「重要なのはXYでなく」
僕はいったい何をしているんだろうと、今日だけで何回目になるか分からない自問自答を繰り返しながら、人形のようにじっとこの時間を耐えていた。
「きゃー! やっぱりライト、美形だからメイクも似合う!」
「……ミサ、まだ終わらないのか」
「だーめ、まだファンデとアイシャドウの下色塗っただけだから、これからが本番なの」
次はこれねと、メイクボックスからこれまた煌びやかな色をした何かを取り出したミサを見ながら、僕はこっそりとため息を吐き出した。
わざわざキラ事件捜査のためだけに建てたというビルの、ミサのためだけに与えられたワンフロアにて、全ては始まった。
年頃の女の子が、ずっと監視されたまま生活をしていてストレスが溜まるというのはよく理解できるし、なんとかしてあげたいという気持ちも無論ある。だから、ミサが趣味のゴシック系のペアルックで室内デートがしたいと言う願望も、まぁ別にいいかと思って了承した。
とはいえ、まさか服だけでなく男側も化粧もするとは思わず、ミサが化粧道具を持ってきた時は本気かと焦った。
だが、疑う僕にミサはV系バンドが掲載されたゴスロリ専門誌を見せてきた。たしかにそこには青白くも妖艶な化粧をしたアーティストの姿があり、なるほどミサの目指すところはこれかと、一種の諦めを覚えた。
「そうそう、もうちょっと目閉じててね、ライト」
「あ、あぁ……」
ミサの耳元で囁くような声に、曖昧に返事をする。
一度承諾してしまったのだからと、結局こうしてミサの着せ替え人形としての役目を渋々と演じてはいるが、瞼に化粧用のチップを当てられ何かを塗られるという感覚は未だに慣れない。いつミサの指が僕の瞼を強く押してしまうのか、と考えるだけで体固くなるのが分かった。
「はい、じゃあ次はアイライン! ライト、下側から塗るから目、開けて大丈夫だよ」
「あ、うん……って、ミサ、それ、そんなにギリギリの縁に塗るのか」
「そうだよ。はい、ぱっちり大きく開けてね」
目元の際、目尻の付近をなぞって描かれるアイラインに、粘膜や眼球にべったりとしたその筆の先端が触れるのではないのかと、緊張で生理的な涙が溢れそうになる。ただでさえ目元に他人の指が触れるだけで緊張を感じるのに、目元ギリギリに何かを塗られるなんてもはや拷問に近い感覚だ。
なにより相手はあのミサだ、何かの弾みで眼球に筆先が当たってしまうのではないかと身構えるが、さすが慣れているだけあってミサはさほど時間をかけずにアイラインを塗り終えた。
「うん、完璧! ライト、ほら、鏡見てみて!」
「あ、あぁ……うん。綺麗に出来てる、のかな」
「でしょー! やっぱり素材がいいから……あ、そうだ! ライト、ちょっと待っててね!」
ミサはそう言うと、隣にある自分の寝室へパタパタと走り出していった。何を思いついたのかは分からないが、ミサの手から解放されたことに安堵を覚えて、たまらずソファの背もたれに倒れ込んで天井を仰ぐ。
「……早く終わってくれ」
それはミサの着せ替え人形から解放されたいという意味もあったが、もう一つ大きな理由が、僕の左手に繋がっていた。
「…………頼むから、早く起きてくれよ」
限りなく小声で、僕はそう隣で座ったまま眠っている竜崎へ、怨嗟のような願いを口にした。
竜崎との手錠生活をはじめて二週間。常に寝食を共にして知ったのは、竜崎という人間は何からなにまでおおよそ人間らしい生活というものをしていない。
人間が生命活動を行う以上、どうやっても必要な栄養素というものがあるはずなのだが、そんな生物としての理に反するような食事しか行っていないというのは言うまでもない。
それ以外にも、竜崎には一日という概念がない。何日も連続で起きていたかと思えば、そのまま十数時間眠り続け、また不規則に覚醒と睡眠を繰り返す。全くもって正常な人間のメカニズムとは言えないが、だがしかしそれが世界の切り札と呼ばれるLであるのだから、自然と天才とはそういうものなのかと納得してしまう。
そして、竜崎は現在、僕の知る限りでは2日ぶりの睡眠時間を迎えていた。
手錠で繋がれている以上、竜崎が眠ってしまうと必然的に僕もその場に留められてしまうため、ミサとのデート中に眠った時にはこんな時に、と竜崎を恨んだのは言うまでもない。
せめて少しでも捜査の進展が望めるモニタールームか、あるいは僕らのベッドルームであればもう少し時間の使い方を選べたのだが。僕がミサの着せ替え人形に甘んじているのも、大半はそれが原因だ。
尚、寝ている竜崎を運ぶ方法は、運んでいる途中に蹴り飛ばされそのまま喧嘩に発展するということを学んだ僕には選ぶことが出来ない選択肢だった。
「ライト! おまたせー!」
「あ、うん、おかえり」
出来れば竜崎が起きるまで戻ってこなくても良かったんだけれど、という言葉を飲み込んで、笑顔でミサを迎え入れる。
一体何を取りに行っていたのだろうかと、戻ってきたミサの手にあるものに視線を向ければ、そこにあったのは亜麻色のウィッグらしきものと、レースがあしらわれた小さな服のようなものだった。
「ライト、ちょっと目瞑っててね」
ミサの再び瞼を閉じるようにという命令に、僕は特に抵抗する気力も無く従う。
このままどんな化粧をされようと、確かに捜査本部のカメラの記録には残ってしまうが、既に僕は風呂からトイレに至るまで、生活の全てを晒しているに等しいのだから、今更捜査本部の皆に対して羞恥心なんてものは抱いていられなかった。
それよりもこういう時は抵抗しないで、嵐が過ぎ去るのを待った方が利口だと知っている。
だから正直に言えば、僕は完全に気が緩んでいたとしか言えない。そうでもなければ、少しくらいはミサのすることを止めようとしていただろう。
「はーい、できたよ、ライト!」
「もう満足した、か……は?」
髪の毛をゴソゴソと触られていた感覚や、口紅を塗るような感覚があったのは分かっていた。だが、瞼を開いた瞬間、目の前に見知らぬ女性が居たのは予想外だった。
亜麻色の長髪をふわりと揺らし、ぱっちりとした目元に、すらっとした鼻と、自然ながらも血行のよい赤に色付いた唇。そして首元にはレースとリボンがふんだんにあしらわれた、ロリータながらも清楚でふわりとした襟。
おおよそ美人としての要素を取り揃えてはいるが、僕が真っ先に考えたのは『誰だ、この女』という疑問。
しかし、疑問が浮かんだのは一瞬だけで、僕はすぐにそれが鏡に映った自分なのだと気付いてしまった。
「ミサ、これはいったい……」
震える声を抑えながら、自信満々といった表情で鏡をもっているミサに視線を向ける。
「ねぇ、かわいいでしょう? ライト、元の素材がいいから絶対に女装も似合うと思って。一度やってみたかったんだよね」
まぁ、たしかにミサの言う通り、鏡に映る僕らしき女性は美人だ。
甘い香りが漂ってきそうな愛らしさと端麗さを兼ね備えた顔に、男性らしい骨格は長い髪の毛と首元の派手な襟で上手く隠してあるおかげで、言われても男性だとは気付かないだろう。
いやしかし、まさか瞼を開けたら自分が女装をしていたというのは、なかなかに衝撃が大きいものがあって、せめて相談してからにしてくれないかとミサに文句を口にしようとした時だった。
「ミサミサー! プロデューサーの尾根崎さんから電話が……どちら様ですか?」
こういう時にかぎって、天然に定評のある松田さんが部屋に入ってくるあたり、僕は呪われているのだろうか。
松田さんが不審者なのかと僕を凝視する中、捜査本部という場所である以上、いらぬ誤解をさせてはいけないとすぐに頭を切り替える。
「僕です、夜神月です」
「え、あ、月くん?! 驚いた……てっきり、ミサミサのモデル仲間かと」
「でしょー! ライトだったら、即デビュー間違いなしだよね! あ、そうだ! このまま写真取って、社長に見てもら――」
「松田さん、ミサに電話がきてるんですよね? 早く出た方がいいんじゃないですか?」
ミサの言葉によくない気配を感じ、すぐさま遮るように大声を上げれば、松田さんはそうだとミサを手招きする。
「ミサミサ、今度海で撮影するカットについての相談、けっこう急ぎみたいなんだけど今すぐいいかい?」
「えー、ライトのモデルデビュー大作戦は?」
「ミサ、僕は仕事を頑張るミサが一番素敵だと思うな。君の未来のためにも、先方を待たせちゃいけない」
「わぁ、本当? じゃあ、ミサ頑張ってくるから、大人しく待っててねライト!」
こういう時ほど、ミサの素直というか騙されやすいというか単純で良かったとしみじみ思う。
じゃあねと手を振りながら松田さんと一緒に部屋から出ていくミサに笑顔を向けた後、二人の姿が見えなくなってから僕はすぐに頭を抱えた。
「……なんだって僕が女装を」
自分の顔立ちが整っているというのは一種の利点であると理解しているが、それとは別に女装が似合うというのは何とも複雑な心境だ。
体毛が薄く、髭もまったく生えず、どうにも童顔気味であることがコンプレックスと言えばコンプレックスだったが、女装は余計それを目立たせる。
「というかこれ、外しちゃいけないのか……」
大人しく待っていてね、とミサが最後に告げた言葉はそういう意味だろう。
ということは、ミサが戻ってくるまで、眠った竜崎と二人きり、女装のままで居ろということだ。
「……絶対に起きるなよ」
先ほど考えていたこととは真逆のことを思いながら、僕は恨めしい気持ちで竜崎のことを凝視する。
竜崎は一番僕の生活をカメラ越し、直接どちらともよく監視してきているのだから、今更羞恥を抱くことはない。と思っていたはずだが、今の僕の姿を見られたら何を言われるか分かったものじゃない。
だから、竜崎が目覚める前に、早くミサに満足してもらって、こんな化粧やウィッグなどさっさと外してしまおうとため息をついた時だった。
「………………?」
隣で眠っていたはずの竜崎の死んだような黒い目が、うっすらと開かれ、僕を凝視している。
おい、あれほど起きてほしい時にはすやすやと眠っておいて、僕が女装した瞬間に起きたのかこいつは、嘘だろう。
「…………」
「………………」
真っ黒な、光のない、深淵でも覗き込んでいるのではないかと思わせるような、生気のない瞳と見つめ合う。
「………………」
「………………」
たのむ、似合ってるでも似合ってないでもなんでもいいから、何か言ってくれ。
「………………」
「………………」
しかし、こちらを薄目で凝視する竜崎は一向に反応を示してはくれず、しばらくの間なんとも言えない沈黙が流れた。
時間にすれば五分にも満たなかったかもしれないが、しかし耐えきれなくなった僕はついに口を開く。
「…………せめて、何か言ってくれないか、竜崎」
「ああ、月くんだったんですか。突然、絶世の美女が隣に居たので、夢でも見ているのかと思いました」
嘘だ。こいつが夢か現かすぐに分からないなんてことはないし、髪の毛と首元意外は普段の僕なんだから、松田さんならともかく観察眼の鋭い竜崎なら一見女性に見えようとも僕の変装であるとすぐに理解できるはずだ。そうでないと世界の切り札『L』なんてものは務まらない。
だがしかし、これは竜崎なりの『気にしないでください』というフォローの言葉のつもりなのかもしれないと思い……否、竜崎にそんな気を使うという感性があるわけがない。と、僕はもう止めてくれと顔を覆った。
「最悪だ……竜崎が起きる前には全部終わってるはずだったのに」
いつもであれば、一度寝てしまえば数時間は起きないはずだった。それなのに、今回に限ってはほんの一時間程度で起きてしまうなど 、今までとまったく違う傾向に、理不尽かと思いつつも竜崎を睨む。
「すみません、なんだか面白そうな気配がしたもので」
「……実は最初から起きてた、なんてことないよな?」
「それは誓って言えます。つい先ほど起きました。ですがまぁ、私が月くんの女装を見たのはこれが初めてではないですし、そんなに気にしなくても」
「は?」
竜崎の口から出てきたまさかの言葉に、僕は思わずどういう意味かと竜崎に迫った。
「初めてじゃないって、どこで見たんだ」
「月くんが自主的に監禁を申し出てきた時、月くんの部屋を徹底的に調べさせてもらいました。まぁ、月くんがキラなら何か証拠を残すことはないでしょうが念のため。その時、高校の卒業アルバムも調べたのですが、そこに載っていました」
高校、卒業アルバム。
そこまで聞いて、そういえばそうだったと、高校一年生の時の文化祭のこと思い出した。
当時、僕らのクラスは教室でカフェを開くことになり、その時誰が言い出したのだったか、どうせなら仮装をしようという話になった。ではどんな仮装をするのか、という中、真っ先に候補に上がったのが女装だった。
高校生なんて生き物は、その場のノリが全てで出来ている。気付けばあれよあれよという間に女装カフェがクラス投票で一位となり、結局僕も半日だけ女装で接客をしたのだ。粧裕が母さんと一緒に文化祭に遊びに来ると言い出した時は、なにがなんでも僕が接客担当の時間以外に来るように誘導したことを今更ながら思い出す。
そうして僕の中では半ば黒歴史として葬ってきたのだが、いったい誰が今更そんなものを卒業アルバムに載せたのか問い詰めたい。絶対に深夜の悪ノリで選んだに違いない。
というか、こんなことならばちゃんと中身を確認しておけばよかった。そうすれば先にあんな証拠は抹消できたと言うのに。
「高校一年生とあったので、十五歳頃でしたか。今の月くんは体格が大人びているので長身の麗人という印象ですが、卒業アルバムの月くんは体格がまだ幼かったので、愛らしい少女に見えました」
「…………」
「とても似合っていましたよ、メイド服姿」
ニヤニヤとこちらを見つめながら飴玉をつまむ竜崎の姿に、苛立ちと失意が同時に襲い掛かってくる。
「たのむから、記憶から消してくれ。あと、そのアルバムのページは破棄させてくれないか」
「残念ながら私、記憶力がいいので消せそうにありません。それにアルバムもキラ事件の証拠の一部ですから、捨てるわけにもいきませんね」
「仮に僕がキラだったとしても、そんなアルバムなんの証拠にもならないだろ。竜崎の記憶のほうは諦めるから、アルバムだけは返してくれ。そして僕の手で黒歴史は抹消する」
ついでに言えば、現時点で僕がこうして女装している姿を撮影した監視カメラの映像も消してしまいたいが。こちらに関しては本当にキラ事件の証拠なので簡単に削除してくれとも言えない。
すると、竜崎は僕の顔をじっと見つめると、しばらく指をくわえながら何かを考え始めた。
「……そうですね、では、アルバムは返却してもかまいませんが、少し個人的な協力をしていただいてもよろしいですか?」
竜崎の語る『個人的な協力』という言葉に、途端に興味を引かれた。
あのLにとって、僕に頼みたい個人的なことは何だろうか。キラ関連ではない、しかし僕の持つ何かが必要、ならばキラ事件ではない別の事件の捜査協力かと、可能性を想像して微かに鼓動が早くなった。が、それを悟られないようにとこっそり息を飲んで、なんでもないように取り繕った笑顔を向ける。
「へぇ、あのLの個人的な協力だなんて、僕が役に立てるのかな?」
「えぇ、むしろ、月くんでないとお願い出来ないことです。協力いただけますか?」
僕にしか協力できないこと。間違いない、これは事件の捜査だ。
キラ事件の捜査はもちろん、己の頭脳を試せるという意味では魅力的な事件だ。しかし、Lはそれ以外にも、もっと世界の難事件を扱い解決してきている。
その一端にでも触れることが出来るならば、むしろ僕の方からお願いしたいくらいだと、僕は迷うことなく竜崎の言葉に頷く。
「あぁ、勿論。僕に出来ることなら、精一杯やらせてもらうよ」
「そうですか、月くんが乗り気で良かった。では、個人的な協力なのですが……」
いったい、竜崎の口からどんな事件の概要を説明されるのか。
そう、期待を持った眼差しで、一心に竜崎を見つめていると、竜崎はとても真剣な表情で、ゆっくりと口を開いた。
「月くん、私を全力で、性的に誘惑してみせてくれませんか?」
「…………は?」
身構えていたせいで、全く想像していなかった言葉に、一瞬だが理解が追いつかず反応が遅れてしまう。
自分の聞き間違いかと思ったが、やはり何度思い返してみても、竜崎は間違いなく『私を性的に誘惑してみてほしい』と言った。
何を真剣な表情で言われているのか、あるいはこれは何かの比喩か、暗号かと僕が真面目に頭を抱えている一方で、竜崎は机の上の飴玉を口に放り込みながら話を続けた。
「私、実は女性と性的な関係を持ったことがないんです」
「…………まぁ、なんとなく、そんな気はしていた」
実は、と隠していた様に言われなくても、竜崎にはそういった性的な要素というか、男性的な性欲や色気というものが皆無だ。中性的というよりは、無性的と言うべきか。とてもではないが、女性とベッドの中で乱れ合っている姿が想像できない。
「今まで、女性に対して性欲や恋愛感情を抱いたことがありません。というより、女性であろうと男性であろうと、そういった感情を抱いたことがありませんでした」
「あぁ、無性愛者……アセクシャルだっけ? 他者に対して恋愛感情を抱かないっていう」
「はい。Lとして捜査を行う際、判断を求められる際、そういった性欲や恋愛感情というものに惑わされないのは都合がいい。だから正直、私は自分がアセクシャルで良かったと思っていた。のですが、どうやら違ったようです」
何が違ったんだと聞くには、あまりに分かり切った言葉に、僕はまさかそんなことがと思いつつ、竜崎の言葉を待つ。
「今、月くんの姿を見て、自分でも驚くほど欲情しています。若干勃起しました」
「………………」
「美しく、聡明さを兼ね備えていて、初心なようでありながら、しかし内側に危険な色気を秘めているようにも見える。正直言って完璧です。私が今まで見てきたどんな女性よりも愛らしく、私の劣情を掻き立てる。起きた時に長い間黙っていたのは、貴方の姿に今まで感じたことのない性の衝動を抱いたからで」
「分かった。まったく不本意だけど竜崎の初恋を奪ってしまったのは謝る。でもだからってなんで僕が竜崎を性的に誘惑しないといけないんだ?」
こんな二人きりの状態で、しかも互いに手錠によって繋がれている中、誘惑しろというのはそれはそれは危険な行為ではないだろうか。
しかも相手はついさっき初めて恋愛感情というものを覚え、僕の女装に対して欲情なんてものを抱いている相手だ。
あのLがレイプまがいのことをするとは思えないが、だがしかし限度や常識というものを知らないLならば可能性としてはありえるのではと考えてしまう。
というか、個人的な協力というのはもしかしてセックスの相手になれということか。
「勘違いしないでいただきたいのが、私は何も月くんに手を出したいわけではありません」
「是非ともそうあってほしいかな」
「ですが、私は不安なんです。もしも月くんがキラで、女装した姿に私が弱いと知り、自分の身体を好きにさせる変わりに自分を見逃せと迫ってきたら……。正直、断れるかどうか分かりません」
本当に困ったという表情で俯く竜崎の姿に、思わず本気かと首を傾げる。
あのLがハニートラップに引っかかることを恐れるなどありえるのか。僕だったらたとえキラが絶世の美女だろうがなんだろうが、絶対に手心をくわえるつもりなど一切ない。
しかし、それは結局僕が女性にモテていて、女性からのアプローチに慣れているからそう断言出来るだけなのか。たしかに竜崎にはその経験もなければ、今まで性欲なんてものを覚えたことがないという。そんな初めての感情に、本気であのLが困っていると言うのか。
「だ、大丈夫だろう。そんな心配しなくたって、竜崎は性欲に流されたりなんかしない」
「今、こんなにも貴方に触れたくて仕方ないのに?」
「…………その言い方、止めてくれないか」
「月くんに私の危機感が伝わっていないようなので。もっと分かりやすくあからさまに言えば、私は今すぐ貴方を押し倒して唇を貪り、そのまま素肌に噛みつきブラウスを引き裂いて――」
「分かった! 分かったから、それ以上言うな!」
これ以上、童貞の妄想、それも自分に対する妄想を聞かされるのは耐えられない。と、僕は慌てて竜崎にソファのクッションを投げつけた。
しかし、竜崎はクッションがなかなか盛大な音を立てて顔面にぶつかったというのに、一切表情を変えず真剣な顔で僕を見つめ続けているため、余計に竜崎への恐怖が膨れ上がる。
「月くん、私はLとして今、とても危機に瀕しています。Lとは何にも惑わされず、事件を推理し、解決しなければならない。なのに、そのLとしての牙城が崩壊しかかっている」
「僕はキラじゃないから……お前を誘惑することもないから、そんな心配」
「そうですね、月くんはそんなことはしない。ですが、今後の人生において、今の月くんのように美しく聡明な者が犯人だった場合……私は冷静でいられるのか、そういった不安もあります」
まぁ、たしかに女装した僕がいくら美人だとはいえ、世界を見渡せば同じ様な雰囲気を持った美女は多く居る。その内の一人が猟奇的な殺人犯である可能性も、ないわけではない。
だから、竜崎の言いたいことも危機感もよく分かる。分かるけれども、しかしこのまま頷いていいものかと躊躇いは未だに僕を引き留めた。
「いや、でも……」
「…………分かりました。そうですね、月くんの感情もありますし、無理強いはよくありません。諦めます」
先ほどの追い詰め方はなんだったのかというほどあっさりと、引きさがってくれた竜崎に、僕は内心ほっとする。もう少し竜崎を言いくるめるような言葉を用意しなければと思っていたが、竜崎は既に僕に興味を失くしたようにサイドテーブルのチョコレートに手を伸ばした。
「協力できなくて悪かったね」
「えぇ、残念です。……なので、月くんの写真をオカズに使わせていただこうと思います」
「おか、え、何だって?」
到底あのLの口から出てくるとは思えない言葉に、今度こそ聞き間違いかと竜崎を凝視する。
「性的に興奮するための写真や映像のことを日本のスラングで『オカズ』と言うと聞いているのですが、間違っていましたか?」
「いや、違わない、違わないけど! 竜崎、お前、何するつもりなんだ……?」
「イメージトレーニングとして、もしも月くんのような私好みの美女に誘惑されたと仮定してマスターベーションをして慣れておけば、実際に誘惑されても自分を保てると思うので。なので、月くんの卒業アルバムの写真や、今日の映像をオカズに使わせてもらいます」
ああ、だからやっぱりLというのは限度を知らないと、僕は今日一番のため息を吐き出す。
とてもじゃないが、竜崎が抜くために僕の写真を使うところなんて想像したくない。
いや、想像どころか、二十四時間手錠で繋がっている現状、どう考えても竜崎が僕の写真で自慰している姿を隣で見る羽目になるのは明確だ。
「おい、止めろ、絶対にそんなことに僕の写真を使うな!」
「まぁ、やろうと思えば想像でも抜けそうですが、やはり実際に目の前に性欲の対象があるのは重要です。ところで、月くんの写真をアダルト画像と合成してみたいのでパソコンのある部屋に移動していいですか? ああ、でもその前に一度抜いておきたいのでトイレかバスルームに行きましょう」
駄目だこいつ、早くなんとかしないと。
記憶にはないが以前もそんな強い失望を覚えたような気がしたが、今はそんなこと考えている場合じゃない。
このままでは僕自身の体は清廉なままだが、竜崎の脳内や技術によって僕が散々に汚されてしまう。というか、そんなもので抜いているLの姿など絶対に見たくない。
「止めろ、僕は絶対に動かないからな!」
「おや、よろしいんですか? では直接、月くんの姿を見ながら抜かせてもらいますね」
そこまで許可してくれるのは意外でした。と言いながら、竜崎は何のためらいもなく己のジーンズに指先をかけた。本気でやるつもりかと、僕は慌てて竜崎の両腕を掴み上げ、再びやめろと大声を上げる。しかし、竜崎はそんな僕の姿を見てむしろどこか嬉しそうに笑った。
「なるほど、怒るとそんな表情になるんですね。これは想像がはかどります」
「お前な……ッ!」
駄目だ、僕が今どんなことをしようとも、全てが竜崎の興奮材料となってしまう。
何が楽しくて竜崎のオナネタになってやらなくちゃいけないのかという不満がふつふつと沸いてくるが、しかし竜崎はむしろ自分の方が被害者だとでも言うような表情で僕の顔をのぞき込んだ。
「そんなに私がマスターベーションをするのが嫌なら、先ほど提案した通り、私を誘惑してみせる方向で協力していただけませんか?」
「お前の今までの言動を見てると、身の危険を感じるんだけれど?」
「月くん、勘違いしているようですが、私がお願いしているのはあくまで『誘惑のフリ』だけです。実際にその身体を抱かせてほしいとは望んでいません」
そうは言っても、と想像してしまうのは当然の反応だろう。
しかし、未だに自分の言っていることを信じようとしない僕に、竜崎はわざとらしくため息を吐き出しながら言葉を続けた。
「月くん、私が行いたいのは、どんな魅力的な人に迫られても、それを拒絶できるようにするというトレーニングです。己の精神力を鍛えたいだけです」
「……それこそ、妄想ですればいいだろう」
「想像ではあまり実戦効果がないので、それなら飽きるまで抜いた方が効果的です。……何十日かかるか分かりませんが」
さぁ、どちらがいいですかと問い詰めてくる竜崎に、僕は大きく息を吸って考える。
もしもこのまま竜崎への協力を拒否したとしよう。そうしたら竜崎は間違いなく先ほど言った通り、僕の写真を使って抜くだろう。それも事件の進展がなくて、一日中拗ねて暇しているようなやつだ。飽きるまでと言うからには、それこそ一日中、僕の写真を使って抜き続けるに違いない。そして手錠で繋がれている以上、僕は間近でその姿を見続けなければならない。本人が語るように何十日も。
一方、僕が協力するのであれば、それは避けられる。一時の恥と、竜崎を誘惑すると言う羞恥心にさえ打ち勝つことができれば。
「……協力するのは、今日だけでいいんだな」
「できれば継続的にお願いしたいところですが、そうですね。一度経験さえしてしまえば、あとはいくらでも反芻して応用できます」
このまま数十日、竜崎の自慰を間近で見るか。
この一瞬、恥を棄てて竜崎を誘惑するか。
その二つを比べてしまえば、僕の答えなんてものは既に決まっているも同然だった。
「…………分かった、協力する」
「それは良かった。ありがとうございます、月くん」
竜崎のとても嬉しそうな声に、内心大きな舌打ちをする。
どう考えてもうまいこと乗せられたような気がしてならないが、けれどもあまりにもの衝撃的な言葉を聞きすぎて、感覚が麻痺している。これ以上竜崎と押し問答をしたくない。
その労力を考えれば、さっさと竜崎の案に乗ったほうが賢明だという結論に至った。
無論、諦めたわけでは決してない。断じて。
「では月くんがキラだと犯行が発覚した体で」
「僕はキラじゃないし、その設定は必要なのか?」
「それくらい窮地でないと身体を利用しようなんて思わないでしょう。リアリティは大切です。そして、月くんの考えうる限りの誘惑で、この手錠を外すように私にお願いしてください」
「僕の考えうる限り、ね」
「はい、月くんはモテるようなので、沢山女性に誘惑された経験があると思いまして。なので、月くんの手練手管を披露していただければと思います」
僕の手練手管を見せてくれと言われると、まるで僕自身が誘惑し慣れているかのように聞こえるが、もはや文句を言う気にすらなれなかった。
とはいえ、適当にやればやる気が無いならやっぱり月くんの写真で自慰をするしかありませんね。と、約束を反故にされかねない。
だったら見せてやるよ、竜崎。
僕の本気の誘惑に耐えてみせろと、僕は今まで付き合ってきた女の子達の姿を思い浮かべながら、その中で一番自分がドキリと反応したものを考え抜いて、そして決めた。
「……竜崎」
まずは、切なさと、甘えを含むような声色で、竜崎の名前を呼ぶ。
それから、竜崎の手錠に繋がっている右手を手に取り、それとゆっくりと僕の頬に寄せて、指の付け根に唇を落した。
「んっ……竜崎、お願い、手錠はずして?」
「…………」
僕を見つめる竜崎の瞳は、無表情を貫いている。先ほどまであんなに抜くだのなんだの言っていたのが嘘のようだが、ふと竜崎のもう片方の手に視線を向ければ、指先が真っ白になるほど強く己の膝を握っていた。
なるほど、この程度の誘惑で、かなり我慢をしているのか。あのLが。
それはなんだか面白いという気持ちと共に、何故だか対抗心のような気持ちが沸いてきて、絶対に落してやるという気概さえ感じ始めた。
「りゅう、ざき……っ」
僕はゆっくりと身を乗り出し、竜崎の耳元まで顔を近づける。
相変わらず竜崎は無表情で僕を見つめているが、しかし微かに震えていた。おそらく心の中ではかなりの葛藤をしているのだろう。
ならばこれならどうだと、僕は竜崎の耳元で、わざとくちゅくちゅと唾液の音が響くように、吐息だけで言葉を紡ぐ。
「外してくれれば、いくらでも、好きにしていいから……なんでも、してあげるから……お前がしたいこと、ぜんぶ」
びくりと、竜崎の身体が揺れる。
しかし未だに身体は動かないし、僕を見つめる視線も変わらない。
いや、微かにだが、息が荒くなっている。もう少し攻めれば落ちるか。
そんな最初の嫌悪感などすっかり忘れ、僕はこれが最後だと、竜崎の耳にリップ音を響かせながら唇を落して、竜崎の頬を両手で包み、微笑みかける。
「L、キラの全部をお前に、あげるから」
舌足らずに、頬を赤らめ、首を傾げる。
完璧な誘惑だと心の中で己に称賛を送りながら、僕は目を閉じ口付けを待つように唇を小さく開いた。
これで落ちなかったらいっそ不能だ。と、己の演技の出来に非常に満足していた時だった。
「月くん――――」
意を決したような、切羽詰まったような竜崎の声が耳元で聞こえたかと思った瞬間だった。
両腕を捕まれ後ろに回されたかと思うと、そのままソファの上に押し倒され、竜崎の顔を見上げる。
「は、おい、りゅうざ――っ」
何をしているんだと声を上げようとして、ぬるりと生暖かいもので唇を塞がれる。
甘ったるい味のするそれが、竜崎の口付けによるものだと気付いて、突然の竜崎の奇行に止めろと抵抗を試みた。
だが、両腕は背後で纏められて押し倒されているので、自分と竜崎の体重のせいで自由に動かすことは出来ない。ならば脚だと考えたが、そちらも太腿から竜崎の膝によって抑えつけられているせいで、満足に抵抗できなかった。
「んっ――んんっ!」
待て、これは非常に、不味いのではないか。
散々手を出すつもりはないと言って、結局こいつは我慢できなかったのか。いやそれを目指していたのだから言ってしまえば僕の勝ちなのだけれど、現状を考えてみるとどう見ても己が勝ったとは思えなかった。
何より、一番不味いのは、竜崎のキスが意外にも――脳がとろけてしまいそうなほど気持ちよかった。
「んっ、は……っ、ん、んっ」
舌を噛んでやろうと思えたのは最初だけで、口内を蹂躙するように動き回り、的確に快楽に繋がる場所を舐めて刺激していく行為に、これは僕の知っているキスなどではないと悟る。
これはそう、愛撫だ。
セックスの一部だ。
僕は今、キスで竜崎に犯されている。
「――ふっ、ぅ、ん! んんっ!」
僕の抵抗を防ぐため、両手で頭を固定されており、さらに両耳まで塞がれているせいだろう。
口内で舌を縺れ合わせる、くちゅくちゅとした水音が、脳内に直接響き渡って、音でも僕を犯してきた。
キスだけでイクなど、エロ本や官能小説の読みすぎだ。都市伝説だ。と、今の今まで考えていた僕の常識を覆すような、深い深い口付けに、悟ってしまう。
このまま続けると、イク。既に下半身が熱い。出したい。気付けば隆起したものが下着を濡らしてスラックスを押し上げているような気がする。
「んっ、ぅ……ん、んぐっ、ん!」
「っ……は、ぁ、んっ……月、くん」
吐息交じりに呼ばれた名前に、腰が寒気を感じたようにひゅうと浮き上がって、悶える。
確定だ。
こいつ絶対に、経験者だ。
何が今まで性欲なんて抱いたことがないだ。
性欲を抱いたことのない奴が、童貞の奴がこんな上手なキスができるわけがない。否、童貞どころか経験のある僕でも無理だ。これは玄人の舌使いだ、相手をイかせるための手段を熟知している人間の行動だ。
と、全て図られていたと気付いた頃にはもう遅く、僕がぐでぐでのぐちゃぐちゃになった頃、ようやく竜崎の唇が唾液の糸を引きながら離れていった。
「すみません、我慢しようと思ったのですが、失敗してしまいました」
謝罪を口にしているくせに、全く悪びれた様子もなく、唇を腕の袖拭う竜崎。
そんな奴の姿を睨んでから、僕は開放された腕で自分の涙に濡れた目元を隠した。
「……っ、はぁ、嘘つき……。なにが、性的に興奮したことがないだ」
「ああ、バレましたか。はい、年相応には性行為もしたことがありますし、なんなら事件に対して性的興奮を覚えることもよくあります。キラ事件解決の暁には、今まで一番強いオーガズムを経験出来るという確信があります」
「…………最低だ」
「それは事件に性的興奮する事についてですか? それとも、キラ事件に進展が見込めなくて第一容疑者だと思っていた月くんはキラの記憶を失くしていて、Lとして活動して以来一番酷く落ち込んでいるというのに、貴方とミサさんときたら楽しそうに女装なんかして遊んでいるのが気に喰わず、ついつい意地悪したくなってしまった事についてですか?」
両方に決まってるだろう、と未だに僕の上に居る竜崎を雑に押しのければ、竜崎はもう飽きたとでも言わんばりにあっさりと僕から離れて、再びチョコレートを口に運び出した。
こんな最低な奴のキスで勃起しかけたなどとても信じたくないが、事実身体は反応してしまっているため、僕はこっそりと下半身を抑えながら元の位置に座りなおす。絶対に竜崎に悟られてなるものかと神経を張りつめて隠しながら動いたが、そもそも竜崎は興味がないらしくこちらを一瞬も見ようとはしなかった。
「もう絶対に、お前の言葉なんて信じない……」
心の底から吐き出した言葉に、竜崎はいつもの調子で返事をする。
「それではキラ事件捜査に支障が出るので、ちゃんと嘘と本当だったことは解説します」
「いらない、黙ってろよ」
しかし、僕がどれほど拒もうとも、竜崎は僕の言葉など一切聞いていないのか、聞いていても無視していいと考えているのか、気にすることなく言葉を並べ立てた。
「まず先ほど説明したとおり、性行為はしたことがあります。それから、性欲は薄い方ですが無性愛者ではありません。相手の性別は問わないので、両性愛者ということになりますね。あと、月くんの女装を見て初めて欲情したと言いましたが、あれも嘘です」
そりゃそうだ、そうであってくれなければ困る。
と、だからどうしたんだと竜崎を睨みつけた瞬間、あいつの黒い瞳が、とても楽しそうに僕を見つめ返してきた。
「私はずっと前から、貴方に欲情していました。キラ容疑者としての貴方に」
おい、たのむから、それだけは嘘であってくれ。
けれど竜崎は僕が一番嘘であってほしいと願った言葉だけは否定せず、舌なめずりをしながら言うのだ。
「夜神月。お前が男でも女でも、私はキラが欲しい」
それを確認できただけでも、今日という一日は満足できたと語る竜崎を黙らせるため、全力で竜崎の顔面めがけて拳を放った。
だが、すぐに両腕を絡めとられて、再び唇を奪われて――。
今度は本当にイクまでキスされるなんて、こんな未来誰が望んだって言うんだ。