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「2011.5.2 18:23」

2003.11.28 7:16


 

 その日は、朝目覚めた時から、酷い倦怠感が全身を支配していた。

「お兄ちゃん、大丈夫?」

 妹の粧裕の心配そうな表情に、そんなに顔色が悪いのかと洗面台の鏡に視線を向ければ、なるほどたしかに僕の頬はリンゴのように赤く色付いていた。

 母さんから渡された体温計を脇に挟みながら、昨日の夜は今年一番の冷え込みだと言われていたのに机で根落ちたせいだなと、受験生のくせに自己管理がなってない自分を嘲笑う。

 しばらくして鳴り響いた電子音に体温計を確認してみれば、そこに表示されているのは三十八度五分という、明らかに学校に行ってはならない数値だった。

「あら、随分高いわね」

「うん……ちょっと、フラつくか、な」

 あまり心配をかけないようにと心がけたつもりだったが、しかし自分の口から出てきた言葉は驚くほど呂律が回っておらず、むしろ余計に心配をかけてしまったらしい。

 母さんは心配そうに僕の背中をさすりながら、 今日はもう休んだ方がいいと、僕に再び部屋に戻るようにと諭す。 受験生がこの大切な時期に学校を休むのもどうかと思ったが、僕であればその程度で成績は落ちないし、何よりこんな状態で学校に行くのは自分のためにも周囲のためにもならない。元々皆勤賞なんてものを狙っていなかった僕は、母さんの「代わりに連絡しておく」と言う言葉に甘え、素直に部屋への階段を上った。

 まだ生暖かい布団に戻れば、柔らかなベッドが僕を迎え入れてくれた。先ほど自分の体温を見てしまったせいだろうか、全身の気だるさに余計に意識が向いてしまって、今日はもう一日起き上がれないかもしれないと痛みを訴える頭を枕に埋めた。

「熱なんて、何年ぶりだろう……」

 ぽつりと、ふと思ったことを吐息混じりで呟く。

 最後に熱を出したのは、確かまだ、中学校に上がる前だっただろうか。

 あの頃でも、僕はやっぱり大人びていて、心配そうにする母さんに何度も大丈夫だと言って何でもないフリをしていた。けれどその日の母さんは特別に優しく、りんごのすりおろしを持ってきてくれたり、僕が眠りに落ちた後もずっと看病をしてくれた。それから珍しく父さんが早く帰ってきて、早く元気になりなさいと好きだったアイスクリーム屋のアイスを買ってきてくれたはずだ。学校を休んだ日に食べた、爽やかなラムネとバニラのアイスが、熱で火照った体を優しく冷やしてくれたこと。そんな特別な味を今でも覚えている。 

「懐かしい、な……」

 己の心を温める、優しい思い出に、自然と笑みが零れる。今となっては母さんにずっと看病して欲しいとも思わないし、アイスも何もいらないけれど、でもあのリンゴのすりおろしだけはもう一度食べてみたい。と、熱で弱ったせいか、感傷じみた考えがふわふわと浮かんできた。

 それにしても、確かに昨日は机で寝落ちてしまって、明け方にベッドに入り込んだが、しかしその程度で風邪を引いてしまうだなんて。何か不摂生な生活でもしていただろうかとここ最近の生活を思い出そうとして、けれど倦怠感に思考をすぐに放棄する。

 今更どうこう考えても仕方がない。熱が出てしまったのは事実だ。

 今日学校を休んだところで、僕の人生にさして大きな影響があるわけでもない。

 だからそう、こんな何でもない日には、ゆっくり休むことが大切だ。 

 

  そう思いながら、僕は己の人生を左右していたはずの日に、何も知らずに眠りについた。 







 

2004.2.27 14:03


 

 高校卒業まであと数日。

 この頃になると、クラスには志望校に受かって浮かれ気分の人間と、前期日程に落ちてあとは後期日程にかけるしかない人間とで分かれる。前者はまともに授業を受けるつもりなどさらさらないし、後者は受験のためにも授業などしている場合ではない。 

 そんな状況を進学校の教師達も良く分かっているからこそ、本来であれば今は英語の時間だが、ほぼほぼどの教科も実習扱いになっていた。

 一方の僕は、受験も無事合格し、かといって浮かれて卒業旅行を計画するでもなく、校庭に咲いた梅の花を眺めながらいつものように退屈な時間を過ごしていた。

「ねぇ、ライト。東応大学合格おめでとう」

 その時、受験で神経質になっている人間を気遣ってか、隣の席の僕にだけ聞こえる声で、ユリがそう僕の二の腕をペン先で突きながら囁いた。

「うん、まだ合格発表は出てないけどね」

「だって、自己採点満点だったんでしょう? 先生たち、噂してたよ」

 そもそも、ライトが落ちるなんてありえないから。と、笑うユリに、まあ確かにねと僕も周囲を気遣ってユリにだけ聞こえるよう小さく笑う。

 東応大学の前期日程に落ちて後期日程を必死に対策しているクラスメイト達には悪いが、僕にとって東応大学に合格することはたいして難しいことではなかった。

 それよりも僕にとって重要なのは、首席で卒業し、父さんと同じ警察庁に入り、父さんのように難解な事件を解決すること。そしてこの世界に、正義というものを証明すること。それが僕の最終的な目標であって、大学合格なんていうものはその第一歩にすぎない。

 だから、僕の人生はまだ始まってすらいないのだと、入学前からずっと卒業の日ばかりを考えているのが実情だった。

 日本にもアメリカのように飛び級の制度があったのならば、どれほどよかったか。あと四年、僕はまだ学生という退屈な身分でいなければならないのかと思うと、正直みんなの浮かれた気分にはついていけないと思っていた。

 だから、ずっと心の中を支配してきた退屈と憂鬱に苛まれながら、僕は再び呆然と窓の外を見つめた。

 その時、警察の捜査車両らしき影が、裏口側に付いているのを見つけて、一体どうしたのだろうかと身を乗り出した。

「あ、そういえばライト、知ってる? 二年生のクラスで、また不審死が出たんだって」

「あぁ……、みんな心臓発作で亡くなったっていう」

 ユリの話すとおり、この二、三ヶ月の間で生徒が四人も心臓麻痺で亡くなったのだという噂が流れていた。

  事実それは噂だけではなく、こうして警察関係者が学校に捜査に来ていることからして本当なのだろう。

「これって、いわゆる、事件ってやつなのかな……?」

「同じ高校の生徒の連続不審死だからね。警察は事件性があると見て捜査してるみたいだよ」

「そっか……ねぇ、ライトは刑事目指してるんでしょう? そしたら、やっぱりこういうの、捜査とかするようになるの?」

「そうだね。それに、今も将来のために、自分なりにこの事件のことまとめてるつもり」

 ユリにそう語ったように、今の僕の興味の大半は校内で起きた連続不審死事件に向けられていた。正直言って、こっちの事件の方が気になって受験勉強なんてまともにやる気が起きなかったほど 、僕は自分なりにこの事件について捜査している。

 それは野次馬根性というよりも、将来警察官を目指している身として、今後のためにという気持ちが半分と、もう半分は僕自身がこの事件を解決してみたいと言う思いからだった。

 過去にも僕は二度ほど、刑事局局長である父に助言をして、事件を解決に導いたことがある。今回もそういった形で事件を解決に導くことはできないかという思いから、ノートにいくつかの推理をまとめていた。

「へぇ、すごいじゃん。ちなみに、今はどんな推理なんですか、ライト刑事?」

 こちらを茶化すような口調でマイクを向ける素振りをするユリに、やめろよと 僕は苦笑しながらも事件についてまとめたノートに目を落とす。

「亡くなった生徒四人の内三人は、校内でもいじめとか恐喝とかで素行が悪かった生徒ばかりだ。同じグループだったらしいから、おそらくは薬……多分、麻薬の中毒症状なんかが原因じゃないのかな」

「え、麻薬? ウチみたいな高校に?」

「確かにここは進学校だけど、だからといって麻薬が校内で流通しないとは限らないよ。実際、どんな大学でもドラッグパーティーとかはあるわけだしね」

 勉強はできるが素行が悪いタイプというのはいくらでもいる。 そういう奴等は高貴なる義務など知らず、己の才能をただ自分の欲望のまま利用することしか考えていない。全くもって吐き気がする、消えた方がいい奴らはこの社会のどこにだっているんだ。

 そういうやつらが、どこからか仕入れたか、あるいは自分たちで育てたか作ったか、人体にひどい影響のあるものを流通させた可能性は十分にありえる。

 とはいえ、この推理はあくまで『四人が連続して心臓発作による不審死』という情報のみから考えたもので、実際に鑑識の薬物残留等の結果を確認してみない限りは正確なところは言えない。

 だからただの推察だけどねと笑ってみせた時、ユリは何か思い当たることがあったらしい。そういえばと虚空を見上げながら口を開いた。

「じゃあ、あの噂もまさか、薬の幻覚なのかな……」

「あの噂って?」

 僕が首を傾げながら尋ねてみると、ユリは自分の口からその言葉が出ていたことに気づいていなかったらしい。

 尋ねる僕に、ユリはどこか恥ずかしそうにしながら、これはあくまで噂なんだけどと小さな声で囁くように口にする。

「亡くなった子のクラスにね、死神が出たんだって」

「死神?」

「そう、真っ黒で翼の生えた死神が」

 ユリ自身、自分がどれほどまで空想的なことを言っているのかよく分かっているのだろう。私は全く信じていないんだけれど、と何回も言葉を重ねて、これはあくまで噂だと強調してくる。

 そんなユリの様子に、僕は本当にユリが死神を信じてるなんて考えてもないよと笑いながら答えてやる。

「たしかに、それは薬物の幻覚症状の一種かもね」

 薬物乱用による幻覚で言えば身体の中をウジが這いまわっているというのは聞いたことがあるが、死神を見るというのは聞いたことがない。

 死神を幻視する薬、という言葉の響きに、なぜだか胸が騒つく。

「ライト? どうかした?」

 しばらく考え込んで無言になっていた僕に、何か心当たりでもあるのかとユリは首をかしげる。

「うん? あぁ、別に、僕もまだ死神とかそういう、漫画みたいなフィクションが気になるんだなって」

「そりゃ、オトコノコっていつまで経っても好きでしょ、そういうの」

「はは、たしかに」

 だからライトだけじゃないよと笑うユリの言葉を適当に聞き流しながら、僕は自分の捜査ノートに一言『死神』という言葉を書き加える。これが連続不審死事件に関わっているとは、側から見ればとても思えない。が、しかしどうしても僕の頭から『死神』という単語が消えることはなかった。

「ねぇ、ライト……あのね、今日の放課後なんだけど」

 その時、先ほどのふざけた様子とは一変して、ユリが何かを躊躇うような様子で、僕のことを見つめていた。

 よく見覚えのある、と言ってしまえば多くの男子の不満を買うのだろうが、僕にとっては何度も飽きるほど見てきた感覚に、ユリもかと心の中でため息をつく。

「放課後? 受験終わった皆で遊びに行く?」

 わざと分からないふりをして『それは他の友人と一緒では困ることなのか』と探ってみれば、ユリはすぐに困ったように首を横に振った。

「ううん! 違う、そうじゃなくて、ちょっと二人きりになれたらな……って」

 ああ、やっぱりそうかと、ユリのあまりにも分かりやすい態度に、僕はこれで何度目の告白になるだろうかと、虚空を見上げた。おそらく受験にも合格して、あとは卒業を待つばかりとなって浮かれてきたんだろう。

 女子からの告白というのは、それこそ小学生の頃から何度も経験がある。初めのころこそ誠実に断って申し訳なささえ感じていたが、年を重ねて回数を増してくると、次第に申し訳なさよりも面倒だという気持ちが優ってくるのが実情だった。

 今まで友人の距離でいたが振られたからもう近くにはいないだの、お前があの子をフったせいだの、私のほうがずっと好きだっただの。どんなに理性的な子だと思っていた相手でも、恋愛感情が絡むだけで皆短絡的に、感情的な行動にばかりでる。

 けれど、だからと言って、そういった感情に対して不誠実に対応するのも出来ないと、僕はいつもの様子を装いつつ、なんと言ってユリの告白を断ろうか考え始めた。

「うん、大丈夫だよ。そしたら、今日は二人で帰ろうか」

 そう答えればあからさまに嬉しそうな様子になるユリを横目で見ながら、僕は色々と馬鹿らしくなって、そっとノートに書いた死神という文字を消した。


 

 



 

2006.3.16 21:19

 

「まさか、本当に死神なんて存在が居るなんて……」

 目の前にある黒い表紙のノート、通称デスノートと呼ばれるそれを手にした途端見えた存在に、僕は悲鳴とも感動ともつかない声をもらした。

 漆黒のその風貌は、一見すればヴィジュアル系かメタル系バンドのアーティストにも見える。しかし、大きく裂けた口元から覗く刃のような鋭い歯に、人間では到底ありえない骨格と、何よりもその背中に生えた翼が、この存在が人間ではない――死神と言う超常現象的な存在であることを示していた。

『月くん、死神が見える以外に、何か異変はありませんか』

「いや、今のところ死神が視認できる以外、なにもないよ、L」

 ヨツバという大企業の幹部の部屋にて、僕はそうパソコンの向こう側にいる世界の切り札、通称『L』に対して、自分の現状を報告した。

 

  デスノート。

 人類史上最も醜悪な殺人兵器の調査に僕が関わったのは、Lから日本警察に対して捜査の協力依頼が来たことからだった。

 ヨツバにとって都合のいい不審死、事故死が多発しているという話は、あくまで財界で噂されていた程度で、決して事件性があるものとして扱われてはいなかった。

 しかし、Lはこの不審死が意図的に起こされたものであり、間違いなく犯人のいる連続殺人事件であるということを日本警察に伝えた。

 その時、局長であり捜査本部を任された父さんが、Lに僕の話をしたらしい。

 今、Lが語った『ヨツバによって都合のいい死は、全てが仕組まれた連続殺人である』という内容及び根拠は、一ヶ月ほど前から息子に聞かされていた話と全く同じであると。

 自分よりも先にこれが事件であると気付いた僕に興味が沸いたのだと、僕に直接捜査協力を持ちかけてきたLは後にそう語った。 

「間違いない、このノートに書かれている名前と死因は、事件の被害者だと考えられていたものと全て一致する。それから、未来日に死が指定されている名前が五人分ある」

『では、その五名が死ねば確実な証拠です。月くん、ノート全ての写真を撮って送ってください』

「待てくれ、L! 火口が主犯なのは間違いないんだ。この五人は絶対にこの死因にならないよう 、警察で保護するべきだ」

 相変わらずLという探偵は頭脳だけはずば抜けて天才的と言えるが、しかし常識というものが、人命尊重や人権といった倫理的な部分が足りていなさすぎる。と、Lの要求を突っぱねた時だった。

 目の前に居た死神が、不気味な声色で、喉を鳴らしながら笑ったことに、僕は何が起こるのかと身構えた。

「残念だが、デスノートに名前を書かれた人間は必ず死ぬ。仮にその死因通りに死ぬのが難しい状況になれば、そいつはただの心臓麻痺として死ぬだけだ。絶対に死の運命だけは覆せない」

「お前、対話が出来るのか」

 低いながらもどこか軽快な、道化師のような、けれど死神という名前に相応しい声と言葉に、僕は思わず息を飲む。

 しかし、神と名の付く存在であるにも関わらず、死神はどこか人間らしい仕草で僕に手を振りながら答えた。

「俺は死神リューク、 そのノートの落し主だ」

「リューク……お前は、このノートを回収しにきたのか」

「いや、人間界にノートが落ちた時点でノートは拾った人間のものになる。何度か人間の手を渡ったが、今は火口がノートの所有者だ。俺がここに居るのは死神界の掟でな。ノートの行く末を見届けなくちゃいけない」

「なるほど、この残忍な連続殺人事件の元凶はお前ってことか」

「おいおい、俺はあくまでノートを落しただけだ。お前ら人間を殺したのは、同じ人間だ。俺はそりゃ過去には何千という人間を殺したが、このノートを落してからはまだ誰も殺しちゃいない」

 死神は一切悪びれることなくそう告げる。

 確かに、このノートに名前を書いて殺すと決めたのは、火口を初めこのノートを拾った人間の意思だ。

 しかし、このノートさえなければ、こんなにも安易に人を殺してしまう方法さえなければ、今までノートを手にしてきた人間の多くは人殺しなど考えることもなく生きてきた者が大半だろう。

 だからやはり、この死神がデスノートなどというものを人間界に持ち込みさえしなければ、悲劇は起こらなかった。しかし、死神相手にいくら力説しても始まらないと、僕はため息をつきながらノートの表紙の裏に書いてあるルールに目を落とした。

「……まあ、いい。それより、このノートはページを切り取って書いてもここに書いてある通りの効果があるのか」

「さぁてな、死神はそんな使い方しねぇし、今までノートを持ってたやつもそんな使い方はしてねぇ」

「そうか、なら切り取ったページがヨツバ以外に出回ってるとは考えなくてよさそうだ」

 意外にも僕の質問にすらすらと答えてくれる死神に、あっけなさにも似た、気味の悪さを覚えた。だが、いくらこうして問答を繰り返し、この死神から調書を作ったところで公的なものとして検察に引き渡すことはできないだろう。

『月くん、死神は随分協力的なようですが、他になんと語っていますか』

 死神の姿や言葉はノートを触った人間にしか認識されないため、Lから見れば僕は独り言を言っているようにしか見えないのだろう。怪訝そうな声でそう尋ねてくるLに、僕は思い出したように顔を上げて、ワタリが持っているパソコンのカメラにノートを見せた。

「あ、あぁ……すまない。ノートの使い方はここに書いてある通り。それから、このノートに名前を書かれた以上、その死を取り消すことは絶対にできないらしい。仮に隔離して事故を防いだところで、心臓麻痺で死ぬそうだ」

『そうですか……では、まだ死亡していない五人については尾行を行い、ノートの記載通りになるか確認を行いましょう』

 もう決して助からないと言うのであれば、せめて火口の容疑を確実なものにするための材料にしなくてはならない。そう、頭の中では理解できているものの、どうしたって感情が追いついてはくれない。死ぬとわかっているのに、しかもそれが殺人であることが確定しているのに、何もできない無力さからノートを握る手に、自然と力が入ってしまう。

「それにしても、随分早く捕まったと思ったが、ノートの切れ端かぁ……。お前、かなり頭がいいんだな」

 笑いながら僕の顔を覗き込んでくる死神に、思わずノートを握った右手がそのまま殴りかかりそうになった。しかし、こんな存在に人間の拳が効くとも思えず、必死に理性を呼び戻しながら僕は憎悪のまま死神を睨み返した。

「だからなんだって言うんだ」

「いや、なに。俺はこのノートを落した時、どんな面白いことが起こるのか楽しみにしていたんだが、人間ってやつはどいつもこいつも同じようなことしか考えない。カネ目当てか復讐か、だいたいその二択だったな。だが、お前みたいに頭の良い奴にデスノートが拾われていれば、もっと面白いものが見れたんだろうに、惜しかったぜ」

 実に残念だと笑ってみせる死神に、一体何が楽しいことなのかと、再び僕の中に怒りが湧いてくる。 だが、人間の尺度でこの死神に対して命の尊さを説いたところで無意味なのだということは嫌でも理解できた。

 だからこそ、せめてもの仕返しとして、何より僕自身のプライドとして、これだけは否定しておかなければと、僕は毅然とした態度で口を開いた。

「仮に僕がこのノートを拾ったところで、僕は絶対にノートを使ったりなんてしない」

「ほう、よく絶対なんて言えるな」

「確かにこのノートを上手く使えば、いくらでも金は稼げるし、世界の支配だって思いのままだろう。それこそ世界を恐怖で支配して、新世界の神にだってなれたかもしれない。だけど、父さんから譲り受けた正義感に従って、僕はこんな利己的な殺人なんて犯さない。だから、僕がこのノートを使うことなんて、絶対にあえりない」

 それだけは覚えておけと、僕は死神のオレンジ色に濁る瞳を見つめながら、力強く宣言する。

 しかし、死神は何がおかしいのか、ケタケタと笑った後、大きく裂けた口をさらに歪ませて不気味な笑顔を作り上げた。

「そうか、そいつは残念だ。だが、デスノートを使わなかった事、後悔しても知らねぇぞ」

 僕の話を聞いていなかったのか、と問いたくなるような死神の返事に、眉間の皺が深くなる。

 しかし、死神に再び反論する前に、死神は背中の大きな翼を羽ばたかせると、そのまま窓ガラスをすり抜けて外へ、そして空へと飛び立ってしまった。その姿を見つめながら、ふざけるなとため息を吐き出せば、パソコンからLの大丈夫ですかとこちらを気遣う声が聞こえた。

『死神に何か言われましたか』

「僕みたいな人間にノートが拾われていたら、もっと面白いものが見れただろうに、ってさ……まったくふざけた話だよ」

 けれど、あながちその話もありえなかったことではない。

 実は、このノートを一番最初に使ったのは、僕がかつて通っていた高校の生徒だった。同級生からのいじめに耐えかねていたその生徒は、偶然にもこのデスノートを拾い、自分をいじめていた生徒三人を殺害した。しかし、殺人という罪の重さに耐えかねたその生徒は自分の名前をノートに書いて死んだ。そこからノートはその生徒の兄弟へと渡り、そして様々なルートを経て、最後にはこのヨツバへと辿りついたらしい。

 まさか、僕が卒業間近の頃に調べていた事件が、こんな形でつながってくるとは思いもしなかった。最初の頃は死神が見えたという話も、薬物中毒による幻覚かと思っていたが、それが死神のノートとはいったい誰が想像できただろう。

 そしてゾッとすることに、一歩間違えれば、もしかしたら僕がこのノートを拾っていたかもしれない。否、もしも僕がノートを拾っていれば、こんな殺人兵器、早々にも安く手放すかしていただろうから、日本史上類を見ない大量殺人など起きなかっただろう。少なくとも、百人を越える死者など出なかったはずだ。

『なるほど、それはたしかに恐ろしい話ですね。もしも月くんがノートを使っていれば、こんなにもすぐに事件の解決には至らなかったでしょう』

「そもそも、僕はデスノートを手に入れたところで使わないから、事件にすらならないよ」

『そうでしょうか、絶対に言い切れますか?』

 まさかあのLにまで死神と同じようなことを言われるとは思わず、どういう意味なのかとパソコンのカメラを凝視する。一方、Lがどんな表情をしているのか分からないが、聞こえてくる機械的に処理された音声から察するに、とても真面目な様子でLは言葉を続けた。

『月くんの正義感は純粋すぎると言うか、時に極端で危うさを感じます。そんな貴方がデスノートを手に入れた時、そうですね……たとえば、法で裁くことのできない犯罪者を裁こうという考えに至る可能性もあります』

「それは……」

 ありえない、と一蹴するには自分の中に生まれた躊躇いと疑問が大きすぎた。

 確かに、Lが語る通り、僕はこの世界に「生きていても仕方がない犯罪者」が居るとは正直思っている。消えた方が、世の中のためになる人間。一切の罪悪感を持たず、真面目に生きる人間の邪魔をする、それどころかその幸せを邪魔するクズが、この世界には多い。

 そしてなによりも納得できないのが、そんな他者を不幸にするしかないような奴らが、司法の隙間を掻い潜って、この世で当然のように人生を謳歌していることだ。

 今回の火口についても、これだけ多くの人間を己の私利私欲のために殺してきているというのに、凶器が殺人ノートなどという非現実的な物であるせいで適切な裁きが出来るかと言えば否だろう。司法の場で、このノートを証拠品として提出することが可能かなど、到底難しい。

 そんな犯罪者たちを秘密裏に殺すことが出来るのであれば、果たして僕はその誘惑に勝てただろうか。 

「……それでも、犯罪者の裁きは法に則って行われるべきだ。それが法治国家というものだろう」

 自分の中に浮かび上がってきた疑惑へ蓋をするように、僕は教科書通りの言葉を口にする。自分の中に浮かび上がってきた恐ろしい考えをこれ以上直視したくなかった。

 Lはそんな僕の心の動揺を知ってか知らずか、そうですねとどこか安心したような声で僕の言葉に同意した。

『月くんが大人なようで良かったです』

「そりゃ、最近二十歳の誕生日も迎えたしね」

『私が言っているのは精神的な話ですが……月くんが以前話していたとおり貴方の高校の生徒が第一の所有者であったのならば、その生徒の変わりに貴方がノートを拾わなかったことを今は祝うとしましょう』

「はは……こんな仮の話をするのは癪だけど、僕がノートをLの言う通り使っていたとしても、最終的にはきっとLが僕を捕まえていたと思うよ」

『えぇ、そうでありたい……。ですが、もしかしたら月くんの方が私を殺していたかもしれません』

 まさか、あのLからそんな弱気な台詞を聞くとは思わず、僕は何か後に言葉が続くのだろうかと、しばらくLの言葉を待った。

 しかし、画面の向こうのLは茶化すでも、僕と同じくらいの負けず嫌いを披露するでもなく、ただこれは真剣に言っているのだという沈黙を続けた。

「……あはは、世界の切り札にそう言ってもらえるのは喜んでいいのか複雑だけど、Lは僕のことを買い被りすぎだよ」

『いいえ、これは決して過剰評価ではありません。貴方はそれほどまで頼りになる存在でした。私がこの事件で直接日本に赴かなくて済んだのは、私と同じレベルで推理が出来る夜神くんが居たおかげです。だからこそ……私は貴方が敵に回ったと考えた時、恐ろしいと思いました』

 そう語るLの口調には、どこにも冗談の色など見えなかった。いや、そもそも機械音の処理がほどこされているLの声色に強い感情など感じたことはなかったけれど。

 しかし、どちらにせよあのLに恐れられているのは、複雑な気持ちだった。

 こんなにも捜査協力してきたのに信頼がないのかという不服さもあったけれど、それよりもあのLに脅威に感じられているというのは、僕のプライドを心地よい程度にくすぐってくれた。

 無論、それを表に出すことはなく、僕は再びやっぱりLは買い被り過ぎだよと、苦笑と共に言葉を返す。

「とりあえず、Lなりの褒め言葉として受け取っておくよ」

 その時ふと、もしもこのLと戦うことがあったのならば、それはどれほど刺激的な生活だったのだろうかと、気の迷いと呼ぶには魅力的な考えが脳裏を過った。

 こうして捜査協力をしているだけでも、今までの退屈な人生からは想像できないほど僕の心臓は高鳴っている。これがLの存在する世界かと、今まで知らなかった己の世界はなんて無味乾燥で、つまらなく、不幸だったのだろうか。なんて、馬鹿みたいに嘆きたくなってしまうほど、僕は不謹慎ながらもLとの捜査に楽しさというものを覚えてしまっている。

 それがもしも、ゲームの対戦相手だったとしたら、僕は。

「本当、馬鹿らしいな」

 けれど、そんなもしもを考えてはならないと、理性が僕に訴えかける。

 だから、自分の中に湧き上がってしまった感情に蓋をして、誰にも聞こえないようそう呟いた。



 

2010.1.28 16:36


 

 当然のように警察庁に入庁した僕は、そのまますぐに父さんの下に着くことになった。

 通常、こういった公務員の世界では親族は離されるものだが、しかし僕の入庁前からの実績、デスノート事件を皮切りに捜査協力を行った難事件から不満が出てくることはなかった。コネだなんだの言っていた人間は一ヶ月の間に手のひらを返したし、三ヶ月もすれば誰もが僕によくここに着任してくれたと祝った。

 そうして気づけば一年も経たず、僕は父さんの側で重要な会議にも出席するようになり、ICPOの国際会議にも当然のように出席するように言われた。

 アメリカは、かつて家族旅行でハワイに行ったことがある程度だったなと、初めて訪れるアメリカ本土の風景に感慨を抱いていた時、視界に人影が過ぎる。

「夜神月ですね、ご同行願います」

 流暢な日本語が聞こえたかと思うと、有無を言わずガタイのいいスーツの男達に囲まれた。

 胸元の膨らみからして拳銃を所持しているのは明白で、けれどマフィアにしては荒々しさがない。この雰囲気は己の立場に似ている。警察、それも州警察ではなく連邦、FBIかCIAかと予測を立てていれば、相手の方から僕にFBIの身分証を見せてきた。

「……そうか、Lからの依頼だな」

 僕がそう呟けば、僅かだが男達が動揺した。とはいえその反応は依頼主がLであると再確認した程度で、僕の中では十中八九これはLの差金だと推理できていた。明日僕が出席するICPOの会議では連絡を取ることが出来なくて、けれどFBIの協力を仰ぐことが出来るものとなればLくらいしか思い浮かばない。

 そしてその目的も、僕にとっては喜ばしいものだった。

「それで、Lの居る場所に連れってくれるんだろう。いいよ、同行しよう」

 日本警察を通じていつでも僕と連絡が取れるLが、わざわざアメリカに来たタイミングでコンタクトを取ってくるとはつまり、実際に僕と会うつもりなんだろう。

 あのLと会うことが出来るという興奮と期待を隠しながら、そうFBIの男に言えば、男はでは失礼しますと僕に目隠しと耳栓がわりのヘッドフォンを付けた。そのまま車に乗せられて一時間ほど経った頃、ようやく車は止まり歩かされる。随分長く車に乗っていたが、だからと言って僕を載せた場所から遠いとは限らない。わざわざ目隠しをしているのだから、場所を特定されないよう回り道をしているだろう。とはいえ、足元のふかふかとした絨毯の感覚と、エレベーター特有の浮遊感、それからコロンとは異なるシックな香りから、どこかのホテルであろうことは推察できたが。

「目隠しを外していただいて結構です」

 ヘッドフォンが外されてすぐそう言われ、僕は期待に胸を高鳴らせながら目隠しに手を伸ばした。

 ついに、あのLと対面できる。僕が解決してきた日本の難事件の何倍もの事件を解決してきた、裏世界の支配者。世界の切り札。そんな異名を欲しいままにした、真の天才。まごう事なき名探偵が、この薄い布の向こうに居る。

 小さく息を呑み込みながら、ついに目隠しを外せば、そこはやはり高級ホテルの一室だった。

 そして、その部屋の中心で、ソファに座りながらチョコレートを齧っていた男が、真っ直ぐに僕の顔を見つめていた。

「初めまして、夜神月」

 

 後ろからついてきたFBIの一人が、小声で彼がLですと僕に耳打ちする。

 こんな彼以外それらしい人物が誰もいない状況で、他にどこにLが居るというのかと普通ならば思うだろう。だが、目の前の男はたしかに、Lの経歴から想像する姿とは随分違っていた。

 若い男だった。年齢は僕と同じくらいか、少し上かもしれないし、少し下かもしれない。その程度に年齢は分からないが、しかし僕がデスノート事件に係るずっと前からLとして活動していたというのだから、数歳は年上なのだろう。あるいは、十代中場から活動していたか。

 だが、年齢よりも何より、気難しそうな顔で甘いものを口にし、態度悪くソファに足を乗せながら腰掛ける姿は、側から見ればあの名探偵だとは誰も思わないだろう。

 とはいえ、僕自身はLのとんでもない発想を垣間見ている側の人間だったおかげで、むしろ彼を見た瞬間、これでこそLらしいと直感した。

「初めまして、と言ってもデスノート事件やいくつかの事件で話たことがあるから、そんなに初めましてっていう気はしないけど」

 僕はそう人好きのいい笑顔を見せながら、Lに向けて手を差し出す。

 しかし、Lは僕の姿を一瞥すると、それよりもと目の前の机に一冊のファイルを投げ捨てるように置いた。行き場のない片手だけを差し出した僕の姿が、Lの背後にあった姿鏡に映っており、こんな無様な姿は初めてだと咳をしながら向かい側のソファに腰を掛けた。

「夜神くん、今回貴方を呼んだのはとある事件の捜査協力のためです。極秘かつ短期決戦の捜査ですので、手荒な招待になってしまい申し訳ありませんでした」

「はは、別に気にしてないよ。それにしても、あのLが直接顔を合わせる必要があると判断するほどの難事件なんて、僕なんかが役に立てるかな」

 口にしたのはLに対しての謙遜が半分と、本当に思っているところが半分の言葉だった。

 しかし、Lは僕のその言葉を聞いた瞬間、どこか驚いたような、それでいて少しばかり不機嫌そうに目を細めながら再びチョコレートに齧り付いた。

「それが、日本文化の『建前』や『謙遜』というやつですか?」

「まさか、本気だよ」

「……この数年、日本がなんと言われているか、当然貴方はご存知でしょう」

 さて、なんのことだか。としらばっくれるのは、流石にLに対して敵対心を剥き出しにしすぎかと、僕は曖昧に困った微笑みだけを浮かべる。だが、それすら目の前の男は気に入らなかったらしい。再び、イライラしたようにチョコレートに歯を立てた。

「『日本は世界で唯一、Lが不要な国である』ミュージアム連続爆破事件、帝都バンク役員怪死事件、渋谷区アーティファクト事件。どれも私が解決して然るべき難事件でしたが、全て日本が独自で解決に導いていることから言われ始めた言葉です。そして、これらの事件の全てに捜査協力として携わったのが貴方です、夜神月」

 そう、Lが語った通り、日本の難事件を解決してきたのは、まごう事なき僕自身だ。

 表向きはあくまで夜神総一郎、父さんの活躍によるものということになっていが、その活躍の影に僕が居ることをLは既に調べていたらしい。さすがLには敵わないと、わざとらしく首をすくめた。

「もうそんなに調べ上げているのか。やっぱりLは流石だ。でも……僕の来歴をそこまで調べているなら、僕を試す必要ないんじゃないか?」

 試す。その言葉に、目の前に居たLの――否、Lのふりをした男の肩が小さく揺れた。

「なんのことですか」

 どうやら男は白を切る方向で進めるらしいが、まったくもって愚策だと言わざるを得ない。そこは自分をLだと信じ込ませるならば「あぁ、やっぱり引っ掛かりましたね」とわざとらしく笑ってブラフをかますべきだ。あるいは知らないふりで乗り切る算段があるのかもしれないが、こんな茶番に付き合っている暇はないと、僕は男から渡されたファイルを机に放り投げてから人差し指を立てた。

「一つ目、あのLがこの程度の簡単な事件で僕に捜査協力を依頼するはずがない。少し読んだだけで僕は被害者の共通点を三つは見つけられたし、何より僕がアメリカの知名度の低い数学者の死を知らないと思っている点で甘く見すぎだ。レンド教授とは大学時代に日本で顔を合わせたことがあるし、帰国後しばらくして死亡したとも聞いている。そうなると、この事件は既に解決済みで、いくつかの資料を抜いた状態で渡してきたんだろう。教授の来日歴まで調べてから僕に渡す事件を選ぶべきだったな」

「……それだけでは、私がLでないと言い切れないでしょう」

「無論、これだけじゃない。この事件が解決済みであると推理できるかというテストの可能性もあった。正解したら、後ろのFBIから本当に捜査協力してもらいたいファイルが渡される……とか。だが、この程度の事件がテストになる事件に、わざわざLがFBIに顔を晒して捜査する必要を感じない。デスノート事件の影響もあってLは名前と顔にはかなり過敏になっているだろうしね。となると、そもそも目の前に居るL自体が僕に対するテストだと分かった。これは解決済みの事件を見極めるテストじゃなくて、目の前のLが本物か否か見分けるテストだ」

 以上が、僕の考えた二つの理由。

 そして何より大事なのが、三つ目の直感だと、僕は腕組みをしながら柔らかなソファに背中を預けて、目の前の男を嘲笑った。

 

「お前の一番の失敗は、自分の感情を隠せないところだよ」

「…………」

 

 それはきっと、僕以外にも言われたことのある、目の前の男が自覚している己の欠点なのだろう。

 男は手の中のチョコレートを握りしめ、金髪の髪の毛に指を絡めながら、今にも僕を殺しそうな目をした。

 

「日本警察を通じていくらでも僕に捜査協力を依頼できるLが、わざわざ僕と顔を合わせる理由は一つ。僕と直接会ってみたいという好奇心だ。その好奇心のために、Lは今まで自分が頑なに守ってきた神秘のベールを脱ごうとしている。そんな好奇心を抱えている人間はね、念願の相手を目の前にしたら、もっと嬉しそうな顔をするものなんだよ。それなのに君ときたら、僕を目の前にしても終始どこかイラついてる。高校時代、僕のクラスにもいっぱい居たよ、お前みたいに追い詰められた顔をした受験生が。きっと、僕もテストを受けているように、お前もテストを受けているんだろう?」

 

 僕のテストは、目の前の男をLでないと見抜けるか。

 男のテストは、己こそがLであると僕を騙すことができるか。

 そして、想像どおりテストに合格したのは僕だけだったらしい。ダイニングテーブルの花瓶に隠されていたらしいスピーカーから、ぶつりと音が鳴る。

 

『残念ですが、失格ですね。メロ』

 

 機械音混じりの声にそう告げられた途端、目の前に居た男ーーメロと呼ばれた彼は、ひどく苛立たしそうにチョコレートを投げ捨て、大きくソファに仰け反り返った。

 

「ああ、クソッ! おい、夜神月。残念だがお前の勝ちだ。さっさと部屋から出て、右側のエレベーターを使って最上階に行け」

「分かった。じゃあね、メロ。また会うことがあれば、その時は仲良く捜査しよう」

 

 それから食べ物は大切にしないといけないよ。と、まるで弟にでも言い聞かせる兄のような素振りでメロが投げ捨てたチョコレートを拾ってやれば、メロは舌打ちをしながらも僕の差し出したチョコレートを受け取った。それほどチョコレートが好き、というよりは重要なテストでも手放せないほど依存した、摂食障害のようなものなのだろう。

 再びチョコレートに齧り付いているメロを尻目に、僕は指示された通りエレベーターに乗る。FBIも着いてきたが、僕が最上階で降りたところで、後から着いてはこなかった。

 正真正銘、ここから先は僕とLだけの対話になるのだろう。

 最上階のフロア全てを使用した一室の扉は、今まで見たことのないほど豪奢な作りをしていて、Lが待つに相応しいと期待を高める。

 そして、扉を押し開けて見えた、展望テラスのようなガラス張りのエントランスに、一人の姿があった。

 

「無事、会えましたね。夜神月」

 

 僕を見た瞬間、口角を上げてそう言葉を紡いだLは、こちらにと僕を窓ガラスの手前へと案内する。夕日に赤く染まった街並みの中、シンプルな服に身を包んだLは、高級なスイートルームには似合わないようでいて、けれどそれなりのブランドのスーツを着ているはずの僕よりも、ずっとこの部屋が似合っていた。

 それは高級品に囲まれてた場所だからというより、まるで世界を見下ろすような場所だから、という意味で。

 

「僕も、ようやく会えて嬉しいよ、L」

 

 僕から手を差し出せば、Lは何かを確かめるように僕の手を掴んだ。

 そして、しばらく僕を観察するように鋭く、どこか楽しげな視線で見回すと、くすりと小さな笑みを溢した。

 

「今回のテストは、夜神くんには簡単すぎましたか?」

「うーん、状況証拠より、一番の根拠がメロの態度だったからね。もしも別の、もっと僕の想像するLに雰囲気が近い人間が影武者だったら危なかったかも」

「つまり、80%はメロの態度のせいということですね。面白い、この後でメロに伝えておきます」

 

 いたずら好きな子供のような表情をしてみせたLは、部屋の中央に置いてあるディスプレイに視線を向けた。

 その画面には先ほどまで僕とメロが話をしていた部屋が映っており、どうやらここでLは僕らの会話を監視していたようだった。

 

「止めてくれよ、今度一緒に捜査する時は仲良くしようって言ってあるのに、コミュニケーションに支障が出る」

「大丈夫ですよ、メロはたしかに感情的になりやすい部分も多いですが、仕事はきっちりとやります。前にとある捜査物品の輸送の際、ロケットに物品を仕込んで追跡を逃れるという大胆な発想で窮地を脱したことがあります」

「なるほど、ロケットならば仮に衛星カメラがあっても追えないように出来る。中々にぶっ飛んだ方法だ。僕だってそうされたら追いきれない」

「彼もああ見えて、Lを継ぐ者の候補ですからね」

 

 なるほど、どうやらLという存在は世襲制らしい。

 優秀な人材が、Lとしての業績、地位、 財産を継承しながら捜査を続けていくというのはなるほど、理にかなっている。

 しかし継承というには、まだLも随分と若い。まだ今すぐに死ぬどうこうという話ではないように思うが、しかし後継者は早く作っておくに限るのだろう。デスノート事件のように、命に直結する難事件というのは多々ある。

 そこまで聞いて、僕はふと、もしかして候補とは彼だけではないのかもしれないと気付き、Lの顔を見つめた。

 

「僕も、候補者なのか?」

 

 どうしてLが、今日、わざわざ僕を此処に呼び出したのか。

 捜査協力であれば、僕の実力は既に知っているのだから、テストをする必要はない。実際に行われたのはLが本物であるか推理できるかと言うテストで、同じテストを受けていたメロはLの後継者候補。

 後継者に相応しいか見られていたのは、メロだけじゃなくて、僕も同じ。

 そんな期待のような、不安のような、驚愕を含ませてLに問いかえれば、男は再び、くすりと悪戯めいた笑みを零した。

 

「はい、そのとおりです。夜神月」

「……信じられないな」

「そうでしょうか。日本にはLが不要だと言われているのは、もう日本には既にLに等しい頭脳があるからこそ。夜神くんは日本のLと言っても過言ではありません。事実、デスノート事件を初め、夜神くんは私の想像以上の働きをする。貴方の才能を日本国内に留め、世界に向けて使わないのは人類の損失だと私は考えます」

 

 だからさぁ、と。

 Lは僕に向かって手を伸ばし、お前もこちら側に来ないかと、僕を手招く。

 

「夜神くん、私は貴方であれば、Lを継ぐことが出来ると思っています」

「L……」

「どうか、私の元に来てはくれませんか」

 

 沈む夕日の逆光で、Lの表情はよく伺うことが出来ない。

 けれど、影に隠れたそのシルエットは、真摯にこちらを真直ぐに見つめているように思えた。

 

「あぁ、L、僕でいいなら……。否、僕にしか、君の後は継げない。そのつもりで、君の手を取らせてくれ」

 

 誰にだって負けない自信があった。

 どんな難事件であろうとも、その全てを解決してみせる自身が、僕にはあった。

 日本警察には僕の尊敬する父さんが居る、何よりも愛する家族が居る。でも、そんな事すら頭に思い浮かばないほど、僕は高揚していた。

 この機会を逃すなんて、どうかしている。僕にはじめて『退屈』以外の世界を見せてくれたLの傍に居たい。それどころか、僕ならLにだって成れる。

 そんな確信めいた未来図を思い浮かべながら、僕は差し出されたLの手を取った。

 

「ありがとうございます、夜神くん。そして――――残念ながら失格です、夜神月」

 

 突如として下された自分への判定と、勝ち誇ったLの表情に、やられたと僕はLの、白髪の男の顔を凝視した。

 

「――ッ、まさか、お前も!」

「はい、私もLの後継者候補の一人、ニアです」

 

 ニアと名乗った男の言葉に、僕はしてやられたと思わず天井を仰いだ。

 二重で騙してくるとは思わなかった。否、あのLのテストなのだから、影武者が二人以上居ることも考慮に入れておくべきだったのか。しかし、ここまで来たら今日、本当にLが僕と直接会うつもりがあったのかも怪しいと、不貞腐れたようにニアの姿を見つめた。

 

「夜神月、貴方は勝利を確信した瞬間、油断する傾向があるようですね」

「……そのことについては今、一人で猛反省中だよ。まったく、本当にやられた……お前、僕が話したことのあるLと雰囲気がよく似てたから」

「そうですね、ワタリも私がLと一番近いと言っていました。……とはいえ、今回のはメロのおかげで貴方が油断していてくれた理由もありますから、私とメロ、二人で一勝といったところですが」

「だとしても、負けは負けだ…………。はぁ、それにしても、貴方もLの後継者候補にって……まったく、純情を弄ばれた気分だよ」

 

 まるで汚された乙女の気分、と言ってはセンチメンタルすぎるかもしれないが、僕の感情を正しく表現するにはまさにそれだった。本気で日本の警察から抜けることも、つい先ほどまで真剣に考えていたというのに。

 

「そんなに落ち込まれると、なんだか罪悪感を感じてきますね」

「嘘だろ」

「はい、嘘です。本当は今すぐ嘲笑ってやりたくて仕方ありません。あと、貴方がメロに推理してみせた『好奇心から会いたがっている人間はもっと楽しそうにする』という演技が完璧に出来たようなので、その満足感もあります」

「はぁ……大した役者だよ、お前は」

 

 こちらに対して期待するような、何かを待つような演技のプランを即興ですぐに身に纏えたとしたら、それはもはや役者ではないのか。どうやら感情のコントロールも、ニアはメロより各段に優れているらしい。

 

「というか、Lの顔を拝むのにここまで試されるって、分かってはいたけど相当な秘密主義者なんだな」

「そうですね。Lは私たちにも一切の素性を晒していません」

「じゃあ、お前やメロは、顔も見えない相手の継承者になろうとしているのか?」

「はい。世界の切札『L』という概念の圧倒的な存在、力。それに近づきたいと思うのも継ぎたいと思うのにも、Lの正体なんていりません。顔だって本名だって、このまま永遠に知らずLを引き継いでもいいと、私もメロも考えていますので」

 

 なるほど、二人がこのスタンスなのであれば、おそらくこのホテルの中にも本物のLは居ないのだろう。この映像を今どこ何処か別の場所、それこそ他国からモニター越しで観察しているのかもしれない。

 せっかく目隠しをされてこんなところまで来たというのに、酷いテストに突き合わされたと、僕は踵を返してニアに背中を向けた。

 

「テストが終わったならもう帰るよ。じゃあね、ニア」

「私にはメロのように『今度捜査する時は仲良く』とは言ってくれないんですか」

「言ってほしいのか?」

「いいえ、まったく。むしろ私の方が貴方に『今度捜査する時は仲良くしてください』と言う側ですね、夜神月」

「……言ってろよ」

 

 まったくもって、最後まで性格の悪い奴だと、ため息を吐き出しながらニアの顔をちらりと見る。

 相変わらず、逆光でシルエットしか見えていなかったが、僕にはニアの勝ち誇る表情がよく分かった。だが、さっきもこうして表情を読むのに失敗したのだから、あまり自分の想像を過信しすぎるのも良くないかと、珍しく弱気なことを考えてしまう。

 そんなことをグルグルと考えながら扉を開けた時、FBIの男達がゾロゾロとこちらに向かってアイマスクとヘッドフォンを持ってやってきた。

 

「元の場所までお送りしますので、こちらを」

「……別にいいよ。ここ、僕のホテルのすぐ近くだ。また、わざわざ一時間もゆっくり回り道されちゃたまらないからね」

 

 此処の場所はさっきニアの部屋で見た景色から分かっているし、一人でタクシーでも拾って帰るよ。と振り返ることなくエレベーターまで進めば、背後でどうするかと相談しあう声が聞こえた。

 そして、エレベーターがこの最上階に付く頃、確実にこのホテルから僕が出ていくところを見届けなければならないという結論になったのだろう。一番最初、僕に声をかけてきたFBIの男が、閉まるギリギリのエレベーターに滑り込んできた。

 

「せめて外まで、お見送りします」

「……それはどうも」

 

 FBIが背後に居るのも気にせず、僕はゆっくりと下っていくエレベーターから見える、夕焼けに染まった街を呆然と眺めていた。

 まったくもって今日は無駄足だった。結局、Lには会えないし、それどころか後継者達のテストに利用されただけだなんて、これ以上の屈辱があるだろうか。

 ああ、それよりも、こんなにも会ってみたいと思っていたのは僕だけだったのか。という落胆の気持ちの方が、どうにも強かった。

 メロに対して、本物のLならもっと楽しそうにしていると言ったのは、もしも僕が逆の立場だったらと考えて出した結論だった。

 もしも、僕がLを招待する側だったら、きっと楽しみで、柄にもなく興奮していたに違いない。だからきっと、Lだって同じ様に――。

 

「そうか……」

 

 その瞬間、僕はひとつの結論に辿りつき、窓ガラスに反射して映り込んでいたFBIの男に、視線を向けた。

 

「……僕、見た目の通り女の子にはよく好意を抱かれるんだけど」

「…………それは、自慢ですか?」

 

 自分に話しかけられたのだと、男は少し考えた後に、微動だにせずそう問いかけ返してきた。

 僕としては笑って聞いてほしかったのだが、とくにふざける様子もなく真剣な声色で『自慢か?』と聞いてくる彼が面白くて、つい笑いが吹き出る。

 

「好意を抱かれやすい、というのが即ち自慢っていうのはモテたことのない奴がよくする解釈だ。お前、もしかしてモテないの?」

「…………」

 

 ちらりと後ろを振り返りながらそう問いかけるが、男は僕が何を言いたいのか、まだ推理しきれていないようだった。好意を抱かれやすいというのはストーカーに発展したり友人同士の仲が気まずくなったりと、なかなかにいいものじゃない。が、僕が彼に言いたいのはそういう話ではないのだと、僕は再び窓の向こうに視線を戻す。

 

「だけど、僕は女の子だけじゃなくて、男にもよくモテるんだ。男は、女の子より露骨に性的な視線で見てくる、とっても分かりやすい。そう、君が僕を見てくるみたいに、興奮が滲み出た期待の眼差しとでも言うのかな」

 

 背後の男にFBIの手帳を見せられた時、手帳を見ながらチラリと覗き見たその顔は、仕事中だというのになんとも楽し気な色をしていて、ニヤニヤとしたその様子に仕事中まで男漁りかと呆れを覚えた。

 だが、今こうしてピースが全てそろって見ると、男の表情は違うものに見えた。

 

「もしもLの目的が、メロとニアのテストだけならLはここには居ない。でも、もしも少しでも僕に興味があったなら、きっと直接僕のことを見てみたいと思うはずだ。それも、最初から全部、出来る限りモニター越しではなく、近くで」

 

 傍から聞けば、僕の話は突然飛躍している。

 でも、後ろの男は、何も口出ししてくるわけでもなく、かといって興味がなく聞き流しているわけでもない。

 しっかりと、真剣に、吐息の一つでさえ逃さないように、僕だけを見つめていた。

 そう、彼には分かっているんだ。これから僕が、何を指摘するのか。

 

「お前は一番最初に僕に声をかけて、おそらく車の中ではその甘い香りのコロンからして、僕の右隣に座っていた。そして、メロと話していた時も、お前はずっと背後から僕を見ていた。メロが座っていたソファの後、不自然な位置に鏡が置いてあったのは、僕の表情を見るため。ニアとの会話は、そうだな……あの位置は玄関から真直ぐに見える場所だから、外側からのぞき込めるようドアスコープに仕掛けをしておいたのかもしれないし、あるいはそこだけカメラで我慢したのか。そして最後、車はいいと断った僕に、お前だけが見送りだと付いてきた」

 

 初めに戻って考えてみれば、僕に一番興味深そうな視線を向けてきたのは誰だったか。

 メロは違う、あいつの視線はテストへの苛立ちであり、直接僕には向いていない。

 ニアも違う、あいつの見せかけの期待は僕がメロに『Lならこうなる』と言った、好奇心からの微かな期待。

 だが、彼だけは、今もずっと僕だけを見つめてくるこの男だけは、僕が想像した以上の興奮と興味を携えて、僕を見つめている。

 だから。

 

「ねぇ、リュウザキ」

 

 彼が僕に見せたFBIの身分証明書に記載されていた、おそらく偽名であるその名前を呼びながら、僕は振り向き彼のネクタイに指を這わせた。

 

「お前が、Lなんだろう」

 

 瞬間、目の前の男は――Lは堪えきれなかったと笑顔を浮かべて、首を傾げながら口を開いた。

 

「ゲームは楽しかったですか、月くん」

 

 会えて嬉しいですでも、無事に気付けましたねでもない、ただただ楽しそうに紡がれた言葉こそ、まさにLと僕の本質を付いていた。

 

「お前に会いたいっていう、僕の純情を弄ぶような酷いゲームだったよ」

「でも、楽しかったでしょう?」

「……あぁ、Lらしい刺激的で、悪趣味で、限度を知らない、僕好みの楽しいゲームだった」

 

 だから、もっとゲームを続けたい。

 互いに飽きるまで、初めて出会えた拮抗した頭脳を持つお前と、退屈なんてもうこの世界にはないのだと実感するために、もっと、もっと、もっと長く、お前とゲームがしたい。

 と、互いの視線が絡み合う中、ポケットの中で震えた携帯に、もしかしてと僕は着信用ディスプレイを見て慌てて電話に出る。

 

『月! いったい何処に行っているんだ』

「あ、あぁ……父さん。ごめん、何も言わないで抜け出して」

 

 Lと会えるのだという期待と、万が一ここで何らかの事件に巻き込まれた際に父さんに気付かれるよう、わざと行き先を告げずに付いて行ったことを思い出す。

 さて、まさかLと直接会っていたなんて話すことは出来ないから、父さんになんと説明したものかと考えて、面白そうなことを思いつく。

 

「実は、大学時代の友達と再会したんだ。それで、少し話をしようってなって」

『ああ、そうだったのか。それは邪魔をしてすまなかったな。だが、今すぐホテルに戻って来られるか、月。長官から今回の国際会議のことで至急話がしたいと連絡が来ている』

「分かった。ホテルはすぐそこだから、あと二十分もあれば戻れるよ。じゃあね」

 

 そう言って通話を切れば、Lは流石ですねと僕の携帯を見ながら呟いた。

 

「そんなに瞬時に嘘を付けるなんて、やっぱり月くんは、嘘をつく天才ですね」

「まさか、嘘じゃないよ。実際、Lと会ったのは大学時代だし」

「でも、友達ではありませんよね」

「なんだ、Lでも知らないことがあるんだな。こんなに楽しくゲームをする仲のこと、普通は『友達』って言うんだよ」

 

 あの名探偵がまさか、友達の概念も知らないのかいと笑えば、Lはどこか虚をつかれたような顔のまま、僕のことを凝視し続けた。

 その時、エレベーターが目的の地上に着いたらしく、チャイムと共に扉が開かれた。どうやら僕らの邂逅はここまでらしいと名残惜しさを感じながらも、僕はLの脇を抜けてエレベーターの外に踏み出した。

 

「次に直接会うときは、僕の方が何かゲームを用意するよ」

 

 また明日、学校で会う友達へ向けるような表情で。

 僕らはエレベーターの扉が閉まるまで互いのことを見つめ合って、別れを告げた。





 

2011.5.2 18:03


 

「容疑者全員の身柄確保!」

 

 横浜の廃墟となったYB倉庫にて。

 突入した特殊部隊の声を聞きながら、ようやくこの事件もひと段落を迎えたと、薄暗い倉庫の天井を見上げ息を吐き出した。

 

『月、ついにやったか』

「ああ、やったよ、父さん」

 

 捜査本部から総指揮を取っていた父さんへ、無線を通じてそう伝えれば、向こう側でも事件の終結に歓喜の声が沸き上がっているのが聞こえた。

 今回の合成麻薬事件は、解決までに本当に長い時間を要した。なにしろヤクザも他国も大企業も絡んでおらず、犯罪組織の実在まで疑われていたほど、犯人グループは丹念に自分達の存在を秘匿していた。下手をすれば事件とすら認識されていなかったかもしれない。と言っても過言ではないほど、時に運に恵まれ、時に逆境に苛まれ振り出しに戻ることも多々あった。しかし、無事こうして犯人を確保できたのだから良かったと、現場側の刑事達にも安堵の表情が広がっていた。

 

「やったな、月くん。今回も大手柄だ」

「いえ、模木さんはじめ、皆さんのおかげです。本当にありがとうございました」

 

 そう言いながら頭を下げれば、いくら謙遜とは言えやめてくれと模木さんは笑いながら僕の肩を叩いた。

 

「後処理と本部とのやり取りは私にまかせて、月くんはとにかく休んでくれ」

 

 君が一番寝ていないだろうと目元の隈を指摘されれば、たしかにそうですねと緊張が解けて眠気が一気に襲ってきたような気がした。

 ここは素直に甘えようと模木さんに無線を渡せば、久々に解放されたような清々しさを覚えた。

 とはいえ、容疑者の身柄を確保してからも刑事というのは仕事が続くもので、まだまだ気を抜くことは出来ない。調書の作成に検察への身柄送検と、まだ暫くは仕事漬けの日々が続くだろう。だが、最近京都地検から東京地検へ異動してきた魅上検事はとても優秀で、仕事が早い。偶然、通っているスポーツジムが同じだと気づいてからは、ここ最近はプライベートでも食事をする仲だ。その際、魅上検事もこの事件を気にかけていると話していたから、きっと送検のやり取りはスムーズだろう。ああ、そうだ、美味しい創作和食の店があるから今度行こうと誘われていたから、祝いも兼ねて行くのもいいかもしれない。

 そんなことを寝不足の頭でつらつらと考えていた時、ポケットの中のプライベート用電話が振動した。

 ちらりと着信画面を見てみれば、そこに映し出されているのは『非通知』の文字で、このタイミングでいったい何者かと電話に出る。

 

「はい、夜神です」

 

 まさか、まだ隠れている犯人が居るのかと再び緊張感を取り戻し、周囲を見回した。

 だが、聞こえてきた声に、今度は別の意味で緊張を覚えることになってしまった。

 

『事件解決、お疲れ様でした。月くん』

「……! その声、Lなのか」

『はい、一年ぶりくらいですかね。お久しぶりです』

 

 忘れもしない。携帯から聞こえてきたのは、あの日、ホテルのエレベーターにて話した、本物のLの声だった。

 一年ぶり、という言葉の通り、あの日以来、僕はLと話をしていない。

 あの日、ホテルに戻ってから父さんにすぐに捜査本部立ち上げのため日本に戻るように告げられ、次の日にはもう日本行きの飛行機に乗ることになった。そうして、日本に戻ってからすぐに事件の捜査が始まってしまった。

 だから、ようやく聞けたLの声に、興奮のあまり携帯を落さないようにと、震える手をもう片方の手で抑えながら、せめて声だけは余裕を見せようと一息ついてから口を開いた。

 

「なんだ、番号知ってるならもっと早くに連絡してくれればよかったのに」

『すみません、私もいくつかの事件を立て続けに受けていたので。ですが、日本の事件については後回しにして正解でしたね』

 

 無事、この事件は月くんが解決してくれましたからと、どこかふざけるような声で告げられた言葉に、僕もわざとらしくため息を吐き出す。

 

「後回しって、今回の事件知ってたのか?」

『はい、捜査本部が立ち上がった時点で知っていました。ですがフランスでシリアルキラーの事件もありましたので。日本は私が不要な国だと散々聞いているので、優先順位は一番下にさせてもらいました』

「なんだよそれ、拗ねてるみたいに言うなよ」

『実際、拗ねています。月くんが、この事件で一度も私を頼ろうとはしてくれませんでしたので』

 

 おそらく、本当に唇を突き出しながら拗ねているんだろうなと言う声色で、Lはそう不機嫌そうに語る。

 たしかに、この事件を捜査している時、僕は一度だってLに助けてほしいと思ったことはない。というより、ここ最近はどんな事件だって、日本警察だけで解決するように流れを作っている。それが本来の警察の在り方だと思っているし、外部の圧倒的な力に頼りすぎるのもよい傾向とは言えない。

 だから日本は相変わらず『Lが不要な国』と言われているのだが、負けず嫌いな彼はそれが不満らしくて、面白いと感じた。

 

「あははは、それはすまなかったって謝ればいいのかな」

『前々から思ってましたが、月くん、私に対して喧嘩売るのが好きですね?』

「まさか、考えすぎだよ」

 

 嘘だ。

 本当は、こうしてあのLを挑発出来るのがとても楽しい。

 世界の切札に対して、こんなに好戦的に接することが出来るのは自分だけだという、特別な満足感が得られる。

 そして、Lも僕が嘘をついているのはお見通しだったんだろう。相変わらず嘘つきですねと、僕を笑う声が聞こえた。

 

「それで、今回はなんの理由で電話してきたんだ」

『友達には、何か理由がなければ電話をかけてはいけないんですか?』

 

 Lの声で告げられた『友達』という言葉に、そういえば前は最後にそんな話をしたなと、あの日のことを思い出す。

 

「意外だ。あの時は僕のこと、何言ってるんだって顔で見てきて、無言だったのに」

『友達だと言われたのは初めてだったので、つい混乱してしまいました』

「なんだよそれ。それじゃあ、僕がLにとって初めての友達?」

『そういうことになりますね』

 

 あの日見たLの姿からして、既に成人を迎えて久い年齢に思えたが、でもこれほどまでに秘密主義を貫ける人間だ。本当に、本人が語るように僕が初めての友達だったとすれば、これほど面白いことはない。

 

「それは光栄だな。でも、あの秘密主義者のLだ。お前なら、たとえ友達相手でも何か用事がないと電話なんてしてこないだろ」

『はい、実は今、日本に居るんです』

「日本に……? 何かの調査か」

 

 まさか、僕が把握していない犯罪組織を追って日本に捜査に来ているのだろうか。だとすれば、今すぐにでも日本警察に捜査協力を仰いでもらって、僕も捜査に協力したい。と、頭の中で今回の事件の後処理とどう平行していくかを考えていた時、Lがくすりと小さく息をこぼして笑った。

 

『いえ、違います。今回はプライベートで来日しているんです』

「プライベート?」

『はい。……貴方と、以前約束したとおり。今度直接会う時、月くんが用意したゲームをしようと』

 

 だから、ずっと貴方の事件が解決するのを待っていましたと語るLに、本当に彼は僕のことを友達だと思ってくれているのかもしれないと、何故か涙が溢れそうになってしまった。

 容疑者を確保してすぐに電話をかけてきたあたり、我慢がならないというか用意周到というべきか。そんな、友達と遊ぶのに限度を知らないのは実にLらしいと笑いながら、僕は最高だと吐息と共に言葉を紡いだ。

 

「あぁ、もちろん、今すぐでもかまわない。お前に会いたい」

『なんだか、熱烈な言葉に聞こえますね。ところで、徹夜明けかと思いますが、今すぐゲームを用意できるんですか?』

「眠気も疲労も、Lから電話があった時点でとっくに吹っ飛んでるよ。それに、ゲームもたいした用意はいらない。ホテルに備え付けの紙とペンがあれば十分だ」

『そうですか。ちなみに、どんなゲームかお伺いしても?』

 

 先に話してゲーム性が損なわれるようでしたら結構ですが、ともうゲームの内容に探りをいれてきたLに、もう勝負は始まっているのだと期待が高まる。

 あのL相手に油断は大敵だと分かってはいるが、しかしLが本気で準備してきたのを負かしてやりたいという欲望に負け、僕は楽しさを滲ませた声で告げる。

 

「デスノート事件、覚えてるだろう」

『私はどんな事件であろうと全て覚えていますが、そうですね。あの事件は特に印象的なものでした。超自然的な存在を認めたのはあれが初めてです』

「そこは、僕と出会ったから印象的、とは言ってくれないんだな」

『月くんとはデスノート事件で出会わなくとも、また別の事件で会うことになっていたでしょうから』

「ふふ、それもそうだな。それで、あの時言っただろう。もしも僕がデスノートを手に入れていたら、もっとデスノート事件は難事件化していたって。だからね、L……僕がもしも、デスノートを拾っていたらどうなっていたか、そういう設定のゲームをしよう」

 

 ずっと考えていた、ゲームの内容を告げた瞬間、電話の向こうでLが息を飲む音が聞こえた。

 

『それは……人生をかけてもいいと思えるほど、面白そうなゲームですね』

 

 期待に震えたLの声に、やっぱり食いついてくれたと口角が吊り上がる。

 当然だ。だってこのゲームは、僕がかつて少し考えただけで全身に期待が走った、僕とLの直接対決なのだから。

 僕がこんなにも楽しみなのだから、Lが楽しみにならないわけがないという、過信というには確信を持った考え。

 けれどそれは自意識過剰の自惚れではなく、想像通りLは僕のゲームに乗ってきた。

 

「前のゲームで勝った時はLの姿が見れたから、今回のゲームに勝った時にはLの本名を教えてもらおうかな」

『デスノート事件なら、私の名前を知ることが月くんの勝利条件ですからね、いいでしょう。本当に貴方が私に勝つことがあれば、私の本名をお教えします。では私が勝った際は、しばらく裁量殺人鬼の月くんを拘束して、本気で尋問でもさせてもらいましょう』

「Lの本気の尋問って、拷問とかじゃないのか? そんなことまでして、僕に何を自白させるつもりなんだ」

『貴方が隠して生きてきたこと全て、ですかね』

 

 貴方は私と同じで嘘つきですから、どんな仮面を被って今までの人生を生きてきたのか全て暴いてやります。と、笑うLの声につられて、たしかにそうだと僕も笑う。Lの本名を教えてもらうのと、Lの『本気の尋問』とやらでは勝利報酬に差がありすぎるような気もするが、けれど僕は決して負けるつもりはないから問題ない。

 

「いいよ、分かった。お前が勝ったら、どんな尋問でも受けてやる」

『では、今の言葉を後悔するくらいに、私が勝って酷い尋問をさせてもらいます』

 

 楽しみにしていてくださいと早くも勝利宣言をするLの声に、思わず恐怖に息を飲む。

 それと同時に、絶対にこの男に負けてなどやるものかという対抗心と、必ず僕が勝ってみせるという高慢にも似た自信が沸き上がった。

 

『では迎えを送り……いえ、往復の時間さえもどかしいですね。今私は帝都ホテルの――――』

 

 最高のゲームを始める、その場所が告げられようとした、その時だった。

 廃墟の倉庫に響き渡る、乾いた銃声。それと同時に右手に襲い掛かる激痛に、己の喉から鋭い悲鳴が零れた。

 

「ッ、ああ゛ぁ――――!」

『――――ッ、月くん!』

 

 いったい何が起きたのか、瞬時に判断するにはあまりにも腕が痛みを訴え、状況を正確に判断できない。

 しかし、続けて聞こえた発砲音と、身体が粉々になるような衝撃に、許容量を越えた脳は突然他人事のように自分の状況を認識しはじめた。

 

「おい――やってる! 早く――さえろ!」

 

 絶叫のように叫ぶ模木さんの、途切れて聞こえた声に視線を向ければ、そこには何人もの機動隊に取り押さえられた犯人グループの一人が居て、その近くには僕の身体を貫いたであろう弾丸を打った銃が転がっていた。

 ここで捜査員の誰かを殺したところで助かるわけもなく、それどころか自分の罪が重くなるだけだというのに、そんな正常な判断もできないほど薬で脳細胞が壊されていたのか、犯人の男は奇声を上げている。

 すぐに誰かが僕の周りに駆けつけたが、スーツに滴る血の量からして、どんな応急手当も無駄であることは、瀕死の頭でもすぐに理解できた。

 

「あ、あぁ――――あ゛、あああ゛あ゛ッ!」

 

 駄目だ、血が、足りない。

 全身が、人間の形を保っているとは思えないほど、痛くて、苦しくて、冷たい。

 

『――とくん、聞こえ、ま――――月くんッ! らい――ッ!』

 

 駆け寄る捜査員の隙間に見える、落してしまった携帯から、Lの声が聞こえる。

 その、あまりにも必死な様子に、一瞬だけLらしくないと笑いたい気持ちになった。

 けれど、もう二度と、Lと約束したゲームをすることが出来ないのだと、彼に会うことなく己という存在は終わってしまうのだと悟り、失意が僕の目元を濡らした。

 ああ、僕はここで、死ぬのか。こんなところで、こんな無様な形で。

 何も語り合わぬまま、この知性を競わないまま、お前との約束を果たさないまま、僕は――。

 

「ちくしょう…………」

 

 最期に狂おしいほどの後悔を口にして、僕の意識は無へと落ちていった。



 

2011.5.2 18:23

夜神月 失血死

横浜のYB倉庫にて、電話中に中毒症状による幻覚を見た犯人によって銃撃される。

手の甲に一発の弾丸を受けた後、肩、脇腹、肺に続けて弾丸を打ち込まれる。

捜査員による応急手当を受けるものの、後悔の言葉を残したまま死に至る。






 

 黒の死神は、その男の姿をずっと眺めていた。

 退屈で飽き性の死神にとっては珍しく、その男が死ぬまでの数年間。男の寿命が尽きるまで、死神はただ、どんな末路を迎えるのか、ずっと観察していた。

 

「おぉ、リューク。お前が見てた人間、ついに死んだか」

 

 リュークと呼ばれた死神の背後から、また別の死神が揶揄うように人間界をのぞき込み、その男の死に様に視線を向けた。全身を何か所も打ちぬかれたその死体は、とてもではないが安らかな眠りとは言えない。

 苦痛のまま、後悔と無念を心に溢れさせながら死んでいった男を見つめながら、リュークは残念そうに口を開いた。

 

「あーあ、だから言ったのになぁ。デスノートを使っていれば、もしかしたら寿命伸びてたかもしれねぇのに」

 

 リュークが初めて男と出会った時、リュークの目には男の名前とその寿命――残り数年しかない寿命が、たしかに見えていた。

 すぐにデスノートの活用方法を思いつく、優秀な頭脳を持った人間だというのに、その内にすぐ死んでしまうのかと思うと惜しい思いがして、ならばデスノートを使えば寿命が少しは伸びて面白いことになると思っていたのに。

 だが男は死神の誘いを断り、こんなものは人間の世界に存在してはならないと、デスノートを燃やしてしまった。

 

「初めからこいつに拾わせておけばなぁ……そうしたら、もう少し長生きして、面白いものが見れただろうになぁ」

 

 それかあるいは、こんな無様な死に方はしかっただろうにと、リュークは面白い退屈凌ぎになるはずだった男の死体に再び視線を落した。

 だが、その時、リュークの言葉を否定するように、他の死神が大声を上げて笑った。

 

「リューク、そんなこと言って、お前のことだから途中で飽きてその人間殺してたんじゃねぇの?」

「あぁ? まぁ、そうだなぁ。俺に縋ったりするようになれば飽きて殺してただろうな」

 

 あのプライドの高そうな男が死神に縋って命乞いをするなど、まったくもって想像など出来ないけれど、きっとその最期はとても見ごたえのある姿だったに違いない。

 あるいは、もう少し幸せな、愛しい人々に看取られるような穏やかで安らかな最期だったかもしれないが。

 とはいえ、そんな『ありえなかった結末』など、あくまで想像しか出来ないと、リュークはそれ以上もしものことを考えるのを止めた。

 リュークは死に絶えた男から視線を外し、再びやってきた退屈に、大きく欠伸をした。

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