「虚空に触れる」
いつまでたっても進展がないキラ捜査の最中で、私が不意に起こした行動に一番最初に反応したのは、まさに私がキラだと確信していたはずの彼だった。
「竜崎……何してるんだ」
実に不機嫌そうな様子を隠さない彼の声だったが、それは怒りと言うよりも一種の諦めを含んでいるものだ。
大学で彼と学友として過ごして居た頃は、もう少し夜神月と言う人間は己の感情を隠していたように思う。どのような相手でも丁寧に接する、まさに優等生の見本のような人間だった。だが、こうして手錠で繋がれた生活が長くなってきた最近は、だんだんと本心のようなものさらけ出すようになってきた。
私が夜神月を一切気にせず己のライフスタイルを貫いているため、そっちがその気ならばと優等生を気取らなくなったせいか。あるいは、互いに嘘だとわかりきっていると思っていた『友達』なんてものだと、本気でこちらを認識しているからこそ見せる気軽さなのか。
しかし私にとって夜神月と言う人間はキラ容疑者であることには変わりないため、夜神月の不機嫌さをなだめてやろうと言う気は起きず、いつものように感情の薄い声色ではてと問い返す。
「何、とは」
一方、彼には私がとぼけているように思えたのだろう。
夜神月は呆れた様子でこれのことだと、私の腕をつかみあげながら声を荒げる。
「だから……なんで僕の胸を執拗に触ってるのかって話だよ」
端から聞けば私が未成年の彼に対して、何か性的ないたずらをしているのではないかと疑われてしまう言葉だが、幸いなことに今この捜査本部には私と夜神以外の人間はいない。皆それぞれ捜査のためビルを出ており、今この建物に居るのは私と夜神月、それから別室でワタリがこのモニタールームを監視している。
だからこそ私は不審な目で見てくる他人がいないからと、夜神月の言う通り彼の胸元を何度も触っては、その感覚を確かめていた。
当然夜神のまったいらな胸を触ったところで、女性のような柔らかな膨らみは無い。だが私の目的は性的な接触ではないため特に問題ないのだが、夜神月は一体何が楽しいんだといった様子で私を睨んだ。
「女性相手だと、痴漢だのなんだのって問題になるレベルだぞ」
ため息交じりの夜神月の声が、私たちしかいないモニタールームに響いた。
女性相手。と、性別を限定しているところを鑑みるに、夜神月は己が私の性的な欲望の的になるとは考えていないらしい。それは私が事実彼に対して性的な欲求を抱いていない事がわかっていると言うよりは、そもそも男性が男性を性的に見ると言う認識が夜神月の中にはないのだろう。あまり日本では同性愛という概念が普及していないらしく、それはこの頭の良い子供も同じらしい。
否、あるいは夜神月の事だ。今まで他人から不躾な眼差しを受けるという、弱者の立場であった事がなくて、自分自身がという発想がないのかもしれない。夜神月は肉体的にも精神的にも家庭環境的にも、ありとあらゆるものに恵まれた生育環境だった。その上この誰にも引けを取らぬ頭脳と容姿だ。常に強者としての立場で育ってきた故の危機感のなさとでも言うべきだろうか。
そんな高慢さを突き崩してやりたくなるような、加虐嗜好を煽られないこともなくはない。だが、このまま無意味な殴り合いに発展するのも今は気分ではないと、私は特に喧嘩を売らないようにと、年長者として夜神月を諭すことにする。
「たとえ男相手であろうとも、他人の身体に不用意に触れる人間は不審者扱いしてもいいかと思いますが」
「自覚があるなら止めたらどうなんだよ」
「私は月くんに不審者だと思われても特に問題はありませんので」
「……いい加減に怒るぞ」
どうやら本格的に不機嫌から怒りへと感情が変わってきているらしい夜神月に、少しばかり扱いを間違えたかと首をかしげる。
とは言えこの表情は、不躾に胸元を探られている不快感というよりも、私がキラ事件の捜査を怠っているように見える事に対する部分が大きいのだろう。だから、これはただの私の気まぐれな遊びではないのだと説明するため、私は指先で弄んでいた角砂糖から手を離した。
「そう言わないでください。これはそうですね、ただ探しているだけですから」
「僕の胸元を探って何が出てくるって言うんだよ……別にお前の好物の甘いものを隠してたりなんてしないよ」
マジシャンでもあるわけなく、そもそもそんな無意味なことなんてしない。そんなに甘いものが食べたいのであれば、お前が積み木遊びに使っていた紅茶用の角砂糖でも食べていろ。と、無言の内で語る目の前の子供は、相変わらずこの行為を私の遊び心だと考えているらしい。
確かにここ最近キラ事件へのやる気が起きないのは間違いないが、これはそうではない。お前は自分がどういった立場なのか忘れていると教えてやるため、私は彼を苛立たせると知りながらもその言葉を口にする。
「月くんが服の中に何かを隠しているなんて考えていません。私が探しているのは、そうですね、月くんの中身とでも言うべきでしょうか」
中身。それは彼の肉体を構成している血肉や細胞と言うわけではなく、言わば心についてという意味だ。
大きく説明を省いた言葉ではあったが、聡い彼は私のその一言だけで、私が夜神月の中にあったであろうキラの人格について探っていることを理解したらしい。
先程の怒りとは違う、明確な不服だという眼差しに、一瞬だけキラの気配を感じて歓喜を覚えるが、すぐにその気配は霞のように消え去ってしまった。
「……僕がキラだったって、まだ疑ってるのか?」
そう低い声でこちらに問いかけてくる夜神月は、本当に己がキラであると疑われていることを嫌悪しているらしい。
数ヶ月前、私に『自分がキラかもしれないから調べてほしい』と言ってきた、自分自身にキラ疑惑を抱いていた人間とはとても思えない。そういった点からも見て、やはり監禁前の夜神月と、今私の目の前にいる夜神月は別人のように思えた。
こうして彼は今、私の『お前がキラだ』と言う発言について、優等生らしくない鋭い眼光で睨んでくる。
その視線が、並の人間であれば恐怖を抱くであろう雰囲気を携えていることは、社交性に長け、己が他者からどう見られているかを敏感に察知できる彼なら分かっているだろう。
そんな印象を相手に抱かせてもいいと思うほど、夜神月は己がキラだと言われることに怒りを抱いている。
全く以て、私から見てみれば馬鹿らしく思えてしまう。
無論、私がそれに怯むことなどあるわけがない。故に、私は彼がさらに激昂するであろうことを予期していながら、平然と彼を煽るような言葉を紡ぐ。
「疑っているだなんてとんでもない。私は、月くんがキラだったと確信していますので」
「竜崎!」
彼の手が、私の服の首元をつかみ、血が滲むような強い力で握りしめる。
ギチギチと、私の腕が悲鳴を上げた。
いくら中性的で優男の顔をしているとはいえ、私と互角のテニス対決をしてみせた彼の握力は、一般的な成人男性のそれを上回る。
つまり何が言いたいかと言えば、なかなかに痛いということだ。これは彼にも同じ痛みを与えてやらなければ私の気が収まらない。一回は一回、だ。
だが、再びこのまま殴り合いの喧嘩になるだろうかと言う私の想像とは異なり、夜神月は何かに気づいたように顔を上げると、苦々しい表情のまま私から手を離した。
私とのしばらくの生活の間で、この喧嘩は不毛な行為であると学んだのだろう。どれほど拳で己の意思を伝えたところで、私の『夜神月がキラであった』と言う推理が変わるわけではない。ならば今行っているこの言い争いは無意味だと、彼は早々に諦めをつけたらしい。
私の存在などなかったかのように再びパソコンに向かった彼を見ながら、私は再びキラが遠のいたような気がして、取り戻そうともがくかのように夜神月に声をかけた。
「月くんは自分がキラであったと言われるのが嫌なようですが、私は今のあなた自身がキラであるとは考えていません。キラだったが、何かしらの理由でキラとしての能力と記憶を失った。貴方がこうして本気で怒っている様子も含めて、私はそう考えています」
私の言葉に、最初夜神月は無視を決め込もうとしたらしい。こちらを見ずに、しばらくの間ディスプレイに並ぶ文字列をずっと眺めていた。だが、沈黙に耐えきれなくなったのか、それとも私の推理が気に食わないのか、一分も経たずして夜神月の口から反論が述べられる。
「馬鹿らしい。そんな都合よく、キラであった記憶を失くせるなんて。僕をキラにしたいがために無理矢理考えたようにしか思えない」
「直接手を下さずとも、顔と名前、あるいは顔だけで殺せるという都合のいい殺し方があるんです。考えられない話ではありません」
無論、キラの殺人方法がわからぬ今、このような仮定の話などいくらでも推論ができてしまう。特に記憶を失ったと言う点については、あくまで夜神月がキラであったと言う部分のみを根拠にしたものだ。いくら人知を超えた殺し方ができるとは言え、この推理は今のところ捜査本部の全メンバーに話すつもりは全くない。
だが、この子供には、夜神月にはその可能性を重々理解しておいて欲しい。己がキラであったかもしれないと、監禁当初、自分から申し出ていた話を今の彼も考えていてくれたならば、現在現れているキラを追う方向ではなく、夜神月からキラとは一体何なのかを探ることができる。
だが、隣にいる彼の表情を伺う限り、夜神月は私の推理に対して全くもって納得がいっていないようだった。
「そんなことを言い出したら、全人類がキラ容疑者だな」
相変わらず、彼は私の痛いところを突くと、ここ最近私を苛んでいる憂鬱感を思い出して、心の中でため息をこぼす。
「本当にその可能性があるので、こうして私は落ち込んでいるわけです……。だからせめてもの足掻きとして、確実にキラであった月くんの中に、何かキラの片鱗が残っていないか探しているのですが」
そう言いながら、私は自分の椅子を夜神月に近づけると、再び彼の胸と手を当てた。
女性のように柔らかくもなく、かといってスポーツは中学生の頃にやめたと言うからそこまで筋肉質と言うわけでもない、人間の柔らかさを持った彼の胸元。
トクトクと、彼自身のように正確なリズムを刻む心臓の鼓動を感じながら、私はこれがキラの命かとその温度を噛み締める。
多くの人間の鼓動を心臓麻痺という方法で止めてきたと言うのに、こうしてキラの心臓は今も動いているのだ。
そのように私が考えていることも夜神月は想像できているだろうが、もう先ほどのように激昂すると言う事はなく、相変わらず呆れた声でため息をこぼされた。
「だからって、僕の胸を触るなよ。……それに、本当にキラの片鱗なんてものが残っているなら『こっち』を探るべきなんじゃないのか?」
夜神月がそう言って指を差したのは、柔らかながらもさらりとした髪質を持った頭。正しく言えばその皮膚と頭蓋骨の内側にある、彼ご自慢の灰色の脳細胞だった。
夜神月の言いたいことはわかる。
私が今触れている胸元に、心臓などと言うものに思考は宿らない。
私たち人間と言う生物は皆、脳の神経細胞、ニューロンの繋がりによって思考を行い、この肉体全身に命令を送っている。すべての感情は脳内伝達物質がもたらす反応であり、悲しみや喜びといった大きな感情を体験した時、胸元にざわつくような痛みを覚えるのはあくまで一時的な心筋機能の衰えによる痛覚でしかない。心臓に感情を司る臓器があると考えられたのは遠い過去の話だ。
だから、本当に夜神月がキラであるか調べるとすれば、私がアプローチするべきは彼の脳そのものなのだろう。
無論その程度私は理解しているが、それにしても夜神月の方からその提案をするとはずいぶん怖いもの知らずだ。
私に『頭を調べてみろ』などと提案したことを後悔させてやりたくて、私は意地の悪い微笑みを浮かべながら首をかしげる。
「月くんの脳を検査してもいいと? もしも月くんに協力いただけるならいくつか試したい薬があります。まだ日本で認可が下りていない自白剤なんですが、アメリカで捜査を行った時はとても役に立ちました。とはいえ、あちらでも人権的に問題がある上、いくつかの不可逆的な障害が犯人に残ってしまったので隠蔽になかなか苦労しましたが」
自分が世界の切り札『L』対してどのような提案をしてしまったのか、夜神月もようやく理解ができたのだろう。私がその、いくつかの日本ではまだ使用の許可が降りていない薬品の名前を並べようとしたところで、冗談じゃないと首を振った。
「そういうのは、絶対に、やらないからな!」
「そうですか、それは残念です。廃人にするつもりは全くないのですが、多少の後遺症くらい残ってもいいと考えが変わりましたらぜひ声をかけてください。いつでもそういった薬物の用意はありますので」
私が並べ立てた言葉は、決して脅しの意味だけではない。実際にこのビルには、捜査本部のメンバーには秘密にしているが、そういった非合法な捜査ができる準備が整っている。
弥海砂を第二のキラ容疑者として拘束した時にも、軽いものではあったがいくつかの薬品を使用した。しかし、軽いものといっても私はあの時絶対に弥海砂の口を割らせると意気込んでいたため、ママゴトのような生易しいものではなかった。
ただそれより、弥海砂の精神力が。否、弥海砂の夜神月への愛が異常であったせいで自白には至らなかったが。
既に弥海砂に使用している通り、そういった薬品の類を夜神月に使うことに対しては、全く以て良心の咎めなど私には存在しない。
しかし、だからといって私は、夜神月に自白剤を使用しようとはどうにも思わなかった。
夜神月が自分から監禁を申し出てきた時点で、私が違法薬物といった自白剤を使用する可能性を考慮していただろう。ならばあのキラが、対策を取らないとは到底考えられない。それこそ、キラとしての記憶を失うと言う、都合の良い方法のような。
どちらにしろ、どんな方法を用いてもキラとしての痕跡を探れないのであれば、もうここにはキラがいないのと同然だ。
「まぁ、脳波の測定くらいだったら、本当にお前が必要だと思っているなら協力するよ」
それはこの、散々脅してやったと言うのに、未だ余裕綽綽といった表情の夜神月からも見て取れる。彼は本当に自分がキラでないと確信しているように語る。これは演技でどうこうできるレベルではなく、仮に記憶を失う以外の方法であるとするならば、自分の記憶を操作でもしない限り不可能だろう。そんなことが可能な人間に対して、果たして自白剤と言うのはどこまで効果があるものか。
だから私はどうにも、彼の頭脳と言う方向にはキラを探ろうとは思えず、彼の提案を首を振って拒否する。
「いえ、結構です。催眠や心理療法で記憶が戻るとは思いませんし、月くんの頭脳がキラをこなすに相応しいことは既に確認済みです。私が知りたいのは、もっと、パッションとでも言うべきでしょうか。キラとしての精神性、信念の方です」
だからそんな概念的なものを探すのであれば、脳ではなく心の方。つまりは心臓に手が伸びてしまったのだと語れば、彼は私がそんなものを追い求めるとは思っていなかったと言うように、不思議そうに首をかしげた。
「つまり、犯罪者だけを殺すキラの動機や、犯罪者殺しに至る切欠が知りたいのか?」
「はい。たしかに月くんは正義感が強く、犯罪者のみを殺してきたキラの人物像と一致する部分は多い。ですが、だからといって、月くんは今、人を殺せる力を得たとしても、その力を使ってまで犯罪者を裁こうとは思わないでしょう」
この話は何も、キラのような顔と名前さえわかれば遠隔で人を殺せる能力がある人間の話だけではない。
キラの思想にあるような、凶悪犯が死ねばこの社会が平和になると言う事は、人間であれば一度は考えたことのある内容だろうう。だからこそキラは連続殺人鬼と言う認識ではなく、現代の救世主、新世界の神などと言う賞賛のされ方を市井の人間からされているのだ。
しかし、いくら死んでしまえと願っている相手とは言え、実際に念じて殺すような超自然的な能力が突然宿ったとして、本当に殺す人間が一体どれほどいるだろうか。
私は仕事柄、多くの殺人鬼を見てきたせいで殺人と言うものに対するハードルが低いように思えてしまうが、この感覚が一般的でない事はよく理解している。
普通の人間は、どれほどの恨みを抱いていようとも、殺人と言うその一線を超える事は多くない。
これが例えば犯罪被害者であれば、その復讐と言う動機が当てはまる。だがしかし、夜神月にはそのような経歴は一切ない。順風満帆といった、実に恵まれた人生を送ってきている。
では彼の家族はどうだろうかと周囲に目を向けてみると、確かに彼の父親は警察であり、犯罪者たちによって危険な目にも会ってはいるだろう。しかし、だからといって仮に復讐の心が向くとすれば、大抵はその原因となった一個人にのみ復讐心を抱くものだ。
キラは、そうではない。
キラは、独善的な価値基準とはいえ、特定の相手ではなく凶悪犯という存在を分け隔てなく殺している。犯罪行為と言うものそのものに対して恨みがあるのかとも考えられるが、しかしキラは刑期を終えた犯罪者に関しては裁きの対象とはしていない。もしも犯罪そのものに対して殺したいほど憎悪を抱いているのであれば、たとえ刑期を終えていようとも、犯した罪は変わらないとして裁きの対象に加えても良いようなものだ。
そう、キラは凶悪犯を殺していながら、罪に対する憎しみは抱いていない。否、仮に抱いていたとしても、キラは自身の憎しみに囚われることなどなく、己が望む新世界を作ろうとしている。
そんな愚かでありながら、どこか歪んだノブレス・オブリージュと呼ぶべき思想を目の前の男、夜神月のような聡明な人間が抱くだろうか。
「……まぁ、その点は、竜崎の言うとおりだ。たしかに僕はキラの思想に同感できる部分は存在するけど、僕自身が殺人鬼になろうとは思わないよ」
渋々といったような、けれど確かに同意の意思を示す夜神月の言葉に、そうだろうなと私も頷く。
夜神月は聡明な人間だ。この私が聡明であると認めてしまうほどに。だからこそ彼も、殺人というのがどれほど重たいものか理解しているはずだ。
愚かな人間であるほど、あるいは利己的な人間であるほど、他人の命をゴミクズのように扱うものは多くなる。私も夜神月がキラでなければ、そしてキラとこのような頭脳戦を繰り広げることがなければ、キラの事はただの愚かな人間が悪戯に人を殺せる力を入れてしまっただけだと片付けていたに違いない。
だが、キラが夜神月であるならば、私はキラの心を無視できない。
キラの正体が夜神月であると考えているからこそ、私はキラの心が、その動機が、こんなにも気になって、暴いてやりたくなってしまう。
「あなたは、どんな激情に突き動かされようとも、殺人鬼などにはなりはしないでしょうね」
「あぁ……それに、たしかに犯罪のない世界をと望んではいるけれど、わざわざ犯罪者を殺さなくても、僕には将来、父さんのような刑事になるという目標があるからね。犯罪の抑止力への目処は立っているし、それを不意にするような事はしない」
だから自分がキラであるはずはないと意味を含ませる彼の意識を理解しながらも、その話については平行線であると、私は同意することなく話を続ける。
「とまぁ、このように正義感も強く理性的なあなたのことですから。月くんがキラだったならば、何か境界線を越える切欠があった。私は、それが月くんのここに、心にあるのではないかと思ったのですが……」
しかし、当然と言えば当然の話だが、彼の胸元を触ったところで答えが掴み取れるわけでもない。あくまでこの行為は、私が自分の思考をまとめる際に、その象徴とでも言うべき夜神月の心臓に触れたいだけ、言わば儀式のようなものだ。
そんな私の行為を夜神月は先程の不機嫌の様子とは違って、とても不思議そうな視線で見つめると、一体どうしたんだという声色で問いかけてきた。
「竜崎、そんな『キラがキラになった切欠』を探ったところで、捜査には関係ないだろう」
夜神月の言葉が、鋭いナイフのように、私が今まで誰にも触れられることのなかった場所、心の深部とでも呼べる所を刺してくる。
一瞬、私の背中に寒気が走ったことに、己自身が驚く。だが、夜神月はそんな私の混乱に気づくこともなく、ごく普通の疑問といった形で問いかけを続けた。
「重要なのはキラの思想なんかじゃなくて、犯罪者を殺す手法だ。それさえ分かれば、キラ自身がどんな人間かなんてどうでもいい。情状酌量の余地なんてものが認められるとは思わないけれど、それを判断するのは司法だ。僕らはただ、キラを捕まえて、公の場に引きずり出すだけだ。それは、お前が一番よく分かってるはずだろう?」
あぁ、夜神月。お前はやっぱり聡明で、そして容赦のない人間だ。
「…………はい、そうですね」
喉の奥から、己が今行っている行為が、何の意味も持たないことを認める言葉を吐き出す。
夜神月の言う通りだ。キラの人格など、そんなもの、今更調べて何になる。確かにキラ事件の当初、まだキラと言う人間がこの世界に本当に存在するのか、これは神による人間への啓示ではないのだと証明しようとしていた頃であれば、キラと言う人間の人物像を捜査する事は意味があっただろう。
だが、第一のキラが夜神月であると確信している今となっては、目の前の子供が、一体どんな理由でキラになってしまったのかなど、考えたところで意味は無い。
順風満帆で、この先の未来、何の不安もなかったであろう彼が、キラなどという人類史上、最も凶悪な殺人鬼になってしまった理由など。私が勝つにしろ、キラが勝つにしろ、将来的に歴史の教科書にその名を残し続けるであろう殺人鬼、あるいは救世主の心の内側など、私とキラの推理ゲームにおいては蛇足に過ぎないはずだ。
それなのに、未だキラの心などと言うものにとらわれている私を嘲笑うように、夜神月は蠱惑的ともいえる微笑を携えて言った。
「無意味なことに熱心になるなんて、竜崎。まるでお前、キラに恋でもしてるみたいだよ」
私のこの執着とも言える感情を恋と表現した彼は、端から見ればロマンチストに映るのかもしれない。だが、私は彼が恋愛感情と言うものに例えたのが、あくまで侮蔑的なものだとすぐに理解できた。
「お前でも、恋なんてものをすると、馬鹿になるんだな」
「恋は人間を愚かにすると?」
「あぁ、そういう人間は多いよ。あはは、お前の人間らしい部分が見えて、ちょっとだけ親近感なんてものが湧いてきたよ」
クスクスと笑いながら、恋愛感情においては己の方が圧倒的に経験者であり有利だと確信している夜神月に、この子供は私のことを何だと思っているのだろうかと言う苛立ちが湧いてくる。しかし、夜神月が想像する通り、私は他者に恋愛感情と言う物を抱いた事は一度としてない。だから私が今行っているこの無意味な行為が恋による愚かさ故なのか、客観的に己の心情を把握することは難しい。
とはいえ、恋愛感情と言うものを真の意味で理解していないのは、己も同じだろうに、夜神月。
「……これが恋などという単純なものであれば、もっと即物的に解決できて簡単な話でした」
夜神月に揶揄われっぱなしと言うのも癪なため、それならばと私は、こちらが何度も経験のある性的なものに結びつけて話してやろうと口を開く。
「即物的って……?」
純粋な疑問を持った声色からして、温室育ちの秀才は私の『即物的』という言葉の意味をすぐに理解できなかったらしく、笑いがこぼれる。
夜神月の自室を監視していた時から薄々想像できていたが、彼は性的なものに疎い。あれだけ多くの女性と交際を重ねていたが、それもキラをカモフラージュするための策だったのであろう。十八歳という年齢の割には初な子供に、私は大人の遊びを教えてあげるような心地で、不思議そうにこちらを見つめる彼を穢すための言葉を紡ぐ。
「明け透けに言えば、キラである月くんと肉体関係を持つことで性欲の方向から発散します」
私がさらりと口にした言葉に、夜神月はわかりやすく顔を赤くした後、純情で性的なものを嫌う乙女のような仕草で、私のほうに弱々しい睨みをきかせた。
「じょ、冗談でもそういう事、言うなよ」
夜神月のこちらを責めるような声に『なるほど』と納得を覚える言葉が脳裏に浮かぶ。今まで処女を好む人間の気持ちがわからなかったが、こういう感覚か。と、恥じらう夜神月に性的な感情をくすぐられた。
この夜神月が抱いている羞恥心をさらに刺激したならば、彼は一体どんな表情を見せてくれるのか。加虐嗜好が微かに刺激されたが、しかしこの純情さに触れるたび、この人間はキラでは無いのだと言う事実を確認するような気がして、私の中の熱が急激に冷める気配を感じた。
「まぁ、そもそも恋ではないので、そんなことするつもりありませんが。ただ……」
私はそう、躊躇いのような言葉を口にしながら、夜神月の胸に爪を立てるようにして力を込める。
その痛みに、夜神月が微かに悲鳴を上げたが、なぜだか私はこの腕が通り抜けるような、何にも触ることなど出来ず、夜神月の胸を通り越して反対側の虚空に触れるような気がした。
それは、この場にはもうキラと言う、私が命をかけ追い求めた、無意味な心の底まで知りたいと願った存在が、決して居ないのだと言う証明のように思えたからだろうか。
「私のこの飢えは、キラの心に触れなければ満たされません」
己の感情を執着でもなく恋でもなく、飢えであると定めて。
私は確かに夜神月の中にあったはずのキラを追い求めて、何にも触れられない苛立ちに、一人呻き声を上げた。