「無味の白亜に敬愛を」
夜神月が死んだのだという話を聞いたのは、彼との電話が途切れてから一時間後だった。
彼の動向を探るために追跡をさせていた人間から、彼の最期がどんなものであったのか聞いた瞬間、私は何故彼がそんなにもつまらぬ理由で死ななければならなかったのかと、独りホテルの一室で悔しさというものを覚えた。
即死ではなかったらしい。
初めは私と通話している携帯を持つ手を撃たれ、その後、全身を撃たれたが、失血多量で死に至るまでは数分かかったと。
電話越しに聞こえた、多くの捜査員達が慌てる音の奥で、彼の悲鳴が脳裏から聞こえなかった。
『ちくしょう』
彼の、おそらく最期の言葉が、あんな無念な色を滲ませた言葉であっていいはずがなかった。
人間の死は何時だって、どんな聖人君子であろうとも、突然やってくるものだ。
そう、冷静な頭は理解出来ているというのに、心がそれに従わないというのは初めての経験だった。
「L、紅茶を淹れ直しましょうか」
ワタリにそう声をかけられて、私はようやく己が随分と長い時間、好物の甘味を目の前にしているというのに、一切手を付けず呆然としていたことに気付いた。
すっかり冷めきった紅茶と、乾燥して硬くなったケーキのクリームに視線を向けながら、私は大丈夫だとワタリの申し出を断った。
「食べる気が起きない。全部片付けてくれ」
「……分かりました」
食欲不振、という己の記憶している中でも初めての経験に、驚いているのはワタリも同様らしい。普段から表情を崩さない老紳士は、珍しく子供を心配するような祖父の顔で、私の様子を伺っている。そんなに、今の私の姿は珍しいのか。ああ、珍しいのだろうなと、私は己の姿を窓ガラスに反射した虚像によって知った。
今まで、事件の最中に捜査員が死ぬことは何度もあった。パソコンの画面越しとはいえ、長い付き合いがあった捜査員が死んだこともあった。それに悲しみもしたが、その悲しみはどこか『尊い人命が喪われた』という形式的な悲しみであったのだと、今更私は気付いた。
私という人間は、Lという存在は、そういったどこか人間的な感情に乏しい、冷血な生き物なのだと思っていた。
だから、数回パソコン越しに捜査を共にして、たった一度だけ直接会った程度の夜神月という人間の死に、これほどまで心を掻き乱されるなど、どうかしている。
そんな、普段の己が『どうかしている』と思ってしまうほど、私は彼の『友達』という言葉を信じていたのかもしれない。
「初めての、友人だった」
私がぽつりと呟いた言葉に、ワタリはそうですねと、柔らかく寄り添うような声色と共に頷いた。
ワイミーズハウスで私がどのような少年時代を過ごしたのか、最もよく知っているのはワタリだ。
そう、自他共に認めるように、私には友達などという存在は夜神月を除いて一度たりとも存在したことはなかった。
私はそもそも他者と親密な関係を築き上げ、心を通わすような社会性を身に着けることに向いていなかったし、身に着けたいとも思わなかった。あの頃のハウスに居た子供たちは皆どうにも知性が足りなかったし、成人を迎えた今でも大抵の人間は知性が足りないのだと知った。
また、仮に聡明だと思う相手が居たとしても、それは数多くの人間の中では頭一つ飛びぬけているというだけで、私と同等な相手だと思うことはなかった。
そう、全て、夜神月という、私にとってあまりに特別になってしまった人間を除いての話だ。
「彼とゲームをしようと話していた。とても面白そうな、私の人生の全てを賭けてもいいと思える、素晴らしいゲームだった。もしも彼に負けることがあれば、私はLを引退しようと本気で考えていた。それくらいゲームが……否、夜神月とする予定だったゲームは、私の心を震わせた」
それなのに、初めての友人とするはずだったゲームは、目前でどこの誰とも知らぬ麻薬中毒者のせいで、全てが終わってしまった。
あと少し、何かが違っていれば、彼は生きていて、私たちは久しぶりの再会に喜んでいたのかもしれない。
私が、夜神月が今回の事件について『L』に助けを求めるようなことがあれば協力するなどと、つまらないプライドなど棄て協力を申し出ていれば、もっと変わった運命なんてものがあったのかもしれない。
そんな『もしも』の可能性をずっと模索してしまう己が、あまりにも今までの己とは似ても似つかなくて、此処に居る私は本当に世界の切り札と言われた『L』なのかと疑いたくなった。
そして、そんなLらしくない私は、さらにLらしくないことに、衝動的と表現してしまえるような、ある考えを抱き始めていた。
「ワタリ、日本の葬儀で、火葬した死体の遺骨を壷に拾い入れる文化があったと思うが、あれは親族以外でも参加する方法はあるのか」
文化社会的な事であれば私よりもワタリのほうがよく知っているはずだと、そう確認の意味を込めて尋ねれば、ワタリは首を横に振った。
「形見分けでしたら親族以外でも行いますが、骨上げは親族のみで行うものだったかと」
「そうか、なら、夜神月の遺骨と遺灰、両方ともどんな手を使ってもいい。私の元に回収してくれ」
私が口にしたその要望に、いつもであれば捜査のため、どのような非人道的な行為であろうと可能であれば頷くワタリが、初めて動揺の色を見せた。
「それは……本来遺族が死者を悼むために手元に置くものです」
「私も彼を悼むつもりだ。親族ばかりが彼を悼み、その遺物を占有する道理は無い」
私だって、彼の家族が永遠の別れを惜しむ行為を邪魔したいわけではない。けれど、家族にとって彼が唯一だったように、私にも夜神月とは唯一の存在だった。例え、共に過ごした時間は少なかろうとも、この感情が血の繋がりより薄いなどと誰にだって否定されたくない。
「私だって、何にも気を使わなくて済むならば、今すぐに病院から彼の遺体を強奪して、永遠に彼の姿を保存する。それをしないのは、私が彼の家族に敬意を払っているからだ。だから……せめて、骨と遺灰だけでも」
私は欲しい。と、まるでクリスマスプレゼントをねだる子供のように、親指を咥えながら呟く。
やがて、しばらく黙っていたワタリも、私の要望を理解してくれたのだろう。いつものような老紳士といった表情に戻ると、分かりましたと小さく頷いた。
「では、遺骨と遺灰、全ては難しいでしょうが、可能な限り回収するよう手配しましょう」
「あぁ、頼んだ、ワタリ。それから、遺骨は頭蓋骨が欲しい」
出来るかと顔を上げてワタリの表情を伺えば、そこに居たのはもう完璧な私の右腕の姿で、否というはずが無かった。ではその通りに、とワタリはワゴンに紅茶とケーキを片付けると、そのまま部屋を出ていった。
これで数日後には、私の手元に夜神月だったものが届く。それまでの間、何をして過ごすべきかと、彼と会うために開けておいたスケジュールを思い出して、何もする事がないと不貞腐れた感情に支配された。
「夜神月」
彼の名前を再び、己の薄く荒れた唇で紡ぐ。
こうしてワタリに遺骨と遺灰を盗んでこいと、まるで墓場泥棒のような指示を出しておいて、心の底では『彼の知性と精神が宿らぬ抜け殻になんの意味がある』と、冷静な私が疑問を投げかけていた。
まったくその通り、私が追い求めたのは、私と同等の推理力を持ち、恐ろしいまでの知能を持つ、生きた人間だ。その命が失われてしまった今、残った肉塊になんの意味もない。分かっている、理解している。
だが、それでも、私は欲しいと思ってしまった。彼の遺体が、ほんの数時間前まで息をして、私とゲームをしようと楽しげに話していた、友人の全てが、どうしても欲しくなってしまった。
今でさえ、再びワタリを呼び出して『やはり遺骨では満足できないから、遺体を持ってきてくれ』と頼みたい衝動に駆られている。
こんな感情など、生まれて初めて抱いた。
夜神月は、友人といい感情といい、私に初めてを教える存在だった。
「夜神、月」
何度も、彼の名前を呼ぶ。
それで彼が戻ってくるわけでもないというのに、感情というのはままならず、勝手に私の口から言葉を紡がせる。
それがどうにも不気味で、再び親指を噛めば、指先に付いた砂糖の甘さを感じた。
「……貴方の骨ならば、甘くなくても、食べられそうな気がします」
そのまま、彼の骨以外、食べ物を受け付けなくなってしまったらどうしようかと、馬鹿らしいと一笑するには真剣な考えが浮かんで、私は独り瞼を閉じた。