疑っている竜崎相手にも躊躇ってしまうような言葉だったが、しかし僕は真剣に竜崎へ心の内を語った。

 そうでもしなければ、誠実な目を向けてくる竜崎と対等な立場で話せないと思ってしまった。

 僕の言葉に竜崎はそうですねと、どこか悲し気な、ため息のような笑いを零した。

 

「貴方は、キラのことを子供で純粋だと分析しました。私はキラに対して『純粋』だと考えたことはありません。ですが今の貴方を見ると、たしかにキラは『純粋』だったのかもしれないと思いました。初心な、誰かの幸せを本気で願っている、純粋で幼稚な子供。だからこそ、私はキラがいつかスウィーニーのようになってしまうのではないか、気がかりなんです」

 

 それはキラが純粋すぎるがあまり、凶悪犯を憎み、復讐者のようになってしまうという意味か。

 だが、竜崎の『気がかり』は、そうではなかった。

 

「月くん、スウィーニー・トッドの物語の結末を知っていますか」

 

 問われた質問に、僕は素直に知らないと首を振る。元々、僕が知っていることを期待している問いではなかったのだろう。竜崎は特に茶化すでもなく、クイズの正解を話す風でもなく、まるで本当にあった過去を回想するように言葉を続けた。

 

「実は、死んだと思われていた妻は、本当は生きていたんです。判事に凌辱され服毒自殺を図ったが、死にきれず精神が壊れてしまった妻は、浮浪者として生活していた。そんな変わり果てた妻の姿に気付くことなく、スウィーニーは邪魔だという理由で、自分の手で妻を殺します。いつものように、復讐のために殺してきた他の人間のように、いとも簡単に。そして最後に、浮浪者が妻であったことに気付き、スウィーニーが絶望したまま物語は終わります」

 

 そこまで聞いて、僕は竜崎の言う『気がかり』がそういう意味かと悟り、眉を顰めた。

 

「……お前は、いつかキラも。否、いつか僕も大切な存在に気付かないまま失うと考えているのか」

「はい、そうです。愛しい者のために、結果として愛しい者を殺してしまう。正直言って、後味の悪い物語です。架空の物語であれば、シェイクスピアの悲劇を楽しむように面白いと言えるのでしょうが。その悲劇の主人公が月くんになってしまうのは、私も望んではいません。……貴方は私の初めての友達なので」

 

 その言葉は、つい先ほどまで、あんなにも嘘くさく聞こえた言葉だったはずだ。

 それなのに何故だか、今の竜崎の口から紡がれた『友達』だけは、竜崎の本当の意思に思えた。

 

「だから、月くん」

 

 竜崎はそう、遠くに言ってしまう相手を引き留めるような声色で、僕の名前を呼んだ。

 

「どうか、貴方が本当に大切なものを見失わないことを祈ります」

 

 悲しみと慈しみに溢れた、竜崎の優しい眼差しに、僕は一瞬だけ言葉を詰まらせる。

 だけど、まるでスウィーニーのように、沢山の裁きという名の人殺しを重ねていく中で、命の重さを軽視し、やがては自分が大切だったはずの存在まで失ってしまうなんて。そんな本末転倒の悲劇になってしまうなんて、そんなこと。

 仮に僕がキラだとしても、そんな愚かな間違いは犯さない。

 ああ、何より、そもそもの話として、僕は――。

「大丈夫、僕はキラじゃないから。大切なものは何があっても見失わないよ」






 

 父さんの遺体は、そのまま日本に送られた。

 アメリカで火葬して骨だけを送ることも出来た。だが、骨だけを見せられるのでは母さんがあまりにも可哀そうだと思って、メロを追う中、無理をしてでも遺体のまま送れるように手続きを進めた。

 とはいえ、Lとして居続けなくてはいけない僕がアメリカを離れることは出来ず、父さんの葬儀に出席することは叶わなかったから、やっぱり母さんは悲しんだのだろうけど。

 電話越しに、帰ってきてほしいと泣き崩れる母さんの声が、今も頭の中に響いているようだった。

 すぐにでも日本に帰って母さんと粧裕を支えたいと思う心と、メロに逃げられた今日本に戻っている暇など無いと焦った心。どちらも僕を苛んだが、結局僕の中で大きかったのは後者だったらしい。

 父さんの遺体を日本に送るための手続きを進めている時、捜査本部の皆が酷く気遣ったような表情で僕の肩を叩いた。

 

「月くん、君も少し、休息を取ったほうがいい」

 

 メロを取り逃がした今、1日でも時間は惜しい。それは皆承知で、何より僕自身が一番思っていた。だが、半日でも、数時間でもいいから、心を落ち着けなければ、君の心が死んでしまうと言ったのは相澤さんだっただろうか。

 だから休息のためには、僕の恋人(ということになっている)ミサと一緒がいいだろうと提案された。正直に言えば時間が貰えるならば一人にしてほしいと思ったが、その勧めを無碍にするのも面倒で、かと言って買い物も食事もミサとの会話もする気になれなかった。

 なら、大学時代にカモフラージュのデートとしてよく使っていた手段。映画や舞台なら長時間一人で考えられて、退屈な会話をする必要もないと、適当に近くにあった舞台を見に行こうとミサを誘った。

 その演目が偶然にも、かつてLと話をした『スウィーニー・トッド』だと気付いたのは、劇場前に飾られているポスターを見た時だった。

 こんな時にあいつの姿を思い出すのも癪で、けれど今更目的を変更しようというのも怪しいかと思い、結局僕は二人分のチケットを購入した。

 

「すっごく、いいお話だったね!」

 

 終演後、近くのカフェでアイスカフェオレを口にしながら、ミサはそう興奮気味に喋り続けた。

 元々、ゴシックロリータや血ミドロが好きだったミサは、作品の陰鬱な世界観が気に入ったらしい。何より、利用されていると分かっていながらも、それでもスウィーニーへの恋心で共犯者の道を選んだヒロインの姿に心を打たれたようで、いつか演じてみたいと珍しく女優らしい言葉を口にしていた。

 そんなミサの言葉を呆然と聞き流しながら、僕の頭の中に浮かんでいたのは、あの日Lに言われた言葉だった。

 

『どうか、貴方が本当に大切なものを見失わないことを祈ります』

 

 スウィーニーが復讐を誓い殺人鬼になるほど愛していたはずの妻。その彼女を殺した瞬間、Lはキラが、僕がこの憐れな悲劇の主役と同じ事になると考えたのかと、酷い苛立ちが胸を苛んだ。けれど同時に、この哀れな男は今の僕かもしれないと、そう思ってしまったのも事実だった。

 あいつが、粧裕の精神を壊し、母さんを一人にして、父さんが死ぬ未来まで予想できていたとは思えない。

 けれど実際、僕は僕の大切な人達の幸せを全て失ってしまった。それどころか、僕はノートの奪還のために粧裕を殺す算段を立てていたし、父さんがノートでメロを殺したら13日後に名前を書く準備さえしていた。

 僕が、僕自身の手で、大切な人達を殺そうとしていた。

 そんな未来を竜崎は、Lは、本当に予知していたというのだろうか。

 

「月、どうかしたの?」

 

 ずっと無言でコーヒーを飲んでいた僕に、ミサは心配そうにこちらを見上げてくる。

 だから、なんでもないのだと伝えるために、何より自分に言い聞かせるように、僕は上辺だけの笑みを張り付けて言葉を紡ぐ。

 

「別に、酷い悲劇だったと思っただけだ。僕には、スウィーニーが理解できない」

 

 僕は、僕の人生を悲劇になんてさせない。

 必ずメロを殺し、ニアを殺し、新世界の神になる。

 大切なものを自分の手で殺してしまった悲劇の主人公で終わるわけがないだろうと、僕はもうこの世に居ないLに向かって反論した。

 それでもあいつは、あの日僕に見せた、悲し気な表情で言うのかもしれない。

 貴方は、自分が悲劇だと気付くことも出来ない、憐れな殺人鬼だと。

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